獣人④
僕にはやるべきことがある。もう時間がない。あの少女がいなくなった今、地下室には誰もいない。つまり、餌がない。
今度の発作までに新しい少女を確保しなくてはならなかった。霊華の発作を止めるには、新鮮な生きた餌を与えるしかない。僕は、その晩一人の少女にメールを打った。次のターゲットとなる女だ。
日曜日。
僕は駅前で、ある少女と待ち合わせをしていた。県庁所在地であるこの場所は、僕が住んでいる地区とは違い、雑居ビルが立ち並びそれなりに栄えている。新幹線が停車する駅でもあり、利用者も多く駅前は人で溢れていた。
これだけ人が多ければ、顔バレする可能性も低くなる。一応、普段はしない帽子と眼鏡をかけてはいるが、それだけでは不安を拭い去ることは出来ない。なるべく、早く少女と接触したかった。
腕時計で待ち合わせ時間を確認する。すでに約束の時間から二十分も経過していた。あと、十分たって来なかったら帰ろう。そう決めていた。
「まつき……さん、ですよね? わたし」
「加奈ちゃんだよね。待ってたよ」
僕の前に、痩せた少女が姿を現した。霊華よりも背が高く、色が白かった。ただ、その白さは霊華とは違い、不健康という印象しか僕には与えなかった。
目の下には隈のようなものがあり、彼女の抱えている疲労を感じることが出来た。一瞬、高校生なのかと疑ったほど、彼女からは大人の女性の色気を感じた。
「人が多いですね。日曜日だからかなぁ」
少女は、目を細め周囲を見渡した。彼女のボブヘアが揺れる度、強烈な香水の匂いがした。
「…………」
「無口なんですね。つまらないですか? 私といるの」
「そんなことないよ。喫茶でお茶でもしようか。ここは人が多すぎるしさ。ゆっくり、君と話をしたいから」
「はい。分かりました」
違和感。
先ほどから何か違和感があり、それは僕に警鐘を鳴らしていた。しかし、その違和感が何であるのかまでは分からなかった。しばらく、様子を見ることにする。喫茶店に入ってからも違和感は消えることはなく、むしろ強くなっていった。
当たり障りのない会話で時間を消化していく。
「へぇ、松木さんって釣りが趣味なんですね。私も釣りしてみたいです」
偽名に嘘の趣味。他にも彼女には、たくさんの嘘をついている。僕は、完全に別の人間『松木』になりきっていた。
「今度一緒に行こうね。加奈ちゃんは、趣味とかそういったものは何かあるの?」
「趣味……ですか。特にないですね。これといって」
最近、この無趣味という子が結構多い。つまり、何に対してもさほど興味が湧かず、ただなんとなく毎日を過ごしている。時間は膨大にあっても充実した日など一日もないのだ。
僕も高校時代は、こういった類の人間だった。霊華に出会うまでは。
「このお店、雰囲気がいいですね。良く来るんですか?」
「いや、この店は初めて入ったよ。でも外見で判断して、この店は当たりだと思ったけどね。お店の前は、綺麗に掃除されててゴミ一つなかったし、お店の命である看板も綺麗に磨かれてた。裏路地にあるのに結構お客さんも多い。この辺に住んでる人たちの隠れ家的なお店なんだろうね、きっと」
僕は、ざっと店内を見渡した。
大学ノートに何かを記入している学生、寝ている赤ちゃんの横で携帯をいじっている母親。カバンからノートパソコンを取り出し、その画面を見てブツブツ何かを喋っているサラリーマンらしき男性。若者が少なく店内は静かで、ゆったりとした時間が店全体に流れていた。
「松木さんのご自宅ってどこなんですか?」
「神里駅から、徒歩二十分ってところかな。ここに比べたら、随分田舎だよ。海が近いってことぐらいかな、いいところは」
「……行ってもいいですか? ご迷惑でなければ」
加奈と名乗る少女は、遠慮がちに僕にそう言った。
「うん。大丈夫だよ。タクシーで行こうか、電車より速いし」
どうやら、この少女にかなり気に入られたようだ。あと数回デートもどきをしなければ、自宅まで連れてくることは無理だと思っていた。出会い系で知り合った少女と言っても焦りは禁物で、時間と金をそれなりに使わないと相手に嫌われ、逃げられる。今回のように、一回のデートで僕の家までついてくる少女は、過去にはいなかった。
思いの外、うまくいったことに内心かなり喜んでいた。これで、また霊華も助かる。
タクシーの中で、霊華にメールを打った。新しい少女が手に入ったから、少しの間外出していてくれという内容。さすがに、家の中に奥さんがいたらこの少女も気分を害し、二度と僕とは会ってくれないだろう。
家から少し離れた場所でタクシーを降りた僕と少女。特に会話もなく家の前まで歩いた。
