獣人②


これは、僕の命より大切な記憶ーーーーー



「あっ! またそんなところでタバコ吸ってぇ。ダメだよ、一応まだ高校生なんだから」




「またかよ。アンタも懲りないね。もう俺なんか無視してればいいのに」




「無視は出来ないよ。一応、私の教え子だし」




俺は、この女が嫌いだ。何かと俺の邪魔をするから、めんどくさかった。




「タ・バ・コ。消しなさい」




そんなに見つめられると落ち着いてタバコすら吸えない。本当に邪魔な女。俺は、タバコを足元に捨てると靴底でタバコが粉々になるまで踏み続けた。




「そっ! それでいいのよ。授業には出ないの? このままじゃ、どんどんおバカさんになるよ。来年は、受験でしょ?」




この女、正気か? こんな俺が勉強したところで、どこの大学が入学を許可するって言うんだ。それに、今更何をしても手遅れ。学校の成績も学年最下位だしな。




「受験なんかしない。アンタ、今の俺の成績知ってんのか? つまらねぇ冗談言うな」




「冗談? 何が。九重はさ、やれば出来る子だって思うけどな。勉強だって、ちゃんと真面目に机に向かえばすぐに成績もアップするよ。絶対」




「はいはい。じゃあ、俺は帰るから」




俺は、振り返らずに歩き出した。アイツは、子供のように口を尖らせて拗ねていた。




「わたし」




今日は、何するかな。あぁ、つまんねぇ。毎日、毎日。同じことの繰り返し。本当、つまんねぇ町だ。ここは。




「九重のこと信じてるからね!!」




俺の足が、止まった。無意識に。止まったと言う事実に自分自身が一番驚いていた。




「なに?」




「私はさ、九重を信じてるよ。だから、私だけは裏切らないでね。ショックが大きいから」




「バカだな、お前。ほんと、バカだ。俺を信じるなんて」




「うるさいっ! そんなにバカバカ言うな。もう決めたの。私は、アンタを信じるって」




校門を出てアイツの姿が見えなくなってから、俺は一度だけ振り返った。巨大な校舎が、俺を押し潰そうとしているようだった。俺みたいな人間のゴミを排除しようとしている。


このバカでかい校舎には、生徒が八百人以上、それと五十人以上の先生がいる。でも、その中でアイツだけが俺を信じてくれている。


アイツは、嘘をつけるほど器用じゃないから。俺は、凄く動揺していた。アイツの「信じる」って言葉が、いつまでも俺の頭に鳴り響いていた。




「朝だよ。起きて」




「……」




夢。懐かしい夢を見た。




「遅刻しちゃうよ、光」




「起きてるから、そんなに激しく体を揺すらなくていいよ」




霊華は、僕の体をゴロゴロと布団の上で転がしていた。目が回る。




「おはよう」




「うん。おはよう」




霊華は下着を着ていたが、僕は全裸だった。なんとかトランクスだけを発見し、身に着けた。


霊華は、僕の顔を嬉しそうに見ていた。




「どうしたの?」




「ううん。光が、まだ私と一緒にいてくれたから嬉しくて」




「そりゃ、いるでしょ。夫婦なんだから」




「そうだよね。それは、分かってるんだけど」


悲しそうに目を伏せる。

どうしていいか分からなかった。でも何かしなくちゃいけないと思い。そっと、壊さないように霊華の顔を僕のほうに向かせるとオデコに優しくキスをした。




「くすぐったいよぉ」




キスを繰り返す。霊華の白玉のように柔らかい頬やピンク色した唇にもキスをした。


 


「っもう! 本当に遅刻しちゃうよ」



僕の体を両手で突っぱねた。




「イテテ。少しやりすぎた。そろそろ準備して行こうかな」




「うん。それがいいよ。コーヒーだけでも飲んでいくでしょ? 準備するね」




霊華は、リボン付きのネグリジェを着ると一階に降りていく。僕は、そんな妻の後姿を名残惜しそうに見ていた。





今日の授業は、正直暇だった。


センター試験で出された過去十年間の問題の中から、間違えやすいものを僕が抜粋し、三枚のテスト用紙の中に収めた。




「……」




それを黙々と解いていく生徒。テストも終わり、授業時間が微妙に残った。


僕は、教室のドアを開けた。隣のクラスでは、まだ英語のリスニングのテストをしている。早めに生徒を帰宅させようと思ったが、これでは無理そうだ。仕方ないので、今更言う必要もないような受験対策で時間を潰すことにした。




「みんなは分かってると思うけど、センター試験のウエイトは大きい。先生の頃は、国公立大学を受験する人しかセンター試験は必要じゃなかったんだけど、今では私立大学でもかなりの大学がセンター試験も加味している。だから、今解いてもらったテストは、必ず家に帰って自己採点をしたほうがいいよ。センター試験は、解いた問題の量に比例して点数が上がるからさ」




