獣人③
「ごめんなさい。昨日は、迷惑かけちゃったね。本当にごめんなさい」
「あぁ。いいよ、別に」
俺は、俯いて答えた。昨日、初めて参考書を買おうと書店に立ち寄った。その帰り道、俺は見てしまった。先生が、同じクラスの佐々木と歩いているところを。
佐々木は、学校では特別な存在だった。学年での成績は常にトップであり、全国模試でも高順位を常にキープしていた。先生達からも厚い信頼を得ており、バカな不良生徒である俺とは真逆な人間だった。
二人は、人気のない場所まで無言で歩いていき、改装中のために立ち入り禁止となっている雑居ビルに入っていった。
俺は、周りに誰もいないことを確認するとその建物の中に体を滑り込ませた。
佐々木は、先生に何かを要求していた。先生は、ショルダーバッグから茶封筒を取り出すと佐々木に手渡す。中身を見なくても、それが金だと分かった。
「もうこんなことは最後にしてちょうだい。佐々木君の将来にもこんなこと悪影響よ」
「よくもまぁ、そんなこと言えるな。偉そうにしやがってっ! この人殺しが。僕は、見たんだ。お前が、他校の女子生徒と一緒に廃ビルの中に入る所を。そこで、お前は。お前は……化け物になった! そして、そいつを襲ったんだ。食ってた。この! このっ、化け物。だから、今更まともなこと言っても全然説得力ないんだよ」
佐々木は、言い終わると憎らしげに地面に唾を吐いた。興奮しているせいか、呼吸が荒い。
「……………」
先生は俯き、何も言わなくなった。
「でもよ、僕はあんたの味方だ。こうやって、金さえ渡してくれたらこれからもずっと黙っててやるよ。まぁ金が尽きたら、その体で払ってくれればいいぜ。アンタは可愛いからな。それにその透き通るような肌もそそる」
下卑た笑い声が、二十坪ほどの部屋に響き渡る。床には、AVケーブルや電話回線ケーブルなどの配線が、蛇のようにとぐろを巻いていた。
今すぐ、この柱から出ていって佐々木の顔面を思い切り殴りたかった。なんでかは分からないが、先生がこんなザコにいいように扱われていることが我慢出来なかった。
胸にこみ上げてくる怒りが、沸点に達しようとしていたその時。
先生に異変が起きた。
「……っ」
急に胸を押さえ、蹲った。苦しそうに喘いでいる。
「はな……れ、て。お……ねが……ぃ」
「な、なな、なんだよっ! お前」
ホースのような太い血管が浮かんだ腕、丸太のようにどっしりとした足。壁のような背筋は、汗が蒸発し、そこだけ白んでいた。
十秒ほどで、あんなに華奢だった先生の体が、見たこともない化け物に変異した。
腰を抜かして尻餅をつく佐々木。そんな佐々木と同様に俺もショックを受け、身動きがとれなかった。寒くもないのに全身に鳥肌が立っていた。
俺は震えながら、それでもこの光景から目を離せないでいた。
サメの歯のようなものが、口の奥までびっしりと生えており、口は常に半開き状態。ヨダレを周囲に撒き散らしている。自分でも認めたくない、先生の変わり果てた姿だった。
その目は、狩をするときのライオンのように大きく、緑色をしていた。人間のような白目がなかった。
「くるなっ、化け物! 来るなって言ってるだろ! 畜生がっ」
『フルルルルルッ』
「頼むからぁ、助けて。ぼ、僕が悪かったっ! もう金は要求しないし、アンタが化け物だってことは絶対にっ、誰にも言わない。約束する」
嘘だ。コイツは、絶対に喋る。俺には、佐々木の心が手に取るように分かった。
「やっ! て、がふぅびゅぶっ」
佐々木の喉元に噛み付いた先生が、思い切りその肉を剥ぎ取った。喉を抉られた佐々木は、首から大量の血を流しながら、ただ呆然と眼前の先生を見ている。
自分に何が起きたのか、理解できていないようだった。先生の巨大な手で、頭を鷲掴みにされた佐々木は、声を失った口を動かした。
