第18話 束縛

 誰かに手を握られ、優しく頭を撫でられているような気がした。あったかくて気持ちいい。

 あたたかくて柔らかいものが頬に触れた。ふわふわと浮き足立つような幸せな気分だ。

 ずっとこうしていたいな……。



「ん……寒っ……」


 寒さに身震いして目が覚めた。

 カーテンからうっすらと日の光が射し込んでいる。


「……あれ……?え、嘘……朝……?!」


 門倉が眠ったら部屋を出ようと思っていたのに、ここ最近の疲れのせいであのまま眠ってしまったらしい。

 門倉はまだ私の手を握ったまま眠っている。夕べは荒かった息遣いも少し落ち着いているようだ。熱も少しは下がったかな。

 ところで今何時なんだろう?キョロキョロ辺りを見回して時計を探す。

 壁時計の針は間もなく7時を指そうとしている。

 門倉もよく寝てるし、私もまだもう少し寝たいな……。ポスッと布団に顔をうずめた。

 あれ……?何か大事なこと忘れてないか?

 えーっと……確か夕べは仕事の後に光と……。


「ああっ!」


 思わず声を上げると、門倉がうっすらと目を開いた。


「なんだ……デカイ声出して……」

「起こしてごめん、あのままうっかり眠っちゃって……どうしよう……」


 門倉は私の手を離してため息をついた。


「だから帰れって言ったのに」

「仕事終わったら連絡するって言ってたのに、もう朝だよ……どうしよう、心配してるかも……」


 なんと言って謝ろうか?本当のことを言ったら、光はまた余計に心配するかも知れない。


「適当に嘘でもつけばどうだ?」

「うーん……」


 嘘をつくのもどうかと思うけど、本当のことを言うのもどうかと思うし……。


「俺が電話して謝ってやろうか?」


 門倉が出てきたら余計にややこしくなるって!


「そんな……っていうか門倉、熱は下がったの?計ってみて」

「そんなこと言ってる場合かよ……」

「いいから!」


 体温計を差し出すと、門倉は眉をひそめながらそれを受け取り脇にはさんだ。

 しばらくして測定終了のアラームが鳴った。


「何度?」

「8度5分」


 夕べよりはかなり下がったけど、まだまだ熱は高い。


「まだかなり高いね。また夕べみたいに上がらなければいいんだけど」

「俺のことより自分の心配しろよ」

「そうなんだけど……」


 腕組みをして首をかしげながら考えていると、門倉が私の腕を掴んで引っ張った。

 門倉は病人のくせに強い力で私をベッドに引き上げる。


「わっ……ちょっと!」

「いっそのこと、ホントにあいつに言えないような秘密でも作るか?」


 あいつに言えないような秘密って……この状況でそれは冗談にならないよ!


「何言ってんの、病人のくせに!」

「今ならそれくらいはできるぞ」


 更に引き寄せられ顔をぐっと近付けられる。急激に鼓動が速くなって息苦しさをおぼえた。少しけだるそうな門倉の表情がいつになく色っぽい。

 両手で頬をはさまれじっと顔を覗き込まれた。

 ああもう!ホントに無駄に顔がいいんだから、あんまり近付けないで!!


「どうする?」

「バカ……病人は大人しく寝てなさい」

「病人病人言うな。おまえ昨日、やれるもんならやってみなって言ったよな。マジで襲うぞ」


 門倉が右手で私の腰をグイッと引き寄せて、肩口に顔をうずめた。あたたかく柔らかい門倉の唇が私の首筋を這う。

 嘘……まさか本気?!


「わーっ!嘘です!ごめんなさい!!やれてもやらないで!!」


 必死で熱い体を押し返すと、門倉は呆気なく私の体から手を離した。


「冗談だ、バカ。こんな時にやるわけねぇだろ」


 こんな時にって……。こんな時じゃなかったらやるのか?!

