獣人①

「どうしたの?」


「体が熱い。興奮が止まらない……」


医者じゃない私でも分かる。

ここ最近の体調の変化は異常。こうして自分の右腕を噛んでいないと発狂しそうだった。腕には、私の牙が深く突き刺さり血が溢れている。


彼女は、足早に喫茶店の外に出ると周囲を見渡し誰もいないことを確認した後、『CLOSE』の札を店のドアにかけた。厚いカーテンで中の様子が見えないようにする。



ジャラジャラ……。


戻ってきた彼女は、私が座る席まで鎖で繋がれた女を引きずりながら連れてきた。良く見るとその女は、学校で私達の悪口を陰で言いふらしていた前川と言う、とっても嫌な女だった。


「ぃ!? いやっ! やめて。おねがぃぃ……もう……たすけ…て……」


なんだろう、この気持ち。

私の前で泣きながら、今も何か言っているこのメスがとても……。


とっても………。


美味しそう。



「お腹すいたよね~。いいよ。なっちゃん。さぁ………。新鮮なうちに食べて」


立ち上がると周囲にヨダレを撒き散らしながら、なんの躊躇もなく、私はこの小さな可愛い頭に齧り付いた。



◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆




「また出たんだってよ。誘拐魔」


「え~、今度はどこよ」


「金糸町のさ、私立学校の生徒らしいんだけど。また一人消えたんだって」


「この近くじゃん。シャレになんねぇな、それ」


「だよねぇ、私のママも心配してさ。早く帰ってこいってうるさいんだ。部活だってまともに出来ないよ、これじゃあ。大会近いってのに」


「気持ち悪いよな。変態の仕業だろ、どうせ。そんな奴、私の竹刀でボコボコにしてやるのによ。殺しても正当防衛だろ」


「ハハ、やりすぎ。……あっ」


 

一限のチャイムの音が、学校中に鳴り響く。すると生徒の声も次第に萎んでいき、担任が教室に入る頃には、皆自分達の席についていた。


進学校特有の緊張を帯びた空気が辺りに漂い始める。教室内の温度が一度下がった。


教師は、素早く生徒の出席確認をとると教科書を開き、授業を開始した。




「三角形の重心の座標については、前回話したよね。四九ページ、問二。復習はしたかな? えっと……座標は、外心と一致するわけだから、この三角形は正三角形だということが分かるよね。この問題は、ベクトルでも図形でも答えは出るんだけど、面倒でも図をなるべく描いたほうがいい」




教師は、淡々と授業を進めていく。来年、受験を控えている彼らに解答力をつけさせる。難関大学に挑むには、一問でも多くの問題を解いていくしかない。


この夏休みの期間が、勝負の分かれ道。かつて、彼もこの時期は死に物狂いで勉強した経験があった。彼は、無意識に自分の過去の姿を目の前にいる生徒に重ね合わせていた。




彼の名前は、九重光(ここのえひかる)。




私立、神里高校の数学教師。




しばらくの間、黒板にチョークが当たるカッ、カッという小気味よい音と生徒のシャーペンが、紙を滑る音だけが教室内に響いていた。


…………………。


……………。


………。




今日の授業が全て終了し、僕は職員室で帰りの準備を始めていた。




「ねぇ、ねぇ、九重先生。昨日のニュース見たぁ? 金糸町の天林女子の誘拐事件。恐いよねぇ」




僕の右隣のデスクに座っている同僚の女教師、山中静(やまなかしずか)が、手鏡で顔のメイクをチェックしながら僕に話しかけてきた。




「そうですね。生徒には、一人で帰宅しないことと夜遅くに出歩かないように注意を促してはいるんですが。予備校とかもありますし、実際、徹底するのは難しいですね」




「予備校かぁ。やっぱり、特進クラスは違うなぁ。私の生徒なんかさ、普通にゲーセンで深夜まで遊んでるよ。アハハ」




「……笑い事じゃないですよ」




「でもさぁ、最初の誘拐事件からもう何年も経つのに全然犯人捕まらないね。警察、職務怠慢で訴えてやろうかしら。PTA煽ってさ」




山中先生は、アクセゴムでポニーテールを作っている。教師から一人の女に変わっていく瞬間だ。僕も男として少しドキリとしてしまう。


 