『ば、け、も、の』
バキュッ。
頭蓋骨が砕ける音がし、マネキンのように佐々木は動かなくなった。佐々木は、僕の目の前で死んだ。初めて見る死体だった。テレビや映画のような作り物じゃない。本物の死体。
佐々木を粉々にした先生は、満足そうに雄叫びを発し、そして倒れた。倒れた先生の体は、風船が萎んでいくように小さくなり、一分ほどで元の姿に戻った。先生がさっきまで着ていた衣服は、ただの布切れと化しており使い物にならなかった。俺は、シャツを脱ぎ、それをそっと先生にかけた。
先生は、まるで寝ているかのように静かだった。死んでいるんじゃないかと心配になったほどだ。尻ポケットから、震える指でタバコを一本取り出すと火をつける。紫煙を吸ったり、吐いたり繰り返すとさっきまで鼻にこびりついていた血生臭さが幾分緩和され、吐き気もおさまった。
信じたくない現実。笑顔をいつも絶やさない先生とさっき目の前で佐々木を殺害した先生。どちらが本当の先生なのか分からない。
「タバコ・・・・・・ダメだよ」
虚ろな目をして、俺に注意をする先生。
「いいだろ、今ぐらい。これ吸ってないと気がおかしくなりそうなんだよ。今だけだ、許せ」
「いつから見てたの?」
「佐々木と先生が、このビルに入るところから」
「……そうなんだ。ごめんね、こんな残酷なものを見せて」
「いいよ。気にするな」
「気にするって。普通……。教え子殺すなんて教師失格だね。ってか、人間失格」
俺は、黙って先生の言葉を聞いていた。今、俺の前にいる先生は俺の知っている先生で。佐々木を殺した化け物とは似ても似つかなくて。これが、悪い夢ならどんなに良かったか。でも今起きたことは、紛れもなく現実だった。
「九重、私はどうしたらいい? 警察に自首してもいいけど、信じちゃくれないだろうし」
「とりあえず、この死体を片付けよう。このままじゃ、マズイ。俺は、叔父さんのワゴン借りてくるから。先生は飛び散った血を綺麗に拭いてろ。指紋も出来るだけふき取れよ」
「九重は、免許持ってないでしょ? ダメだよ、そんなことしちゃ。それに、九重まで巻き込みたくないし。私一人でなんとかするから。だから、もう。帰って」
「免許なくても運転ぐらい出来るんだよ。それに、アンタ一人残したら自殺しかねないからな。一日に二体も死体は見たくない。とにかく、今は俺の言うとおりにしろ。馬鹿なことするなよ! 絶対」
「……迷惑かけてごめんなさい」
俺は、走った。急いで家に帰り、叔父さんのワゴンを借りて、またこの雑居ビルに戻った。もしかしたら、首を吊っているんじゃないかと心配したが、それは杞憂に終わった。先生は、俺の指示通りに血を拭いていた。何故か半べそをかいており、時折鼻を啜っていた。
「ちゃんと言うとおりにしてるな、偉いぞ」
「……うん。なんか、九重。先生みたいだね」
俺は、指紋を丁寧に拭き取った。車の荷台に死体を包んだブルーシートを乗せると、ただひたすら車を走らせた。
ダムに沈んだ村を通り過ぎ、舗装されていない道を強引に突き進んだ。とある山中で車を降り、先生が見つけた大きな沼に、重りをつけた死体を沈めた。
俺は、祈った。死体が浮かんでこないように。誰にも見つからないように。
十一時を過ぎ、ようやく俺たちは、自分達の町に戻ることが出来た。白バイに捕まるんじゃないかと常に緊張していたので、疲労がハンパじゃなかった。
「じゃあな、先生」
「……今日のことは」
「誰にも言わないよ。俺を信じろ」
車を降りた先生は、何か言おうと迷っているようだった。
今は元気がないが、明日にはいつもの先生に戻っているだろう。再び車を発進させようとした俺に、