 ……それはともかく、光になんと言って謝ろうか。


「とにかく……それだけの元気があればもう大丈夫そうだし、私は帰るね」


 起き上がろうとするとまた抱き寄せられ、門倉の唇が一瞬私の頬に触れた。

 カーッと顔が熱くなるのがわかって、その顔を見られないようにうつむいた。


「……ありがとな、篠宮」

「お……お礼なんていいから……早く治しなさい」


 心臓がドキドキと大きな音をたてているのを気付かれないように、慌てて門倉の体を押し返した。

 急いでベッドから下りてバッグと上着を手に取る。


「冷蔵庫に飲み物と食べ物があるから、ちゃんと食べてから薬飲んでよ!あと、冷凍庫にアイス枕が冷やしてあるから使って!」

「オカンかっての……」


 玄関で靴を履いて顔を上げると、門倉は私の方を見て優しい笑みを浮かべていた。

 なんだか無性に照れくさい。


「ちゃんと休んで今日中に治すように!じゃあね!」

「おー……また明日な」


 あんな高熱がたった1日で下がるかはわからないけど、門倉はそう言って軽く右手をあげた。

 門倉の『また明日な』って台詞、久しぶりに聞いたな。また当たり前のようにそう言ってくれたことが、とても嬉しい。


 マンションを出て、駅までの道のりがわからないことに気付いた。夕べはタクシーでここに来たから、駅まで歩いてどれくらいなのかも、どちらに行けばいいのかもわからない。

 地図を見て調べようとポケットからスマホを取り出してみたものの、充電が切れて電源が入らない。そう言えば前の晩に充電をし忘れていたんだった。いつの間に切れてしまったんだろう。

 もしかして……光が私からの連絡がないことを心配して電話をしても、電源が切れて繋がらない状態になっていたかも知れない。

 光からの電話が煩わしくてわざと電源を切ったんだとか、変な誤解されてたりして……。

 心配してるかな。それとも怒ってるかな。

 とにかく……光に会ったら、あったことを正直に話して謝ろう。

 高熱で動けない門倉の看病をしていたのは本当のことだけど、先に連絡をしなかったのも、うっかり眠ってしまったのも私が悪い。下手に隠すとやましいことでもしていたみたいだ。

 ……光に言いづらいことが、まったくなかったわけでもないけれど。



 大通りに出る少し手前でタクシーを拾うことができた。

 最寄りの駅までと思ったけれど、やっぱり光の家の近所にある中学校の前まで行ってもらうことにした。

 タクシーのシートに身を預けて20分ほどで光の家のそばに着いた。

 緊張のせいで心臓がバクバク鳴っている。まるで朝帰りしたことを親になんと言い訳しようと考えている高校生みたいだ。


 光の部屋の前で何度か深呼吸をしたあと、意を決してインターホンのボタンを押すと、すぐに玄関のドアが開いた。

 一睡もしないで待っていてくれたのか、光の目は赤く充血して疲れきっている様子だった。私の顔を見るなり、光は強い力で私を抱きしめた。


「瑞希……心配したんだからな……!」

「ごめん……。ちゃんとわけを話すから……」


 部屋に入っても、光は私を強く抱きしめたまま離さない。


「なんで連絡くれなかったんだよ……」

「あのね……昨日、9時半頃になんとか仕事終わらせて会社を出ようとしたんだけど、急に門倉が倒れて……」


 私は夕べの出来事を正直に光に話した。

 しかし門倉の名前が出てきた時点で、光の表情が険しくなった。それでも途中で辞めるわけにはいかず話を続ける。


「他に誰もいなかったからタクシーで家まで送って、薬とか必要なものが何もなかったから近所の店で買ってきて看病したの。40度以上も熱があって心配だったから、門倉が薬飲んで眠るのを見届けたら帰るつもりだったんだけど……ずっと寝不足だったから私までうっかり眠っちゃって、目が覚めたら朝だった」


