第1話

 不思議屋マドゥカは、常冬の島ジマーにある。

 創業四十三年。石鹸やバケツなど生活雑貨を扱うことから始まった小さな店は、娘婿である二代目の手により、魔術・魔法の道具――即ち魔具と魔法薬を扱う店になり、まだ若い三代目候補が、今は店主代理を務めている。

 春は、西からやって来る。

 常冬の島と呼ばれるジマーにも、春はやってくるし、夏も来る。秋にはベリーの実が文字通り腐るほど落ちている。

 だが、今年の春は足が遅い。

 不思議屋マドゥカは、いまだ白い雪の中に埋もれるようにして、静かに佇んでいた。

(今年は、いつになるかな)

 不思議屋マドゥカの店主代理、アレハンドロ・ボルダ――愛称ハーディは、魔具カタログから目を上げ、壁にかかっているカレンダーを見た。

 四月に入ってから、すでに十五日が過ぎている。

 雪解けの音は、まだ轟かない。

 ここから十ダリュコー西にあるチェスイー川の川幅は、およそ三ダリュコー。冬の間完全に凍てつく川が再び流れるときの、体の芯を突き上げるようなボーンという音は、春の訪れとクジラ漁の解禁を告げる大事な合図だ。

『はああでぃい』

 のんびりした声が聞こえた。ハーディは足元に目を落とす。

 火鼠クルポッカのブックマークが、もうよくは見えない目で、ハーディを探している。

 カタログを閉じ、彼を抱きあげる。すっかり艶のなくなった毛並みを撫でながら、ハーディは優しく尋ねた。

「なに? ブックマーク」

『はるわあ、まだかなあ』

 半ば眠っているかのような声。ハーディは優しく答える。

「まだだよ。ブックマーク」

『そおかあ』

 ひと息ついて、ブックマークは言った。

『はるわあ、いつ来るかなあ』

 胸をちくりと刺す、小さな痛み。わざと元気な声を出して、ハーディは言った。

「もうすぐだよ。ブックマーク」

 ハーディの慰めは、

『いんや、来ないね』

 別の声にさえぎられた。

(そういえば来てたんだっけ。忘れてた)

 カウンターの上に鎮座する、真っ白な塊に目を向ける。

 火狐アーガラックのランナウェイが尻尾に埋めていた顔をあげ、にやりと笑う。どこか得意げに彼は言った。

『なんせ呪いだからな。この寒さは』

「まだいたの? ランナウェイ」

 ハーディのそっけない言葉に、途端にランナウェイの毛が逆立った。カウンターに足を踏んばって、彼は叫ぶ。

『おい! まだとは何だよ、まだとは!』

「だって、もうかれこれ一時間はいるし」

 大体、ランナウェイはこの近くに棲んでいるわけではない。彼はチェスイー川向こうの、白樺の森に棲んでいるのだ。

「そろそろ日が暮れるよ。帰ったほうがいいんじゃない?」

 どこまでもつれないハーディの態度に、ランナウェイはますますいきり立つ。

『おい! それが遠路はるばる遊びに来てやった友だちに対する態度か?』

 ハーディはきょとんとした顔で言った。

「ぼくたち、いつ友だちになったっけ?」

 ランナウェイは「はあ」、とため息をついて、再び丸くなる。自らの尻尾に再び顔を埋めた彼は、恨めしげにハーディを見上げた。

『冷てえなあ。三度会って同じ釜の飯を食えば、もう友だちだろう?』

「それって、ぼくんちのご飯を盗みに来ただけじゃん」

 ちなみに、ランナウェイが人の家屋に入って食べ物を盗んだ回数は数知れない。

 追われる彼を、ハーディが何度匿ってやったことか。

(友だちじゃなくて共犯者だよね、それは)

自分が犯罪の片棒を思いがけず担ぎ続けたことに、今更ながら気がついた。

(今度やったら、捕まえてキツネ鍋にしちゃおうかな)