「先生が高校生の頃は、頭は良かったんですか?」




このクラスで一番元気の良い剣道部所属の天海誠(あまみまこと)が、手をあげて質問してきた。




「頭は、良くなかったよ。だから、努力した。誰よりも勉強したと思うよ。一日の大半、勉強机の前にいたし、飯ですらそこで食べた。口に食べ物を入れながら、参考書を読んでたよ」




「うへぇ、マジかよ。凄いっすね」




天海は、心底驚いたように言った。彼女の小麦色の肌は、夏を感じさせる。




「受験するのは、親のためでも先生のためでもない。自分のためだよね。だからさ、しっかりと目標を持って、君たちには頑張ってほしい。偏差値の高い大学に行くのもいいと思うけど、そんな腕試しのようなことをするのはガキだとも思う。自分がさ、将来何になりたいのかをじっくりと考えて、そのために必要な知識、経験を身につけてほしい」




僕の話を静かに聞いていた天海が、突然立ち上がった。




「私……先生みたいな教師になりたいです!」




「えっ」




他の生徒が、天海と僕を交互に見ている。その目は、好奇に満ちていた。教室内が、ザワつく。




「憧れます。先生みたいな人」




天海の目は、純粋で濁りがなく、そんな目でいつまでも見られていることに僕は耐えられなかった。




「ハハ、なんだか照れるな。でもありがとう。天海も自分の夢を実現してね」





天海…………。




お前は知らないだろ? 




先生は、誘拐魔なんだ。世間を騒がしてる犯罪者。お前と同じ女子高生を誘拐して、家の地下室に監禁してる。お前は今、そんな人間に憧れてるって言ったんだ。




「はいっ! 必ず実現させます。先生が、誇れるような人間になります」




お前の目には、僕はどう映っているんだ? 教えてくれよ……。




学校からの帰り道。自転車のペダルがいつもより重く感じた。僕の前から、墨汁を含んだ綿のような雲が迫ってきている。もうすぐ、どしゃ降りになるだろう。


早く、帰ろう。霊華の待つ家に。


家に着いた瞬間、シャワーのように雨が降ってきた。僕は、慌ててチャイムを鳴らす。


でも、応答がない。霊華は、出かけているのだろうか。僕は、仕方なく自分のスペアキーで家のドアを開けた。開けた瞬間、ムワッとむせるような熱気が顔にかかった。




「ただいま……」




返事がない。


やはり、出かけてーーー。




音?




キッチンから人の気配がした。微かな息遣い。




「霊華、いるのか?」




僕は、カバンを投げ捨て、キッチンに駆け寄った。そこで僕が見たのは。



「しっかりしろっ!!」



床に倒れている妻の姿だった。まな板には、刻んだキャベツが半分だけ残されていた。右手には、包丁が握られている。また、起きたのだ。あの発作が。


僕は、包丁を奪うとまな板の上に乗せ、その軽い体を抱きかかえ寝室まで運んだ。霊華の顔を玉のような汗が流れていく。体中の水分を吐き出すような大量の汗だった。


閉じられている瞼を親指と人差し指で軽く押し広げた。




「くそっ!」




瞳が、琥珀色をしている。瞳孔も細長く、もはや人間の目ではなかった。




「霊華……」




発作が起きる間隔が短くなっている。


去年までは、半年に一度だった発作が、今では三ヶ月に一度のペース。このままじゃ、餌の確保が追いつかなくなる。


先ほどから唸るような音が、霊華の喉元からあふれ出ている。唇を両手で静かにめくると食肉目特有の裂肉歯が小さく見えた。


とにかく時間がなかった。


こうなってしまえば、もう残された道は一つしかない。僕は、霊華の体を再び抱きかかえると地下室に下りた。素早く暗証番号を入力し、中に入る。


目の前の少女は口を開け、目を丸くして僕達を交互に見ていた。




「どっ、どうし、えっ?」




何から喋っていいのか分からないようだった。それもそうだ。きっと、彼女は僕のことを一人暮らしだと思っていたに違いない。メールのやり取りでも僕は、独身を装っていたし。