「早く犯人捕まってくれないと教師として寝付きも悪いですしね。いつ自分の生徒が標的にされるか分かりませんから」




「えっ? そうなんだ。私、メチャクチャ寝付きいいよ。最近」




本当に教師か? この人。


 


「何、その困った顔~。アッハッハ」




僕の微妙な顔が可笑しいらしく、チラチラこっちを見ながら笑っていた。




「九重先生って、面白いよね。う~ん、結婚さえしてなかったら、即立候補してたのに。ほんと、残っ念!」




嘘かホントか分からないことを平気な顔して言って、職員室を後にする山中先生。僕の心を乱して消えた。


暗くなる前に帰ろう。僕も職員室を後にした。


駐輪場にとめてあったマウンテンバイクに跨り、軽くペダルを漕いだ。すると、すぐに湿気を含んだ夏風が、僕の顔を優しく撫でていく。敏感になった鼻が、いち早く潮の香りを感じ取ると、すぐに僕の前に青い海が広がった。キラキラと夕日を浴びて輝く海面。海猫が数羽飛んでいた。




海岸沿いの道を十分も走ると、ポツポツとマッチ箱のような住宅が見え始め、その中に我が家もあった。玄関ドアの横にマウンテンバイクを置き、家のチャイムを鳴らす。もちろん、僕も家の鍵を持ってはいるが、昔からの癖でどうしてもチャイムを鳴らしてしまう。




「どちら様ですか?」




「光だけど」




「どの光ですか?」




「アナタの夫の光だよ」




カチャッ! という音と共にドアが開いた。中から顔を出したのは、もちろん僕の妻である。少し眠そうな顔をしている。昼寝をしていたに違いない。




「おかえりなさい、ダーリン」




「今まで一度もダーリンなんて呼んだことないでしょ? 急に呼び方変わるとビックリするからやめてよ」




「なによ、その言い方っ! いいじゃない、たまには。こういうラブラブ夫婦を演じたってさ」




拗ねたようだ。僕を親の仇だと言わんばかりに睨みつける。しばらくして、妻の様子を窺うと、部屋の奥で胡坐をかいてテレビを見ていた。


僕は、部屋着に素早く着替えるとソファーに腰を下ろした。妻は、こちらをチラッと見たが、すぐにテレビ画面に向き直る。まだかなり怒っている。




「ごめんね、霊華。僕が悪かったよ」




こっちを見てくれない。




「ハニー、愛してる。世界中の誰よりも。だから、許してよ。ね?」




「ぅ……今回だけは、許す。先に夕飯食べるでしょ? すぐ準備するね」




そう言うと、キッチンの奥で夕食の準備を始める霊華。背伸びをして戸棚から皿を取り出していた。霊華の身長は、僕よりもだいぶ低い。まぁ、僕が平均より高いだけだが。




「霊華、それ手伝うよ」




「あっ、ありがとう。じゃあ、このお皿運んでくれない? 割らないでね」




「今夜は、ハンバーグか。美味しそうだね」




「ハンバーグ好きでしょ?」




「うん」




「子供が好きな食べ物は、光も好きだよね。フフ」


 


霊華は、嬉しそうに笑った。童顔なので一瞬、中学生のように見えた。こんな子供みたいな霊華だが、実は僕よりも年上。しかも、昔は僕と同じく教師をしていたこともある。


さらに、霊華は僕の恩師でもある。先生とその教え子、それが霊華と僕だ。そんな二人が結婚。




まるでドラマみたいな話。




「学校、どうだった? 可愛い子に『先生、素敵ですわ。付き合ってください!』とか言われなかった?」




「言われなかったよ。そんな漫画の中のお嬢様キャラの持ち主もいないしね、うちのクラスは。今は、受験一色って感じかなぁ」




「ふ~ん、みんな真面目なんだね。昔は、光みたいな悪ガキもいたのにね」




霊華は、遠い目をしていた。僕は、物思いに耽っている彼女の横顔を見るのが好きだった。


テレビでは、地元のニュースを放送していた。昨日に引き続き、誘拐事件の特集が組まれている。僕は、リモコンを手に取り、チャンネルを歌番組に変えた。露出度の高い女性シンガーが、バックダンサーを従えて腰をフリフリ踊っていた。