 ハーディのちょっと物騒な考えに気づいたのか、ランナウェイが警戒態勢をとる。

『おいおい。まさかこのオレ様を売る気じゃないよな? 相棒!』

 今度は相棒と来たか。

 ランナウェイの調子の良さに少しあきれながらも、ハーディは尋ねる。

「ところで、春は来ないってどういう意味? それに呪いって?」

『そうそう! それだよ、それ!』

「だから、どれ?」

ランナウェイは挫けない。誇らしげに、彼は言った。

『こいつはな、常冬の女王の呪いなんだ! あの“断絶の冬”が、ここにもやって来るんだよ!』

「断絶の冬、ねえ」

 大した関心もなさそうに、ハーディは言った。

 断絶の冬とは、およそ五百年ほど前に起こった飢饉と大寒波のことで、常冬の女王とは、それを起こしたとされている精霊の女王。ここから五ダリュコーほど東にある『氷宮殿ザミュルザーチ』に住んでいるとされているが、もちろん、ハーディは会ったことがない。というより、本当にいるかどうかも定かではない。

一応、確かめてみる。

「それって、白樺の女王様が言ってたの?」

『もちろんさ!』

 胸を張るランナウェイに、ハーディが大きなため息をつく。

 この島の先住民は大きく分けて、三つ。

 一つが、海で漁を生業とする”海の民”。

そして、この国――スキターニエが建国されたときに、国に組み込まれることを拒んで、”海の民”から分かれた”氷の民”。

 そして、最後が白樺の森に住む”森の民”。

 ”森の民”は『白樺の女王』と呼ばれる、一本の闇白樺ベリオサを女王と崇めていて、事あるごとに神託を求めるのだ。白樺の森の住人であるランナウェイも、この女王にいたく傾倒していて、最後は決まって、話をこう締めくくることになる。

『これも、女王のお導きに違いない!』

 なぜ常冬の女王が引き起こす断絶の冬が、白樺の女王の導きになるのかはよくわからないが、つまるところ、長すぎる冬のせいでランナウェイも暇を持て余しているということだろう。毎年雪が柔らかくなる頃を見計らって穴を掘り、それにはまった子どもを遠くからながめて笑うというのが、ランナウェイのお気に入りの遊びなのだ。しかし、こう雪が固くては子どもたちもなかなか外を駆けまわってはくれない。それに、ランナウェイにはハーディ以外の人間の前には姿をさらせない、ある理由があった。

『はあでい』

 腕の中にいるブックマークが身じろぐ。すっかり彼のことを忘れていた。あわてて、ハーディは尋ねた。

「どうしたの? ブックマーク」

 鼻をすんすん鳴らし、不安げにブックマークは言う。

『はるわあ、こないの?』

「そんなことないよ。お休み、ブックマーク」

 腕の中で力なく暴れるブックマークを、カウンター隅にある巣箱に運ぶ。

 巣箱の中では、彼の奥さんと二匹の子どもたちが寄り添いながら、すうすうと寝息を立てていた。巣箱に降ろされたブックマークは、しばらく不安げにきょろきょろと辺りを探っていたが、やがて彼の家族をその身で包んで、健やかな寝息を立て始めた。

 ほっと一息ついたところで、ハーディは意地悪なキツネにもの申す。

「あんまりブックマークを不安にさせるようなことは言わないでよ。もう年なんだしさ」

『……ふん』

 ランナウェイが拗ねたように、カウンターから飛び降りた。

『老いぼれの心配ばっかりしやがって。こっちは気を使って、遠路はるばるお前に会いに来てやったのにさ』

 半ばやけになったように、彼は言った。

『望み通り帰ってやるよ。ふん! こんなしけた店、二度と来るもんか』

 言うが早いか、ランナウェイは、とっとと店を出て行ってしまった。

「なにあれ」

 あきれたように呟くハーディの頭上に、声が降ってくる。

『寂しいんだよ、あれも』

「マドゥカ」

 天井を見上げて、ハーディは言った。

 移動家屋、マドゥカ。彼女も立派な魔獣の一つだ。ハーディは生まれたときからこの店、つまり、彼女の内部に住んでいる。ちなみにマドゥカは種族名で、彼女にももちろん、ちゃんと名前があるはずなのだが、彼女いわく『あたしの名前はね、あたしの旦那様だけが呼んでいいんだよ!』とのことで、いまだに教えてもらえない。もっとも、彼女の名前を呼ぶ旦那さまが本当に現れるかどうか怪しいものだと、ハーディは常々思っているが。