「この人は、僕の妻だよ。会うのは、初めてだよね」 




「えっ……。結婚していたんですか? こ、こんな場面を見せて大丈夫なんですか?」




昨日よりも声に力がある。きっと、食事をとったおかげで少し元気になったのだろう。空になったスープのお椀が少女の足元に転がっていた。




「あぁ、大丈夫だよ。僕の妻も君のことは知っていたしね。別に隠してたわけじゃないんだ」




その言葉を聞いた瞬間、少女の目の奥がどす黒く濁った。僕は、その目から軽蔑と憤怒を感じた。




「…………鬼畜。あなた達夫婦は鬼畜です。こんな残酷なことをして。でも、もういいです。全て忘れますから。だから、早く解放してください! お願いしますっ」




少女は、頭を下げた。彼女の髪には、白い涙の結晶がポツポツと付着していた。




「僕と霊華が、きちく? それは、違うよ。君は、勘違いしてる。僕は、確かに君の言うとおり鬼畜だよ。地獄に落ちるべき人間だ。でも妻は違う。僕とは違う。妻に鬼畜と言ったこと、謝ってくれないかな」




「だって、これを知ってて黙認していたんですよね? なら、おなじ」


 


「何が同じ?」




「え、あっ、その……。ごっ、ごめんなさい! 私、変なことを言いました。謝ります、ごめんなさい」




少女は、床に頭をつけて謝った。




「顔を上げていいよ」




この土下座に彼女の誠意などない。僕は、霊華の体を傷つけないようにそっと床に下ろした。霊華の伸びた凶暴な爪が僕の腕に食い込み、その傷からは、血がたらたらと流れていた。





トッ……。





床に落ちた血。僕は、ぼんやりとそれを見ていた。少女も異変に気付いたらしく、怯えながらその変化を見ていた。




「なっーーー、えっ、なに? いやっ!! なんなのっ、コイツ」




「約束どおり君を解放するよ」




僕は番号を入力し、内側から厚い鉄扉を開けた。振り返ると、少女に襲いかかる巨大な霊華の背中が見えた。盛り上がった背筋で、白いシャツが引き裂かれている。




「助けてぇえぇ! だれかぁっ! この化け物をなんとかしてっ、いやぁあぁぁあぁ」




少女は、スープが入っていたお椀を拾うと、思い切り霊華の頭に投げつけた。




カンッ! 




乾いた音が部屋に響く。が、それだけだった。少しもダメージを与えることが出来ず、ただ怒りを買っただけ。


霊華の口からあふれ出たヨダレが、少女の顔にかかった。その瞬間、少女の体がぶるぶると震え、少女は失禁した。水溜りが出来るほど大量の小便だった。




「おね、がぃぃ……たすけてぇ……おねがいぃぃ……」




既に限界を超えた少女は、両目から血の涙を流しながら、僕に最後の助けを求めた。




『フルルルルッ』




低い唸り声。


 


次の瞬間、少女は人間とは思えない声で絶叫した。ボキリ、ボキリ、という音。


霊華は、少女の腕を噛み千切っていた。血液がほとばしる肉の断面を一度だけ大きな舌で舐めると嬉しそうに目を細め、凶暴な歯で骨ごと噛み砕いている。




「ごめんね。妻には君のような少女の肉がどうしても必要なんだ」




これは、本当だ。発作が起き、変貌した霊華には生きた少女の肉が必要だった。人間以外の動物や加工した肉は、決して食べようとしない。男性や二十歳を過ぎた女性の肉もあまり食べなかった。高校生ぐらいの年齢の少女が、一番適していた。霊華の餌として。覚醒した新人類は、人間を喰うようになる。この残酷な運命から逃れる事は出来ない。覚醒している時は、その時の記憶がない。それが唯一の救いだった。




階段を上り、リビングに戻る。まだ、雨は降っていた。


濡れた洗濯物をとりこみ、再び洗濯機の中に押し込んだ。キッチンに行き、出しっぱなしの野菜を冷蔵庫に戻し、ついでに麦茶を取り出す。冷えた麦茶で喉を潤すと胸がスゥーと爽やかになり、忘れていた空腹を思い出した。




「……………」




あと三十分で食事が終わり、霊華は元の姿に戻る。僕は、ソファーに寄りかかると耳を澄ました。雨音だけが、僕の耳を優しく刺激する。車が、雨をはじき飛ばしながら家の前の通りを通過していく。


テレビ台の上には、霊華と行った沖縄旅行の写真があり、その中の僕は僕自身が恥ずかしくなるような満面の笑みだった。霊華は麦藁帽子を被っており、背が低いのと日に焼けたせいで地元の中学生のように見えた。




「また行きたいな。来年あたり」




霊華は、僕が出会った女性の中で一番純粋だ。その純粋さが霊華の雰囲気を良くしており、周りにいる人までも幸せにする。それは、彼女が持っている一番の才能であり、僕も尊敬しているところだ。


目を閉じると、より一層雨の世界に意識を持っていかれる。頭の先端を誰かにつままれているような気分。自分が誰なのか、どこにいるのか。とても曖昧になっていく。


僕は、また昔の夢を見た。

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