 私から目をそらしたまま、しかめっ面でその話を聞いていた光が、ゆっくりと私の方を見た。今まで一度も見たことがないほどの視線の鋭さに息を飲んだ。


「ふーん……。一晩中あの人と二人っきりだったんだ。俺のことは忘れちゃうくらいあの人に夢中だったの?」

「そんないい方しないでよ……。ホントに看病してただけなのに……。40度以上も熱がある人をほっとけないでしょ?」

「電話しても繋がらなかったけど?そんなに俺に邪魔されたくなかった?」

「違うよ、前の日に充電し忘れてたからバッテリーが切れちゃってたみたいで……」

「そんな見え見えの嘘つくなよ……」


 正直に話したのに光は信じてくれない。光との約束を無視して門倉と浮気したと頭から決めつけて私を責める。

 ひどい。私は浮気なんかしたことない。

 浮気したのは光の方だ。それなのに光は自分のことを棚に上げて、私の浮気を疑っている。

 ちっとも信用されていないんだと思うと悲しかった。


「私は嘘なんかひとつも言ってないよ!!昨日は慌ててたから連絡できなかったけど、今朝目が覚めてすぐにここに来たの!光に心配かけて悪いことしたと思ったから!」

「罪悪感に耐えられなくなったから謝ろうと思ってここに来たの?それとも一晩待たせてかわいそうなことしたって同情した?」


 光は冷たい自嘲の笑みを浮かべていた。

 私のこと、そんな風に思ってるんだ。


「何それ……ひどい……」

「瑞希の人の好さにつけこんで、どうにかしようって思ってたのかな。あの人が瑞希に気があることくらいわかってる。大人の男なんだし、ホントは瑞希の手なんか借りなくたって大丈夫だったんじゃないのか」


 門倉は本当につらそうだったし、一人で歩くこともままならなかったのに。

 それに門倉は私を無理やりどうにかしてやろうなんて思ってないし、いつだって私の気持ちを大事にしてくれて、私がいやがるようなことは絶対にしない。

 門倉のことまで悪く言われて余計に腹が立った。それと同時に、ずっと胸にわだかまっていたものが一気に込み上げた。


「なんで信じてくれないの?私は門倉とも誰とも浮気なんかしたことない!浮気したのは光でしょ?!光は目の前で熱出して倒れてる私をほったらかしにして藤乃と出てったんだよ?!あの時私がどんなに悲しくてみじめな気持ちだったかわかる?!」


 言ってしまった。

 憎み合いたくはないから、きっと光に直接ぶつけることはないと思っていたのに。

 拳を握りしめ、奥歯を噛みしめながらその言葉を聞いていた光が、私の肩を強く掴んだ。


「だったらなんであの時何も言わなかったんだよ!瑞希は怒りも泣きもしなかっただろ!俺だって好きで浮気なんかしたんじゃない!!ホントは瑞希にもっと愛して欲しかったよ!!仕事より何より、俺だけを大事にして欲しかった!!だけど瑞希は、離婚しようって言っても俺を引き留めもしなかったじゃん!!瑞希が俺を要らないものにしたんだろ?!」


 お互い感情が昂り、あの頃言えなかった本音を声を張り上げてぶつけた。それは時間が経った分だけ重くて、錆びた刃物みたいに胸をえぐって痛めつける。

 今更こんなことして何になるんだろう?お互いに更に深く傷付け合うだけなのに。

 悲しくて、胸が痛くて、息をすることさえ苦しくて、こんな形でしか本音を言い合うことができない自分たちの未熟さが悔しくて、涙が溢れた。


「全部私のせい……?それが光の本音なんだね」

「ごめん、違うんだ」


 光は慌てて弁解しようとした。

 一度口から出た言葉はもう戻らないのに。

『覆水盆に帰らず』だ。過ぎた過去だってやり直せない。


「光が好きなのは、まだ就職する前の昔の私でしょ……?やっぱり今の私は、光の気持ちに応えることなんかできない……」

「待って瑞希、話を聞いて」

「昔の失敗をくりかえさないように、今度こそ光のこと大事にしようって思ってたけど……ずっとお互いの顔色ばっかり見て、昔の傷に触れないようにして……。いくら一緒にいたって昔には戻れないもん、やっぱり無理だよ……」


