第19話 別離
私が職場で倒れてから、光はあまり私に会いに来なくなった。
私に無理をさせてしまったことを自覚しているのか、それとも別に理由があるのか。
病院で目覚めたあの日、あまりにも光のことを気に掛けている私を気遣って、門倉が光に連絡してくれた。
私が過度の睡眠不足による過労で倒れたと門倉が話すと、光は言葉を失っていたらしい。
その翌日、光は退院する時間に迎えに来てくれて、私を家まで連れ帰り、横になっていろと言って食事の用意をしてくれた。
決して上手とは言えない雑炊を私の口に運んで食べさせてくれて、その後は添い寝して、私を抱きしめて何度も頭を撫でてくれた。
私がウトウトし始めた時、光が悲しそうに呟いた。
『ごめんな……。俺はどれだけ愛しても、瑞希を幸せにしてあげられない』
その時、光が私を抱きしめながら泣いているような気がした。
翌週からいつも通り出社して仕事をした。
しっかり体を休めたので体力的には問題ない。だけど気持ちはとても複雑で苦しかった。
私はやっぱり光を突き放すことなんてできなかったから、門倉が差し伸べてくれた手を取らなかった。
門倉の気持ちには応えられないのに、門倉のキスも優しく抱きしめてくれた手も拒まなかった私はずるい。
自分のずるさや浅ましさに嫌気が差した。
門倉にはきっと、私なんかより素敵な人が見つかるだろう。
今更ながら門倉を好きだと気付いたことも、できるなら門倉の優しさに溺れてしまいたいと思ったことも、全部私の胸の奥に閉じ込めた。
土曜日の夜、久しぶりに光の家を訪れた。
何日も連絡がなくて心配していたけれど、昨日ようやく連絡が取れた。体調が悪くて、仕事から帰るとずっと寝ていたらしい。
そんな時くらい遠慮しないで頼ればいいのに。また私に無理をさせてはいけないと思って連絡しなかったのかな。
「瑞希の作った卵の雑炊好きだったな。久しぶりにあれ食べたい」
光は電話口で懐かしそうにそう言った。
確か結婚して少し経った頃、光が風邪をひいて食欲がなかった時に作ってあげたんだ。よく覚えてるな。
仕事が終わったら光の部屋に行って作ると約束した。
何日ぶりかに会う光は顔色が悪く、だるそうに体をベッドに横たえていた。
雑炊を作ってテーブルに運ぶと、光は「瑞希が食べさせて」と甘えた声で言った。
熱い雑炊をお椀によそい、スプーンですくってふうふう吹き冷ました。
「はい、あーん」
雑炊のスプーンを口の前に運ぶと、光は嬉しそうに口を開いた。
「あーん」
まるで雛鳥に餌を与える親鳥のようだ。
「やっぱうまいな……。俺、瑞希の手料理は全部好きだよ」
光はしみじみとそう言った。
光が少し時間をかけて雑炊を食べ終えた後、食器を下げようと立ち上がったときに、棚の上に無造作に置かれた病院の処方薬の袋が目に留まった。
「病院で薬もらったの?」
「ああ……うん。風邪こじらせちゃったみたいでさ。咳とか頭痛とか微熱とか、あんまり長引くからしんどくて病院に行ったんだ」
「そうなんだ。これ食後って書いてあるけど、飲まなくていいの?」
「飲むよ。忘れかけてた」
グラスに水を注いで薬と一緒に手渡すと、光は水と何種類かの薬を口に含んで飲み込んだ。
何種類もの薬を処方されたということは、相当ひどい風邪だったんだろう。
薬を飲んだ後、光はベッドに横になってぼんやりと天井を見上げていた。
やっぱりまだだいぶ具合が悪いのかな。
「光、大丈夫?お風呂には入れそう?」
「体はちょっとだるいけど……瑞希が一緒なら入れる」
「えっ……一緒に?!」
新婚の頃はよく一緒に入ったけれど、もう何年もお風呂には一緒に入っていない。
光は私の裸なんか見飽きてるだろうけど、なんだかものすごく恥ずかしい。
「背中流してくれる?それから二人でゆっくり湯舟に浸かりたいな」
「えーっ……。先に言っとくけど、お風呂でやらしいことしないでよ」
「しないよ。のぼせちゃうと危ないもんな」
新婚の頃の教訓だ。
『お風呂でやらしいことをすると、のぼせて危ないからやめておこう』
思えばあの頃は楽しかった。
二人で笑って食事をして、一緒にお風呂に入ってイチャイチャして、少しのぼせて二人してベッドに倒れ込んで、また笑ってキスをした。
若かったな、二人とも。
一緒にいられることが何よりも嬉しくて、そばにいるとお互いの肌に触れ合いたくて、何度も愛してるの言葉をくりかえしながら、優しい気持ちで肌を重ねた。
またあの時みたいに戻れたら、幸せだと思えるのかな?