「どうしてこんなことするの? 九重には、将来があるのに。私のせいで人生がめちゃくちゃになってる。こんな危険なことさせてしまって。どうやって私、責任取ればいいの」
「先生が責任を感じる必要はないよ。だって、これは俺が勝手にやったことなんだから。アンタはアンタらしく、また明日から教師やってればいいんだ。俺みたいなバカな生徒の相手をしていればいいんだよ」
「私が、化け物で恐くないの? 九重は」
先ほどの映像がフラッシュバックし、心臓が痛み出す。肉を裂く音。飛び散る鮮血。臭気。どれ一つとっても一生忘れることは出来ないだろう。
「恐い。正直、すげぇ恐いよ。でもな、先生だって好きで人間襲ってるわけじゃないだろ。なら、仕方ない。仕方ないって思うしかない。俺のことを信じてるって前に言ったよな、アンタ。なら俺も先生を信じるよ」
「九重……………」
「だから、今までと何も変わらない。アンタは先生だし、俺はその生徒だ」
いつの間にか、先生と目と目が合っていた。俺は、急に恥ずかしくなり視線を逸らした。先生も同じらしく、わざとらしく自分の足元を見ていた。
『 ありがとう。私を信じてくれて 』
夢から覚めた僕は、ソファーから体を起こし、立ち上がった。壁時計で時刻を確認する。あれから、まだ二十分と経っていなかった。その割に随分長い間、夢を見ていた気がする。肩を回すとギシギシと痛んだ。
僕は、地下室に下り鉄扉を開けた。その瞬間、生々しい血の臭いが鼻を刺した。部屋の中央では、全裸で倒れている霊華がいた。露出した肌は、相手の血で真っ赤に染まっていた。
「霊華。そろそろ起きな」
「ひか……る? う~ん。おはよう」
「まだ夜だよ。寝ぼけてるね。立てそう?」
僕の両手を掴んで、ようやく立った霊華が部屋を見渡す。部屋中、血と肉片が飛び散り、足元もテラテラと赤黒く濡れていた。
灰色だった部屋が、今だけ赤い部屋へと変わっている。そして、以前ここにいた少女は跡形もなく消えていた。
「また……わたし化け物になったんだね。フフ、そっか。そうなんだ。もう笑うしかないよ、ほんと」
「霊華?」
「こんなこと、いつまで続くんだろうね。光がさ、なんの罪もない少女を誘拐してきて、この部屋で何日も監禁してさ。化け物になった私が、その少女達を生きたまま食べてる。なんなんだろうね、これって。地獄でもこんな酷いことしないよね、たぶん」
「霊華……僕は、霊華さえいてくれたらそれでいいんだ。だから、そんなに自分を責めないでくれ。ツラくなる。どんな難題も二人で乗り越えていくって決めただろ? そのために必要なことなら僕は何だってするよ。今更、天国に行きたいなんて図々しいこと思っちゃいない。僕はただ、生きている間は、霊華と一緒に幸せに暮らしたいんだ」
「私だって同じ。いつまでも光と一緒にいたい。幸せだもん、今」
僕は、霊華と抱き合った。一緒にシャワーを浴び、僕は丁寧に霊華の体をスポンジで洗った。赤い泡が、排水溝に吸い込まれていく。
しかし、僕たちの罪までは洗い流してはくれない。この罪は、死んでも体を離れない。
「くすぐったいよぉ、ひか……ぅん」
体をねじりながら、僕の腕から逃げようとする。霊華の甘えた声は、僕の脳を興奮で麻痺させる。
「シャワー浴びながらするっていうのも興奮するよね。霊華もだろ?」
「……………変態」
背中から抱きしめる。自分の体がドロリと溶け、霊華の体の一部になっていくようだった。霊華から漂う花の蜜のような香りに、眩暈がした。
「っ……好きだよ、光」
甘い唇から、熱い吐息が漏れた。潤んだ瞳には、僕だけが映っている。霊華を愛おしいと想う。一生、守り抜く。改めて、自分に誓った。
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