『あれの仲間も、ずいぶん数が減っちまったからね』

「……」

 ハーディは目を伏せ、めまぐるしい変化について思いを馳せる。

 もともと不思議屋マドゥカがあったヨールカは、ほんの二、三十年前まで、閑散とした寒村だった。そこに、一人の天才が産まれた。

 

 フェルオード・ハリオット。


 ハーディの親友、ダーティの父親で、彼は、“聴こえる者カルディアでもないのに、なぜか魔獣――普通の獣と違い、魔力を帯び、魔術・魔法の行使が可能な獣たち――に好かれるという、特別な人間だった。

 十四才の少年は、おのぼりさんで出かけた王都で、魔獣がずいぶん貴重なものとして扱われていることに驚き、こう言った。

『おれの友だちには、もっと強そうなのがいるぜ』

 嘘ではなかった。

 彼は翌日、火豹リンキスを連れて現れ、にこにこしながら言った。

『な、言った通りだろ』

 その場で彼は上級召喚師の称号を与えられ、それ以後伝説の召喚獣売買人として勇名を馳せていくことになる。天才は天才を呼ぶと言われているが、偶然にもその頃、後に、魔法薬の調合ならこの男、と呼ばれる少年が、王都で魔法薬学を学んでいる真っ最中だった。ひょんなことから互いの存在を知った二人は意気投合し、やがて、彼らはフェルオードの故郷に腰を据えることになる。

 それがハーディの父、ジムノベティだ。

 ヨールカは、伝説の召喚獣売買人と、そして、魔法薬の天才のおかげで瞬く間に有名になった。また、ジムノベティが『不思議屋マドゥカ』を継いでからは、村には魔道具を扱う店と商人が大挙して押し寄せるようになり、”海の民”が獲る海の恵みは、村の名物料理として、珍重されるようになった。

 アーガラックの毛皮が、高値で取引されるようになったのも、その頃からだ。

その保温性もさることながら、冬毛なら白。夏毛なら、太陽に当てる期間によって、赤からオレンジ、オレンジからピンクに変わる珍しい毛皮は、本土の上流貴族や金持ちたちをたちまち虜にした。

 村が町になっていくということは、人が自然に値段をつけていくということ。

 ランナウェイは、物心ついたときには、すでに一人ぼっちだった。

 光モミノキの森にはまだ少数のグループが残っているらしいが、群れの一員として受け入れられるには、ランナウェイはあまりにも『町のキツネ』すぎるのだろう。

『あれがいいつれあいを得るのは、一体いつになることやら』

大いなる同情を込めて、マドゥカが言った。

「だけど、ブックマークにまで当たることはないじゃないか」

 言って、ハーディは巣箱を見る。

 三年前、突然この店に現れたときから、ブックマークはおじいさんだった。最近はもっとおじいさんになって、若干ぼけてきている。長すぎる冬が、老いたブックマークにはひどく堪えるのだろう。年が明けてからは特に良くなくて、このままだと春を迎えられるかどうかは微妙だ。ブックマーク自身、それを敏感に感じ取っているらしく、事あるごとに春はまだかと聞いてくる。

 春が、待ち遠しい。

 だが、殴られるようなこの島の厳しい寒さが、ハーディは嫌いではない。

 冬が長い分だけ、人々が互いの温もりを求めて、心を擦り合わせているような、そんな気がするからだ。

『ま、何はともあれ、雪が溶けたら、あれに会いに行ってやるんだね。なんだかんだ言って、あんたのことを心配して、この雪の中来てくれたんだから』

 マドゥカの声に我に返る。ハーディは尋ねた。

「心配?」

『あんた、自分じゃ気づいてないだろうけどね。ダーティが行っちまってから、本当に元気がないよ』

「……」

 ハーディは、もう一度カレンダーに目をやる。

 そして、ほんの一月ほど前は、いつまでも続くと思っていた日常を思い出した。

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