一緒にお風呂に入って、光の背中を流した。
なんだか痩せたみたい。体調を崩しているせいなのかも。
「瑞希に背中流してもらったのなんて何年ぶりだろ?」
「そうだね。新婚の頃以来かな」
「新婚の頃はよく一緒に入ったな」
「あの頃は若かったからアレだけど……今はもういい歳になったから、体見られるのはやっぱり恥ずかしいな」
「瑞希はあの頃も今も可愛いよ」
可愛いって……。そんなこと言われると、かなり照れる。
入浴を済ませた後、私たちは手を握り合って寄り添って眠った。
お風呂で疲れたのか、光はベッドに入ってすぐに眠ってしまった。しっかり栄養を取ってゆっくり休めば、体調もすぐに良くなるはず。
光の寝顔を見ながら、そのうち私も眠りに落ちた。
日曜日は雨だった。
ベッドの中で雨音を聞きながら、結婚前によく行った中華料理屋のあのメニューが好きだったとか、新婚の頃に私がよく作った料理の話とか、他愛ない話をして長い時間を過ごした。
昨日から光はやけに懐かしい話をする。私たちが一番楽しかった頃の話ばかりだ。
なんとなく違和感を抱きながらも、そのうち私もすっかり懐かしい話に興じていた。
この間まであんなに私の体を求めていたのに、ここ最近の光は軽くキスをしたり抱きしめたりはしても、それ以上のことをしなくなった。
私に気を遣っているのか、体調が悪いからなのか、それとも光自身の性的な欲求が落ち着いたのか。
理由はわからないけれど、昔みたいに光と笑って話せることはとても嬉しかった。
だけど笑って話せるのは楽しかった頃のことばかりで、結婚生活がうまくいかなくなってからのことや今のこと、そしてこれから先の未来のことを、光は何ひとつ話そうとしない。
どうせ話すなら楽しい話の方がいいって思っているのかな?
だけどそれは、もう昔には戻れないという現実だけでなく、この先の人生を二人で歩むのは難しいのだということを、改めて突き付けられているような気もした。
光は話をしている途中で、時折私から顔をそむける。
まだ咳が治らないからつらいのかな。そう思ったけれど、その後すぐ私の方を見て笑うから、そのうちあまり気にならなくなった。
夕飯が済んだ後、光はまた薬を飲んでベッドに横になった。よほど具合が悪いのかな。
夕飯の片付けを済ませてそばに行くと、光は私の方に手を伸ばした。
あ、これ……。
『おいで、瑞希』
懐かしいな。昔、光がよくやっていたんだ。
隣に添い寝すると、光は私の顔を両手ではさんで額や頬、鼻先、そして唇に何度も短いキスをした。
「俺、今めちゃくちゃ幸せ。瑞希がすぐそばにいて笑ってくれて……。瑞希、大好きだよ」
「ん……?急にどうしたの?」
「もう会えないと思ってたのにまた会えて……。ひと目だけでも会いたいって思ってたはずなのに、実際に会ったら笑って欲しいとか、また一緒にいたいとか、どんどん欲が出てきてさ……。また付き合ってくれるとは思ってなかったから、もっと欲が出て瑞希を縛り付けちゃった。ごめんな」
急に改まって何を言い出すんだろう?