 今度こそ「これでもう終わりにしよう」と告げようとした時、光は涙をこぼしながら私を強く抱きしめた。


「俺は瑞希が好きだ……。どうしようもないくらい好きなんだ……。お願いだから、もう俺から離れて行かないでよ……。瑞希がいないと俺は……生きていけない……」


 その言葉を聞いて、私と別れた後で光が自ら命を絶とうとしたことがあるのを思い出し、全身の血の気が引いた。

 私がもしここで別れようと言ったら、光はまた同じことをくりかえすんじゃないか。そう思うと、とてつもない恐怖で胸がしめつけられた。


「瑞希、愛してる。もう二度と浮気なんかしない。瑞希だけを愛して大事にするから……どこにも行かないで、ずっと俺のそばにいてよ……」


 それは離婚する時には言えなかった言葉なのかも知れない。

 光は震える腕ですがり付くように私の体を抱きしめながら泣いていた。

 私はもうそれ以上何も言えなくなって、光の背中を優しくさすった。


「光……泣かないでよ……」

「瑞希が好きなんだ……。俺がこんなこと言える立場じゃないのはわかってるのに、バカみたいに嫉妬して瑞希を疑って……瑞希があの人と一晩中一緒にいたって思うだけで、苦しくてどうしようもないんだよ……」

「信じてよ……私は嘘は言ってないし、門倉とはそんなこと一度もない」


 ほんの少し胸が痛んだ。

 確かに一線を越えたことはないけれど……門倉に抱きしめられてドキドキしたり、優しいキスに胸が熱くなったりした。

 だけどそれは光には言えない。

 私は嘘はひとつも言っていないけれど、光に言えないことがあるのは事実だ。

 ずっと私の肩口に顔をうずめていた光が、体を起こして目元を拭った。


「だったら確かめさせてよ。瑞希が俺だけの瑞希だって」

「……信じてないの?」

「確かめられたら困るの?体にあの人の跡が残ってるから。やましいことがないなら、俺に何されても平気だよね?」


 私と門倉の間に何もなかったことを、私の体で実際に確かめないと安心できないのかも知れない。

 本当のことを言っても信じてもらえないなんて悲しい。

 これ以上何を言っても同じなんだろう。

 もう好きにすればいい。好きなだけ確かめて、私を疑ったことを認めればいいじゃないか。


「……わかった」


 静かにうなずくと、光は私の手を引いてベッドへ導いた。

 昨日お風呂に入れなかったのに、シャワーも浴びさせてもらえないまま抱かれるなんて、辱しめを受けている気分だ。こんな風に抱かれたってちっとも気持ちよくなんかない。とにかくみじめで情けなくて、つらい。