見えそうで見えない、最高のチラリズム。




「……チッ」




僕の様子を見ていた霊華が舌打ちをした。


僕は、動揺を隠しながら箸を持つ。自分の食べかけの皿を見るとハンバーグが一つ増えていた。霊華が、自分の分のハンバーグを僕の皿に移したみたいだ。




「体の調子、悪いの?」




「今のところは大丈夫だよ。発作も起きてないし」




「そっか。ならいいんだ。発作が起きそうになったら、すぐ教えてね。用意するのに少し時間がかかるからさ」




「光……大丈夫? 無理してるでしょ、私のために」




「僕は、大丈夫だよ。無理もしてない。つまらない証拠も残してないから、捕まる心配もないしね」




「ごめんね、ほんと。私のためにこんな危険なことさせて」




「何言ってるの? 夫婦は助け合うものでしょ。本当に大丈夫だからさ、心配しなくていいよ」




僕は、ハンバーグを一口サイズに箸で切ると口に放り込んだ。溢れ出た肉汁とソースの相性は抜群でご飯がすすむ。結局、三回もご飯のおかわりをした。


キッチンで、霊華が食器の洗い物をしている間、僕は地下室の様子を見に行った。ドライエリアを設け、湿気対策をした自慢の地下室だ。僕しか知らない暗証番号を入力し、鉄扉を開ける。四方をコンクリートの灰色の壁に囲まれた部屋。小さな羽虫のようなエアコン音。そのエアコンのおかげでカビの臭いもしない。温度、湿度ともに低く、快適に過ごせるように設定している。この部屋の設備は、ここに来る住人のために僕が用意したもの。






「たす………て」






しかし、今僕の前で鎖に繋がれている少女は、とても快適そうには見えなかった。誘拐して、この部屋に監禁してからずっと少女は涙を流し続けている。


少女の前に置かれたスープとパンには、今日も口をつけていない。もう丸三日何も食べていないことになる。このままでは、死んでしまう。死んでしまったら、後は腐るだけ。使い物にならなくなる。それは、どんなことをしても避けなければならなかった。


僕は、落ち着いた声で少女に話しかけた。




「何か食べないと死んでしまうよ? リクエストがあれば、なんでも食べさせてあげるからね。フルーツとかどう?」




「どう……して。こんなこと……」




消え入りそうな涙声で、少女は言った。唇が乾燥し、ひび割れている。涙で濡れた髪が、ベットリと痩せこけた頬に張り付いていた。


三日前、僕はこの少女、桜木を誘拐した。少女には、出会い系サイトで一ヶ月前に知り合った。何度か町でデートの真似事をし、欲しい物を買い与え、ようやくこの家まで連れてきた。後は、簡単。


睡眠薬入りのジュースを飲ませ、眠った体を地下室まで運び、両手足をネットで購入した鎖で拘束した。鎖の端は、壁に頑丈に取り付けてあるので逃げることは出来ない。防音も完璧なので、叫び声をどんなにあげたところで誰にも聞こえず、ただこの部屋で虚しく響くだけだ。


鎖に繋がれたその姿は、一見すると奴隷のようだ。これがもし、普通の誘拐魔なら性的な行為に及ぶだろうが、僕にはその考えは一切なかった。


そもそも、目的が彼らとは大きく違うのだ。僕が、彼女を誘拐したのは霊華のため。霊華を助けるため。




「たすけ、て……おねがい……ます。なんでも……する……だからたすけて」




少女は、そう言うとシャツのボタンを一つずつ震える手で外していく。スカートも脱ぎ、下着姿になった。白いブラとショーツだけとなった少女は小刻みに震えており、それでも僕の顔を見て、女の色気をアピールした。




「そんなことはしなくていいよ。僕には、その気はないしさ。服を着なさい。風邪を引いたら大変だ。……もうすぐ解放してあげるよ。だからさ、少しでいいから何か食べなさい」




僕は、怯えている相手の顔を見て優しく諭した。


「ほんとう? 本当に解放してくれるの」




少女の目に光が宿った。この光は、彼女の生きたいという想いそのもの。




「あぁ。だから、食べなさい。新しい食べ物を今持ってきてあげるからね」




僕は、そう言い残し部屋を後にした。十分後、食べ物を持ってきた僕に対して、服を着た彼女は掠れた声でお礼を言った。




「ありがとうございます。ぁ……このことは誰にも、絶対に誰にも言いませんから」




これほど分かりやすい嘘があるだろうか。たとえ、人生経験のない小学生でも彼女の嘘を見破れただろう。




「食べたら、眠りなさい。それじゃあ、また明日」




彼女は嘘つき。




でも、それは僕も同じだ。




彼女を解放する、それは絶対にありえない。そもそも解放するぐらいなら誘拐などしない。彼女の崩壊しつつある精神では、僕の言葉が神の言葉のように聞こえたのだろう。この閉鎖された空間では、一分が一時間にも等しく感じられる。気が狂い、舌を噛んで死んでしまわないように、僕は一日に何度か彼女の様子を見に地下室に下りた。