どう言い表していいのかはわからないけど、明らかに何かがおかしい。
「光、急にそんな改まっておかしいよ。どうしたの?」
言い様もない不安が込み上げた。
光は私の唇にそっと口付けて、優しく髪を撫でた。
「瑞希、今までごめんな。もう一度夢を見させてくれてありがとう」
「え……?」
「別れよっか、俺たち」
その言葉の意味がわからず、私は少しの間言葉を失った。
「九州に転勤が決まったんだ。瑞希がついてきてくれるって言うなら話は別だけど、そんなに遠く離れちゃうとなかなか会えないからさ。瑞希は今の仕事やめてまで、また俺と一緒になりたいなんて思ってないだろ?」
あまりにも光の言う通り過ぎて何も言えなかった。
課長という立場もあるし、この仕事が好きで頑張ってきただけに辞めたくない。
私がいないと生きていけないとまで言っていたはずなのに、光はあまりにもあっけらかんとしている。
「また付き合いだしてから、瑞希は一度も言ってくれなかったね……俺のことが好きだって。なかなか笑ってくれなかったし……無理させてたの、ホントはわかってたんだ」
光は気付いていたんだ。
私が昔のように心から光を愛せなかったことを。
「どうすれば笑ってくれるのかなとか、どれくらい愛したら瑞希は俺を愛してくれるのかなとか……ホントは俺より好きな人がいるのかなとか、ずっと不安だった」
「うん……」
「でも俺は瑞希が好きだから……嘘でもいいから、光が好きだって言って笑って欲しかった。そんなこと言える立場じゃないのはわかってるけど……いつか復縁して、子どもが生まれて家を買って……とかさ、もう一度瑞希と夢を見たかったんだ」
光は笑みを浮かべながら穏やかな口調で話し続けた。
「子どもは瑞希に似た可愛い女の子がいいなとか、小さくてもいいから庭のある家を買って、休みの日には家族でバーベキューができたらいいなとか……そんなことばっかり考えてた。でもそれは俺のおぼろげな夢であって、瑞希はそんなの望んでないってわかってる」
光はきっと、昔もそんな夢を見ていたんだろう。私にもそんな頃があったからわかる。
一緒に幸せになろうと約束して結婚したはずなのに、私たちはいつから別々の未来を目指して歩き始めたのか。
「瑞希がホントはあの人に惹かれてるのも、あの人が瑞希を好きなのも気付いてた。でも俺は瑞希を誰にも取られたくなかったんだ。邪魔してごめんな。瑞希が浮気なんかするわけないってわかってるのに、嫉妬してひどいこと言って……つらい思いさせてホントに悪かったと思ってる」
光の言葉を聞いているうちに、涙が溢れてこぼれ落ちた。
きっとつらかったはずなのに。
光も悩んだはずなのに。
「瑞希、最後にひとつだけお願い聞いてくれないか?」
「うん……なに?」
「別れた後も、もう少しだけ……1年……いや、半年でいいから、俺だけの瑞希でいてくれる?俺も他の誰とも付き合わないから」
どうしてそんなことを言うんだろう?別れたらお互いのことはわからないはずなのに。
不思議に思ったけれど、私はそのお願いに素直にうなずいた。
「あと……寂しくなったら、たまにはメールとか電話してもいいかな」
「うん……いいよ」
「良かった。これで心置きなくいける。来週中にはここ引き払うし、明日からは転勤の引き継ぎと引っ越しの準備で忙しくなるから……今日で、サヨナラしよう」
サヨナラという言葉でまた涙がとめどなく溢れた。
本当に大好きだった。二十歳の時からの光との想い出が走馬灯のように蘇った。
好きで好きでどうしようもなくて、ずっと一緒にいられるように結婚したのに、たったの5年で離婚した。好きだから言えなかったことや、好きだからこそつらかったこともたくさんあった。
お互いの胸に残る傷跡はいつになったら癒えるのだろう?愛し合った日々や、別れを選んだあの日を、想い出と呼ぶにはまだ早すぎる。
「光……ずっと一緒にいようって約束……守れなくて、ごめんね」
「俺の方こそ……何度もつらい思いさせてごめん。瑞希、愛してる。最後に一度だけでいい。嘘でもいいから、愛してるって言って」
「光、ありがとう。愛してる……」
お互いの涙を指先で拭って、サヨナラのキスをした。今まで何度も交わしたどのキスより、とても優しくて切ないキスだった。