 早く終わればいいのに。


 なされるがままで、苦痛に耐えながら光が果てるのを待った。

 ようやく解放されると思ったのに、それだけでは確かめ足りないのか、光は執拗に私の体を求め、私はもうずいぶん長い時間ベッドの上で揺さぶられ続けている。

 私がどう思って何を感じているのか、光はそんなことにも気付かない。

 光は嫉妬に狂った獣のように乱暴に私を押さえ付け、肌をまさぐり私の体の奥をかき回して激しく突き上げ、何度果てても私の体を離そうとしない。

 これでもう何度目だろう。

 首筋や胸元にはマーキングのような赤いアザが無数につけられている。


 好きだ。

 愛してる。

 誰にも渡さない。

 どこにも行かないで。

 光は私の体の奥をえぐりながら、涙を浮かべて何度も何度もその言葉を繰り返す。


 つらい、痛い、悲しい、苦しい。

 私は声をあげることもできず、無機物のように冷えた体を光の前に投げ出し、感情を殺して耐えている。

 目を閉じると、愛情と言う名の鎖でがんじがらめにされている裸の私の姿が浮かんだ。

 心が渇いて、もう涙も出ない。

 どんなに愛されても潤わない体を人形のように投げ出して、心の傷がひとつ、またひとつと増えていくのを感じた。


 こんなの愛なんかじゃない。

 まっすぐに愛し合えたあの頃に戻れたらいいのに。




 その日以来、光が私の体を乱暴に扱うことはなくなり、何もかもが今まで以上に優しくなった。そして昔のように毎日会うようにもなった。

 仕事を終えて自宅に戻ると、何時だろうがマンションの前で光が待っている。

 一人だと適当に済ませる夕飯も、二人分の支度と後片付けをしなくてはならない。夕飯と入浴を済ませた後で持ち帰った仕事を片付けたくても、光は私を抱いて満足するまで離してくれない。

 仕方なく光が眠った後に持ち帰った仕事をして、朝方ようやく仮眠のような形で眠る日が増えた。

 そして時には朝も求められる。眠ってまだあまり時間の経たないうちに何度もキスされて体を弄られ、もう少し眠りたいのに無理やり突き上げられて起こされる。

 ほとんど毎日まとまった睡眠時間が取れず、ひどい時は一睡もできないまま出勤する日もある。

 仕事中は眠るわけにはいかないからなんとか気力で持ちこたえ、昼休みは食事をゼリードリンクなどで数秒で済ませて仮眠を取るか、少しでも持ち帰らなくて済むように仕事を片付ける。

 休みの日くらいはゆっくり眠りたいのに、光が隣にいるとそれもままならない。


 そんな日が半月ほども続いてすっかり憔悴しきっている私を、部下たちは心配そうに見ている。

 本当の理由なんて絶対に言えないから、夜あまりよく眠れなくて睡眠不足だと言葉を濁す。不眠症か何かと勘違いされているかも知れない。

 本当は眠くて眠くて堪らないのに。


 時々門倉の視線を感じることがあるけれど、あれから私は用がある時以外は、できるだけ門倉の方を見ないようにしている。少しでも仕事に関係ない会話をすると、光とのことを聞かれそうでイヤだから。

 門倉に心配かけたくないし、私たちのことに巻き込みたくない。


 光が毎日私のところに来るのは、私と門倉を会わせたくないからなんだろう。家の前だけでなく、時々会社の前で待っていることもある。会うのを断ると、また光が不安と嫉妬に駆り立てられそうで怖い。

 疑われてあんなに乱暴にされるのもつらいけれど、もしも万が一やけを起こしたらと思うと、できるだけ光を刺激しないようにしなくてはと思う。まるで腫れ物に触るみたいな感じ。


 光が私を愛してくれているのは息苦しいほどに実感しているけれど、このままでは私の身がもたない。寝不足のせいで精神的にもかなり不安定だ。

 仕事に支障をきたさないように気を付けてはいるけれど、時々目を開けたまま意識が飛びそうになることもある。

 お願いだから私をゆっくり眠らせて。ちゃんと仕事をさせて。

 そうすればあとは何をしても構わないから。



 今日もまた一睡もできないまま出勤した。前の日も2時間足らずしか寝ていない。

 ぼんやりした頭をなんとか叩き起こそうと、駅の売店でドリンク剤を買って一息に飲んだ。あまり多用してはいけないとわかっているけれど、こんなものでも飲まないと体がもたないから、一日に数本飲む日もある。