「ここだよ、僕の家は」
「一軒家なんですね。マンションかと思ってました」
「中古だけど二年前に購入したんだ。このまま何年も家賃を払い続けるより、経済的だしさ」
少女は、家を珍しそうに見上げていた。そして、なぜかクスクスと笑い出した。
「どうしたの?」
「い、いえ。なんでもないです」
僕は家の鍵を開け、少女を中に通した。メールで指示した通り、霊華の姿はなく、家の中は静まりかえっていた。
「綺麗なお部屋ですね。新築の匂いがします」
「買って、まだ二年だからね。ここに住む前は、借家にいたんだけど。職場に遠かったし、近所もうるさくて結構苦労したな」
僕は、キッチンで冷たい麦茶を用意していた。少女は、大人しくソファーに座っている。それを確認した僕は、少女が飲むコップに睡眠薬の少し青みがかった液体を入れた。スプーンで音を立てないようにかき混ぜる。
「足を伸ばして、ゆっくりしてていいからね。テレビ見ててもいいよ。今の時間は、つまらないドラマか、ニュースしかやってないだろうけど」
「はい、分かりました。でも今は、テレビ見る気分じゃないので遠慮しときます」
僕は、麦茶とシュークリームが入った皿をテーブルに乗せた。
「こんなものしかないけど、食べて」
「いただきます」
一口だけ、シュークリームをかじると僕の方を見ながら麦茶を飲む少女。
「松木さんは、食べないんですか?」
「い、いやっ。食べるよ。シュークリームは大好物だからね」
僕もシュークリームにかぶりつく。甘ったるいクリームが、口全体に広がった。
横目で少女の様子を観察する。麦茶に入れた睡眠薬は即効性なので、十分もしないうちに効き始めるはず。
「松木さんって、教師なんですか?」
「えっ」
突然の少女の問いに上手く反応が出来なかった。少女には、僕が教師であることは隠している。バレるはずがない。
「僕は、ただの保険のセールスマンだよ。メールでもそう言ったでしょ? 教師なんかじゃないよ」
自分でも動揺しているのが分かった。心臓を落ち着かせ、演技を続ける。
「どうして、そう思ったの?」
「フフ、さぁ……どうしてかなぁ」
少女が、僕の顔を見てニヤリと笑った。薄気味悪い笑みだった。コッ、コッ、コッと壁時計の音だけが僕の耳に聞こえた。
「君は、」
会話を続けるとボロが出る。僕は、慌てて口を閉じた。
「……んぅ~」
僕から視線を逸らした少女は、ダランと首を下げ、大きな欠伸をした。
「なんだ…か……眠くて。少し、横になってもいいですか?」
「うん、いいよ。ゆっくり眠りなさい。今、毛布を持ってくるよ」
それからすぐに少女は、静かに寝息を立て始めた。
「はぁ」
思わず、安堵の溜息が出る。
理由は分からないが、長時間この少女と一緒にいるのは危険だと僕は判断した。一刻も早くこの少女を地下室に監禁しなくてはいけない。
抱きかかえた少女の体は、見た目以上に重く、地下室に行くまで僕は何度も休憩を挟まなくてはいけなかった。やせ細ったこの少女のどこにこんな重さがあるのか、疑問だった。
二十分もかけて、やっと地下室に少女を入れると、その両手に鎖付きの手錠をし、両足を拘束具で固定した。完全に少女の自由を奪うとやっと心が落ち着いた。
自分でもどうしてこんなに焦っているのか不思議だった。額から汗が流れる。少女に背を向け、歩き出した。
その時ーーーーー。
「松木さんは、こんな変態な趣味を持っていたんですね。私、ショックです」
僕は、振り返った。少女は目を開け、上目遣いに僕を見ていた。その目からは、眠気を一切感じなかった。
「どうして……」
こんなことはありえない。ありえないんだ!
あの睡眠薬は、通常二時間は効果が持続する。こんな数十分で効果が切れるはずがない。この少女は、確かに麦茶を飲んでいた。
薬の配分を間違えたのか?
いやっ、そんなミスはしない。
適量だったはずだ。
なら、何故。
「『どうして』って、さっきも言ってましたよね。松木さんの口癖ですか? フフ。さっきの質問の答えですけど、アナタが教師だと分かったのは、匂いがしたからです」
「匂い?」
「はい、そうです。松木さんからは、いろんな若い男の子や女の子の匂いがします。しかも、ほとんどが処女、童貞の匂い。私が、好きな匂いなので良く分かります。こんな匂いを身につけている職業は、教師ぐらいしかありませんから」
「大人をからかうもんじゃないよ。そんな匂いが分かるわけないだろ」
僕の声は、震えていた。
「それが、分かるんですよ。だって、私はーーー」
少女は、視線を両手に下げると一気に手錠を引き千切った。
ギッーーーー。……シャリ。
ジャッリン!