光の家を出ると、雨はすっかり上がっていた。
光は一緒に電車に乗って私をマンションまで送り届けてくれた。まだ体はつらいのに、最後だからと少し無理をしていたのだと思う。
いつもなら5分ほどの駅からマンションまでの道のりを、しっかりと手を繋いでゆっくり歩いた。
手を繋いで歩くのはこれでもう最後だと思うと寂しくて、胸がしめつけられるように痛んだ。
マンションの下まで来ると、光は私の頬にキスをして、じゃあまたね、と言って手を振った。
光の後ろ姿が涙でにじんでぼやけて見えた。
自宅に戻り、パジャマに着替えてベッドに横になった。
あんなに必死で私を繋ぎ止めようとしていたのに、あまりにも呆気なく別れを告げた光の言葉が、頭の中で何度もくりかえされた。
今日で別れるのに、帰り際に『じゃあまたね』と言ったのは、光なりの優しさだったのかも知れない。
いつかもっと大人になってまた会えたなら、あの頃のことも今のことも、想い出だと笑って言えるだろうか。
光と別れて3か月が過ぎた。暑かった夏がもう終わろうとしている。
出先からの帰りに買ったペットボトルのアイスカフェオレには、線香花火のおまけが付いていた。
線香花火か……懐かしいな。
光は九州で元気にやっているだろうか?
別れて1か月ほどが過ぎた頃、一度だけ電話があった。転勤先での生活もようやく落ち着いたとか、まだ職場と自宅の往復くらいで周辺のことはよくわからないと言っていた。
そして電話を切る前に、『瑞希、愛してる。幸せになれよ』と言った。その後、光からの連絡は一度もない。
光にも幸せな未来が訪れるといいなと思う。
それから2か月が経った頃。
その知らせはあまりにも突然舞い込んだ。
『光が死んだ』
小塚からの電話で光の死を知ったのは、光が亡くなってから既に2か月が過ぎてからだった。
その知らせを受けた時、あまりにも信じられなくて何度も耳を疑った。
光は膵臓ガンに冒されていたのだそうだ。
九州に転勤になったと光は言っていたけれど、本当は病気が悪化して医者から余命半年の宣告を受け、仕事を辞めて実家に帰ったらしい。
私と再会した時には既に病を患っていたんだそうだ。まだ若いこともありガンの進行が早く、気付いた時にはかなり深刻な病状だったと言う。
それを聞いて、なぜあんなに光が私に執着したのかがわかった気がした。
一度は自ら絶とうとした命だけど、私と再会してから死ぬのが怖くなったと、光は小塚に言ったらしい。その時、小塚は光がガンに冒されていたことを知らなかったそうだ。
「たまに光と話すと、ずっとシノのことばっかり言ってたよ。また付き合えるようになったって時は、めちゃくちゃ嬉しそうだったな。だけどその後話した時は、シノが笑ってくれないってすごく悩んでた。光はホントにシノのことが好きだったんだな」
光が亡くなる少し前に小塚が病院へお見舞いに行った時、光はこう言ったそうだ。
『瑞希には知らせないで欲しい。幸せになって欲しいから、もう俺のせいで悲しませたくないんだ』
別れる時に光が『半年でいいから俺だけの瑞希でいてくれる?』と言ったのは、自分の余命がもうあと半年ほどだとわかっていたからなのだろう。
実際の余命は医師からの宣告よりもかなり短かった。
自分が生きている間だけでも、私を他の人には触れさせたくなかったんだな。
だけど光は私が次に進めるように嘘をついて身を引き、病気で余命が短いことも、亡くなったことも、私には知らせようとしなかった。
「シノには知らせるなって光に言われてたんだけどな。でもやっぱり俺はシノには知っていて欲しかったんだ。時々は会いに行ってやって欲しいから」
その週の日曜日、岡見と一緒に光の実家を訪れた。
光と離婚して以来会っていなかったから緊張したけれど、光の母親は涙を浮かべながら私を迎え入れてくれた。
仏壇の前に座ると、遺影には少し若い笑顔の光の姿があった。見覚えのある写真だ。
「これね、光のお気に入りだったの。瑞希ちゃんと初めて結婚式の衣装合わせした時の写真」
ああ、そうだ。ウエディングドレスを試着しただけで感極まって、二人して涙ぐんだっけ。