 パソコンの画面に羅列された文字が意味をなさないものに見えてきた。かなりの末期状態だ。


 午後3時半過ぎ。

 あまりにも眠いので、眠気覚ましにコーヒーでも飲もうと小銭入れを持って立ち上がった。

 その途端にグニャリと視界がぼやけて、足元はスポンジのような柔らかい何かの上を歩いているかのような、言い様のない不快感に襲われた。

 次の瞬間、一瞬視界が真っ白になり、その直後真っ暗闇に突き落とされたような感覚に陥った。

 私の体は重力に逆らえず、その場にドサリと崩れ落ちた。


「篠宮課長?!」

「大丈夫ですか、課長?!」


 部下たちが駆け寄ってくるのがなんとなくわかった。だけど私はもう目を開けることもできない。


「篠宮!!」


 辺りが騒がしくなるのを感じながら、どんどん意識が遠のいて、そこで何もかもがプッツリと途切れた。




 記憶の中の光が私に優しい声で呟いた。


『瑞希が好きなんだ。俺の彼女になって下さい』


 嬉しい……!やっと私、光の彼女になれるんだ……!


『俺、この先ずっと何年経っても瑞希と一緒にいたいよ』


 うん、そうだね。私も光とずっと一緒にいたいよ。


『瑞希……好きだよ。もう二度と間違えないから……ずっと俺と一緒にいて』


 ねぇ光。

 私たちにとって、一体何が正しくて、何が間違いだったのかな。

 あんなに愛し合っていたのに、どうして別れてしまったんだろう?

 別れて5年も経ってまた付き合ったけれど、今の私たちはあの頃みたいに心から笑って、誰よりも愛してるって言えるかな?

 私たちはこの先も過去に縛られながら、お互いの傷を舐め合って生きて行くことしかできないのかな?

 光は私に何を求めているの?




 大きな手が私の頭を何度も撫でた。

 ああ、まただ。あたたかくて心地いい。

 私をまるごとすっぽりと包んでしまいそうな、優しい手。

 この手は私の過去も未来も、すべてを受け入れて愛してくれるだろうか。



 うっすらとまぶたを開けると、眩しさで視界が一瞬真っ白になった。

 見上げているのは見慣れない白い天井。

 あれ……?ここはどこだろう?

 さっきまで会社で仕事をしていたはずなのに。


「おっ、目ぇ覚めたか?」


 聞き慣れた低くて優しい声がした。


「……門倉……?ここどこ?私なんで……」


 ひどく掠れた声が口からもれた。どうやら私の声らしい。


「仕事中に倒れたんだ。覚えてないのか?」

「うん、全然……」

「まぁ無理もないな。医者の話では、過度の睡眠不足による過労だとさ。おまえ、丸二日眠ってたんだぞ」


 丸二日?!