霊華は、そんな僕の姿を見ても何も言わなかった。何も言わなかったが、霊華の気持ちは痛いほど僕に届いていた。


優しいから。だから、苦しむ。


僕には、地下室に行く以外にもやることがあった。それは、出会い系サイトで知り合った他の女子高生とのメールのやり取りだ。相手が喜びそうな話題を振り、よく相手の話を聞いた。僕自身、高校教師として生徒の流行や悩みを少なからず聞き知っていた。それが助けとなり、さほど苦労せずに相手の心に入り込むことに成功していた。


常に一人は、すぐに会えるようにしていた。緊急の場合に備えて、早めに準備を進めている。




「光。外、歩かない?」




お風呂から上がって、いつものようにメールを激しく打っていた僕に霊華は言った。




「今から? 湯冷めしないかな。明日じゃダメ?」




「ダ~メ。今から行くの。早く準備しなさい」




霊華は、既に外出用の白いワンピースに着替えていた。僕も慌ててジーパンに着替える。


二人で海岸を散歩。静かな夜だった。




「なんか空気が澄んでて気持ちがいいね。星も綺麗だし」




霊華と同じように空を見上げる。確かに今夜は、大小さまざまな星が煌いていた。都会に住んでいた頃は、空を見上げるという行為すらしなかったので、空から感動を得ることもなかった。


僕の少し先を歩いていた霊華が突然立ち止まり、蹲った。




「どうした?」




「ヤドカリが歩いてる。フフ、ちっこくて可愛い」




霊華の股の間をヤドカリが横断している。止まっては動き、またしばらく止まっては動く。その繰り返し。その姿を面白そうに見ている霊華。屈んだ霊華の服の間からは、雪のように白い肌が見えた。それを見た瞬間、僕は霊華を抱きしめたい衝動に駆られた。




「光。どうして教師になったの?」




僕は、暗い海を見ながら霊華の声を聞いていた。




「そんなの決まってるでしょ。霊華に近づくためだよ。僕バカだったからさ、教師になるために必死に勉強したんだ。本当に死に物狂いでさ。霊華と同じ教師になれば、付き合えるって本気で信じてて。まぁその妄想があったから頑張れたんだけど」




「妄想が現実になったじゃん。良かったね」


「ハハ、そうだね。でも、僕が教員免許を取得したときには既に霊華は東京にはいなくてさ。しかもこんな田舎町に引っ越しててビックリしたよ。教師も辞めてるし」




「ごめんね、教えなくて。心配かけたくなかったから、光には。でも光が教師になったってメールで知った時は、凄く嬉しかったよ。本当に頑張ったんだなぁ、コイツって感じでさ。教え子として誇らしくなったもんよ」




霊華は、背伸びをして僕の頭を撫でようとしている。が、背が低いのでそれでも届かない。僕は、腰を少し曲げた。霊華の小さな手が、僕のまだ湿っている髪を摩る。




「でも、あの学校一の不良生徒が先生になるんだから世の中分からないよね。あの頃の光は、金髪でピアスもしてたし。それに自分のこと『オレ』って言ってたよね。外見変わると中身も変わるのかなぁ、人間って」




確かに僕は、昔は自分のことを俺と言っていた。




いつからだっけ? 




自分のことを僕って言い始めたのは。




「そろそろ帰ろうか、寝るのが遅くなるし。明日も学校でしょ? 先生が寝坊したらカッコ悪いしね」




「そうだね。でもさ、今夜もエッチなことするから寝るのはどうせ遅くなるよ」




「……そういうこと、真顔で言わないで。恥ずかしいから」




照れてる霊華。僕は、霊華の小さな体をそっと抱き寄せると、その顔にキスをした。目を閉じて、頬を赤く染めている。この仕草は、付き合ってるときから変わらない。もう何年も霊華は、変わらない。あの頃のままだ。




『獣人』は、あまり歳をとらないから。




僕は、ゆっくりと目を閉じた。昔の光景が蘇ってくる。


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