「離婚して家に帰ってきた時はずっと落ち込んでてね……自分がしっかりしてなかったから、瑞希ちゃんを幸せにしてやれなかったって。でも光が亡くなる少し前にまた付き合ってたのよね?」
「はい……」
「すごく喜んでたのよ。あの時はもう病気が見つかった後だったけど……瑞希ちゃんのために病気を治して、今度こそ幸せにしたいんだって。それは叶わなかったけどね……また一緒にいられて幸せだったって、亡くなる前に言ってたわ」
今更ながら光の私に対する深い愛情を知り、胸が痛くて涙が溢れた。
もっとしっかり光と向き合えば良かった。
ちゃんと心から愛せたら良かったのに。
また後悔ばかりが胸に降り積もる。
「時々、会いに来てもいいですか?」
「それは嬉しいけど……瑞希ちゃんはまだ若いんだから、自分のために新しい幸せを見つけていいのよ。光もそれを望んでると思う。ただね……光のこと、忘れないでやって欲しいな。時々は思い出してやってね」
忘れない。忘れられるわけがない。
光は私が初めて本気で好きになって、大事な初めてのものを全部あげた人なんだから。
優しい光が大好きだった。
愛しそうに私を呼ぶ優しい声が大好きだった。
ずっと一緒にいようって約束をした。
その約束は果たせなかったけれど、初めて私を愛してくれた人が光であることは、この先もずっと変わらない。
『じゃあまたね』
サヨナラした日の光の声が耳の奥に響いた。
光、大好きだったよ。
優しいサヨナラをありがとう。
その日、自宅のベランダで一人、カフェオレのおまけに付いていた線香花火に火をつけた。
季節外れの線香花火は静かに火の花を咲かせ、ゆっくりと燃え尽きた。
『俺、この先ずっと何年経っても瑞希と一緒にいたいよ』
あの日の光の声が空の彼方から聞こえた気がした。
光の実家を訪れてからしばらく経った頃。
久しぶりに門倉と居酒屋に行ってお酒を飲みながら、光が亡くなったことを話した。
門倉は驚き言葉をなくした後、神妙な面持ちで『そうか……』と一言だけ呟いた。
私が光と別れて少し経った頃、『俺と付き合おう』と門倉は言ってくれたけれど、私は光との約束を守るためにそれを断った。
そして今。門倉は来月一日付けで、また支社に転勤することが決まっている。
「で、おまえはこれからどうすんの?」
「これまで通り頑張るよ」
枝豆を口に放り込みながら答えると、門倉は小さくため息をついた。
「……俺と一緒に来るか?」
「まだ半年経ってないしね。気持ちだけありがたく」
「おまえの禊はまだまだ終わりそうもねぇなぁ……」
「そうだね。光が亡くなってから、またいろいろ後悔したよ。失ってから気付くものが多すぎてイヤになるね」
幸せだったことやつらかったこと、いろんなことがあったけれど、光と過ごした日々を想い出と呼べるまで、私の禊は続くのかも知れない。
「俺がいなくなったら誰と禊するんだ?」
「さぁ……。一人で、かな」
「寂しいな、おい。しょうがねぇな……たまには戻ってきて付き合ってやる」
門倉の言葉に思わず吹き出した。
私の手から枝豆がコロコロと転げ落ちる。
「私の禊に付き合うためだけに、わざわざ神戸から戻ってくるの?」
「……悪いか」
門倉はそっぽを向いて、ばつの悪そうな顔をしている。
ホントに優しいな、門倉は。光が亡くなったことで、私がまた前に進めなくなるとか、自分がいないと私が寂しい気持ちとかつらいことを吐き出せないと思ってるんだ。
光は半年でいいって言ったけど、私が次の恋に進むには、もう少し時間が必要だと思う。
門倉のことは大事だし、好きだと思うからこそ、気持ちに応えられないままなんのあてもなく待たせるわけにはいかない。
「悪くないけど……門倉の禊は済んだんだから、気を遣わなくていいよ。遠慮なく幸せになんなさい」
「ホントにムカつくな、おまえは。だったら遠慮なんかしねぇ。破産するほど戻ってきて口説き落としてやる」
なんだかすごい宣戦布告を受けてしまった。こういうところは門倉らしい。
「ふーん。でも私の禊が終わるの待ってたら、門倉はおじいちゃんになっちゃうんじゃない?」
「確かにな。新卒の初々しい新入社員が、今では立派な課長だよ」
ん……?なんのこと?