 ……ってことは……。


「ねぇ……今日何曜日?」

「金曜日。おまえが倒れたのは水曜日だ」


 どうしよう……。

 3日もなんの連絡もしないで、また光を不安にさせているかも。


「……帰る」

「は?何言ってんだ」


 起き上がると私の左手は点滴に繋がれていた。


「帰らなきゃ……」


 点滴の針を抜こうとすると、門倉が慌ててそれを止めた。


「待て篠宮、ちょっと落ち着け!!」

「帰らなきゃいけないの!私がいないと光は……!!」


 泣いて暴れる私をなだめようと門倉が抱きしめる。


「とにかく落ち着け。どうしても帰らきゃいけない理由を聞かせろ」


 門倉はナースコールを押して看護師を呼んだ。

 医師と看護師は私の意識が戻ったことを確認して、血圧や脈拍、体温など、体に異常がないか調べた。

 今すぐ帰りたいと言うと、念のため今夜はもう一晩入院しておきなさいと医師に言われた。

 精神安定剤を出しておくから服用するようにと告げると、医師と看護師は病室から出ていった。

 光が待ってるのに今夜も帰れない。力なくベッドに体を投げ出して両手で顔を覆う。

 門倉はベッドのそばにパイプ椅子を置いて腰掛けた。


「あいつのことがそんなに気になるか?」

「だって……私が会社で倒れて今日で3日目なんでしょ?その間なんの連絡もしてないんだよ……?」


 私の言葉を門倉は怪訝な顔で首をかしげながら聞いていた。


「子どもじゃあるまいし、3日くらいどうってことないだろ?」

「光は昨日も一昨日もマンションの前で私の帰りを待ってたと思う。今日だって……」


 カーテンの隙間から窓の外に広がる夜の風景が見えた。門倉がここにいると言うことは、夜も遅い時間に違いない。


「どういうことだ?話してみろ。」

「……門倉にも……誰にも話せないよ……」

「いいから話せ。おまえのこと一番わかってやれんのは俺だって言っただろ?」


 門倉の言葉はどうしてこんなに強くて優しいんだろう?忘れかけていた何かを思い出させるように、ガチガチに固くなっていた心がほどけていくような気がした。


「光は……私がいないと、生きていけないの……」


 私は泣きながら門倉にすべてを話した。

 光の強すぎる執着と愛情で身動きが取れなくなっている私を、門倉は優しく抱きしめて何度も頭を撫でてくれた。


「バカだな……なんでもっと早く俺に相談しないんだよ?」

「こんなこと、ホントは誰にも言いたくなかった……。それに光とのことなんて門倉には言えないって……」

「あの時のことなら、おまえは何も悪くない。それなのにこんなになるまで耐えて……。つらかったな、篠宮。おまえはよく頑張ったよ。もうじゅうぶんだろ?最初からうまくいくはずなんてなかったんだ」

「でも……」


『お願いだからもう俺から離れて行かないでよ……。瑞希がいないと俺は……生きていけない……』


 光の弱々しい声が、頭の中で何度もくりかえされた。今だって光は不安に胸を押し潰されそうになりながら、私を待っているかも知れない。

 涙を浮かべながら暗闇の底に墜ちていく光が頭に浮かんで、また恐怖で身震いがした。


「怖いの……。私が突き放したら光がまた死のうとするんじゃないかって……。それがものすごく怖いの……」

「篠宮……」

「光が生きててくれるなら、私はどんなに無理してもいい……。私のせいで光が死んだら……私は……!」


 感情が昂ってまた大粒の涙が溢れた。門倉は私の涙をハンカチで拭きながら、小さくため息をついた。


「篠宮……おまえはそれで幸せか?そんなんでホントにあいつが好きだって言えるのか?」

「それは……」


 何も答えられなかった。

 私はホントに光を好きなんだろうか?

 この先ずっと光の死に怯えて生きて幸せだろうか?


「若い時の結婚がうまくいかなかったのも、あいつが死のうとしたのも、篠宮だけのせいじゃない。今のおまえは責任感とか同情であいつの檻の中に閉じ込められて、正しい判断ができなくなってる」

「違う……」

「ホントはわかってんだろ?こんな風にずっと続けられるわけがないって」

「……もう言わないでよ……」


 門倉の言葉は私の心を粉々に打ち砕いた。

 今の私が光と一緒にいるのは、恋とか愛なんかじゃない。責任感とか情とか、簡単に捨てられない複雑な想いで光のそばにいる。

 昔みたいにまっすぐに好きだと言えないのは、私が光を心から愛していないからだ。

 門倉は私の頬を両手で優しく包み込んだ。


「篠宮……今からでも遅くない。あいつと別れて俺のところに来い。目一杯愛して幸せにするから」

「できないよ……そんなこと……」

「言っただろ、俺は本気だ。絶対に後悔はさせない。俺が篠宮の全部受け止めてやる」


 門倉の唇が私の唇に触れた。ついばむような優しいキスを何度も何度もくりかえす。

 こんなのダメだと思うのに、私は抗うことも忘れ門倉の優しいキスを受け入れていた。

 できるならこのままずっと、門倉の優しさに溺れていたい。大きな手で抱きしめて、私のすべてを包み込んで欲しい。


 口は悪いけど、誰よりも強くて優しくて。

 一緒にいるとあたたかくて心地よくて。

 気が付くと当たり前のようにすぐ隣にいて。

 いつも何よりも私の気持ちを大事にしてくれる。


 私はそんな門倉が好きだ。

 きっと、ずっと前から。




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