今までに聞いたことのない金属の悲鳴が聞こえた。ジャラジャラと音を立てて落ちる手錠と鎖。自由になった両手でゆっくりと時間をかけて足枷を外す少女。
僕は、ただその異常な光景を黙って見ていることしか出来なかった。
「私、覚醒者なんです。覚醒者は、普通の人間より何倍も鼻が利くんです。犬や猫のように。驚きましたか?」
笑いを耐えながら、少女は告白した。それは、まるで悪戯のばれた子供のようだった。
『覚醒者』
その言葉を聞いた瞬間、僕の脳裏に霊華の発作時の姿が浮かんだ。
この目の前の少女も霊華と同じように体が変異するのか?
「やっと今、分かったよ。君に抱いていた違和感の正体が。それは、『殺気』だ。僕だけじゃない。駅前にいた全ての人間を見るとき、君の目には尋常じゃない殺気を帯びた冷たい光が浮かんでいた。その目で物色していたんだろ? 餌となる人間を」
「凄いです! 私のことを観察していたんですね。それに、私が覚醒者だと知っても逃げることもしない。普通の人間なら腰を抜かしていますよ? フフ」
少女は、立ち上がるとコンクリートの壁をその白い指先で撫でていく。撫でるたび、その足元にパラパラと白い粉が落ちていく。少女の指先の爪は、すでに人間のものではなかった。軽く撫でるだけで、壁を深く抉り取っていく。五本の白線が、少女が歩いた分だけ伸びていく。
「アナタの奥さんも覚醒者なんですよね。前に一回、町で見かけたんです。アナタと奥さんが仲良く二人で買い物しているところを。血の臭いですぐに分かりましたよ。そして、嬉しくなったんです。私と同じ仲間が、こんなに近くにいたことに」
「僕と今日こうして会ったのは、君の計画だったの?」
「はい。そうです」
「目的は何?」
「さっき。アナタの奥さんを見て、私のような覚醒者がいて嬉しいって言いましたけど、あれは半分嘘です。まぁ、確かに最初見たときは感動すらしたんですけど。そのうち憎くなりました」
「憎い? どうして」
僕は、搾り出すように声を出した。それでも掠れた声しか出なかった。人間である僕に覚醒者は殺せない。たとえ今、拳銃のような殺傷武器を持っていたとしても結果は同じ。それほどの力の差が、人間と覚醒者との間にあることを僕は霊華を見て知っていた。
少女の背筋は、ボコボコと盛り上がり、腕や足も太く凶暴に膨れていく。顔が縦長になり、一秒一秒経過するごとに人間の面影が失われていく。
「私には、恋人はおろか友達すらいない。それなのに、彼女には夫がいて幸せに暮らしている。不公平じゃないですか、こんなの。同じ覚醒者なんだから、私と同じように彼女も不幸にならなくちゃダメなんです!」
理性を少し残した状態で、少女は僕に一歩一歩静かに近づいてきた。
「僕を殺すのか?」
「はい。殺します。アナタを殺せば、奥さんもきっと不幸になります。そして、私のように孤独になります」
「ハハハハハハッ」
「何が可笑しいんですか?」
「君は、間違ってる。僕を殺したところで、妻は君のようにはならないよ。アイツはね、初めから幸せだったわけじゃないんだ。自分の運命を呪って、それでも歯を食いしばって頑張ってここまで生きてきたんだ。自分の力で幸せを勝ち取ったんだよ。君みたいに幸せになることを放棄した腰抜けじゃあない。僕を殺しても、きっと立ち直る。君とは違い、必ず不幸を克服する。僕は、そう信じてるよ」
「だまれっ! ただの人間のくせに」
霊華、ごめん。
もう少し、僕も頑張って生きたかったけど……ダメみたいだよ。最後に君の笑顔を見たかった。
あと少しだけ、一緒にいた…かっ…………。
グチュ、グチュ。
ザァアァァー。
ザァァァ。
目の前が、霞んでいく。
自分の左胸からは、夥しい量の血が流れていた。自分が倒れている周りには、血の水溜りが出来ている。こんなに大量の血が体内に入っていたことに少し驚いた。僕は、こんな絶望的な状況なのに妙に落ち着いていた。
全身の力が抜けていくのが分かると『死』という存在が大きくなり、それが自分の上に覆いかぶさってくるようだった。それでも僕は、恐怖を感じていなかった。
目は見えなくなりつつあったが、そのぶん音には敏感になっていた。
誰かが、階段を下りてくる音が聞こえ、その足音が大きくなり、次に悲鳴のような声が聞こえた。そして、僕の体の前を大きな黒い影がザッと横切るとーーーー。
次にスイカが潰れるような音がして、パラパラと腹の上に何かが降り注いだ。床に何度も何度も何かを叩きつける音がして、その度に地震のように部屋が揺れた。泣き叫び、懇願する声が聞こえた気もしたが、すぐにそれも聞こえなくなった。
頭が、ボーとして。意識が曖昧で……。
体はダルくて、疲れていた。ゆっくりと目を閉じた。
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