空と海のあいだ

青猫兄弟

空と海のあいだ

 ヨットハーバーを出て二十分程たったとき、私は旅の目的を忘れかけていた。


 空はどこまでも真っ青なスクリーンで、海は透き通り珊瑚礁を泳ぐ魚影をいくつも目に捕らえることができた。


 本土の飛行場を出るときには、日陰では寒さを感じる程度の春の陽気だったが、こちらは文字通りの常夏で、湿度の低い快適な暑さが私の心を沸き立たせた。


「この辺りだな。せっかく絶海の孤島に来たんだから、もっと観光地っぽいとこに行けばいいものを、本当にここに潜るのか」


 スキューバインストラクターでもあるキャプテンが、呆れたように私に視線を向ける。投錨とうびょうし、ボンベのチェックを行っている。


 髪を薄めの茶髪にして、全身は引き締まり日に焼けている。年齢を感じる話し方や雰囲気の割に、見た目は若々しい。左手の薬指に指輪を二つ重ねづけしてあるので、既婚者なのだろう。


「反対側の浅瀬なら、イルカをよく見るぞ」


「あは、ありがとうございます。イルカ、見たいです。でも、今回は英霊になった伯母に会いに来たので」


「英霊ね」


「キャプテンは出征したんですか?」


「まぁな。死に損なったから、英霊にはならなかったけどな」


「どうして戦争で生き残った兵隊さんって、卑屈になるんですか? 国のために命懸けで働いて、運良く生き残ったんだから、もっと誇りを持って堂々として欲しいな」


「ふふっ。運良く生き残った、か。ほれ、最終チェックだ」


 キャプテンは真っ黒に日焼けした腕で、手早くダイビングの準備を進めていく。

 鍛え上げられた腹筋の脇に銃創のようなものを見つけたが、私は触れないでおくことにした。


「よし、お嬢さんから降りな」


 私が飛び降りて船から距離を取ると、キャプテンも静かに着水する。

 船は現地人の若者に任せるようだ。


 着水後のチェックを終えて、キャプテンが潜水開始を指示する。


 薄青に染め付けられた水に、改めて顔をつける。目の前に広がる珊瑚礁の海が、十メートル程離れたところで途切れているのが目に入る。


 キャプテンについて、少しずつ深度を下げながら、珊瑚礁の端へ向かう。


 途中、キャプテンは珊瑚の隙間を指さす。


 近づいてみると、大きめの金属の筒のようなものの中に蟹が二匹住み着いている。その筒は薬莢というものだ。


 伯母が搭乗したスチールアーミーの右手に付いたマシンガンのような武器、その薬莢やっきょうだろうか。

 私が会ったことのない伯母が、命懸けで戦った証拠だと思うと、胸に誇らしさが満ちていく。


 キャプテンについて浅瀬の切れ目に近づくと、急激に深さを増す海底の様子にゾッとする。

 海底は切り立つ崖のようになり、目算で十五メートル以上深さが増している。


 その底は、透明度の高い海でもさすがに少し薄暗い。白い砂が広がる中に半分だけ埋もれた迷彩柄の塊が目に入る。


 キャプテンの指示で、また少しだけ深度を下げる。


 私の胸中には、棺桶という言葉が繰り返されていた。


 戦時中に量産されたスチールアーミー、一八ひとはち式機甲歩兵は高い練度が求められるパイロットを守るため、操縦席周りの強度が高く、半壊しても操縦席は無事であることが多かったという。


 しかし、そのために脱出し損ない、減っていく一方の水と糧食と酸素の残量を眺めながらゆるやかな死の宣告に脅え、泣きながらジワジワと死んでいくパイロットも多かったと聞く。


 深度を下げる。


 通番241が左肩にペイントされた伯母の一八式機甲歩兵は、右足がもげているようだった。片足をやられ、倒れ、海に沈んでいったのだろう。


 伯母は孤独で緩やかな死を選んだだろうか。それとも、燃え盛る絶望のままに自決したのか。

 固く閉まった扉は砂に埋もれ、中の様子など窺いしることもできない。


 キャプテンが浮上のサインをする。私は少しだけ深度を上げる。伯母の機甲歩兵から離れる。


 顔の知らない伯母が生きていた場所。伯母が死を覚悟した場所。少しずつ、機甲歩兵の姿が水の靄に覆われていくように見えた。


 帰船後、ゆっくりヨットハーバーに戻りつつ、装備を確認して外していく。


「伯母さんの供養はできたか」

 キャプテンが船のエンジン音に負けない強い声で問うてくる。


「伯母は、機甲歩兵の棺桶の中で、どんな気持ちだったのかなって。とても悲しい気持ちになりました」


「241の小寺少尉なら、話を聞いたことがある。仲間を逃がすために、アルビオンの揚陸艦隊に一人で立ち向かったんだ。たった一人だ」


「そうだったんですか。初耳でした。あの、将来を誓った相手がいたという話を聞いたんですが、何かご存知ないですか」


「さぁな。そこまでは」


 私は荷物から、伯母の遺品を取り出す。今はならないオルゴールだ。


「これ、伯母が婚約者に貰ったものらしくて。最期の出撃前に郵便小包で生まれたばかりの私宛に贈られたらしいです。壊れて、音がならなくなっちゃったんですけど」


「そうか。そのタイプなら俺に直せそうだな。どうする」

「いいんですか」

「ああ。出発は」


「明日の午後便です」

「なんとかなるだろ」


 民宿に戻ったときには、既に日が傾き初めていた。


 結局、伯母の恋人のことは分からなかった。


 英雄となった伯母の話を聞いても、始め程には興奮しなくなっていた。伯母は、死んでも遺族恩給という形で家族をも守った。


 偉大なパイロットで、家族の救世主でもあった伯母の足取りを求めてみて、私がひたすら知りたくなったのは、伯母が幸せだったかどうかだった。


 本土に帰るセスナ機の前で、キャプテンが見送りに来てくれた。渡された袋の中には、土産物の干物と、更に梱包されたオルゴールが入っているそうだ。


 私がセスナに乗り込んだとき、キャプテンが照れ臭そうに左手を振って見送ってくれた。

 私はふと、オルゴールの包みを開ける。シンプルながら可愛らしい模様に彩られたそれを取り出し、蓋を開ける。


 穏やかな音。ふたつの旋律が歩み寄りまた離れていくのを繰り返すような曲だ。そして、回転する紳士淑女の首には、それぞれに金の指輪がかけられている。


 動き始めた飛行機の窓から、私は慌ててキャプテンを探す。

 ――彼の左手の指輪は?


 セスナは加速を始め、あっという間に彼の姿が見えなくなる。


 私はため息をつく。


 そして、きっと伯母は幸せだったのだろうと、そう確信する。

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空と海のあいだ 青猫兄弟 @kon-seigi

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