確かに門倉も私も大学を卒業してすぐに入社して、今では課長だけど、それがどうかしたのかな?
「どういうこと?」
「この際だから教えてやる。俺は新入社員の時からおまえが好きなんだよ」
「えっ?」
「おまえが結婚してたから何も言わなかったけどな。俺もその後結婚したけど離婚したし、こっち戻ってきたらおまえも離婚してたから、ずっと狙ってたんだよ」
それは知らなかった。私はずっと門倉にロックオンされてたのか。
私は気付かないうちに、まんまと門倉の手の内に捕らえられていたってわけだ。
「狩人みたい。気が長いんだね」
「そうでもねぇ。なんなら今すぐ噛みついてやろうか」
「それはやめて。約束やぶると光に怒られるから。光の最後のお願いだからね。ちゃんと全うしないとあの世で合わせる顔がないよ」
「あの世でって……婆さんか、おまえは……」
門倉は呆れた顔をしてビールを飲み干し、おかわりを注文した。
「俺もあいつにでかい口叩いたからな。中途半端で引き下がるわけにはいかねぇんだ」
なんのことだろう?門倉が光と個人的に話したことなんてあったのかな?
「それ、なんのこと?」
「おまえが会社で倒れて入院したってあいつに電話した時にな……。本当に篠宮が好きなら傷付けるのはやめてくれって言ったんだ。俺が何言っても篠宮はあんたを選んだんだから、せめて大事にしてやってくれって。幸せにする気がないなら早く身を引いて篠宮を俺に任せてくれ、俺が必ず幸せにするからってさ」
「えっ、そんなこと言ったの?!」
私の知らないところで、門倉は光にそんなことを言ってたのか……。
だから光は……。
「余計なお世話だったか?」
「ううん……。おかげでさ……別れる少し前の光は昔よりも優しかったし、すごく大事にしてくれたよ。ありがとね」
ほんの束の間だったけれど、昔みたいに優しい気持ちで光と一緒に過ごせた。
お互いに素直に気持ちを伝えられたと思うし、光との最後の想い出を優しいものに上書きできたことは、本当に良かったと思う。
「お互いにすごく幸せだった頃に戻ったみたいに、優しい気持ちになれたよ。光のこういうところが大好きだったとか、楽しかったこととか……今はつらかったことより、幸せだったこと思い出すようになった」
「そうか」
「もう会えないって思うと余計にそうなるのかな。ますます次の恋は遠のいたかも」
「えっ」
ジョッキを傾けようとしていた門倉が目を見開き、ものすごい顔をして私の方を向いた。
「遠のいたって……具体的にどれくらいだ」
「んー……。せめて3回忌が終わるくらいまでは、光を偲んで禊続けようかな」
私の言葉に門倉は気が遠くなったのか、信じられないという顔をしている。
「3回忌って……丸2年もか!せめて1周忌までにしろ。おまえも俺も、もう33だぞ?!そんな悠長なこと言ってる場合かよ!」
「うん……そうなんだけどね。ちゃんと大事にできなかった分、もうしばらくは光だけの瑞希でいてあげようかなって。だから門倉は私に構わず新天地で新しい恋を見つけてよ」
門倉は大きなため息をついて勢いよくビールを煽った。
「……おまえ、俺のこと嫌いか?」
「ん?嫌いじゃないよ」
「じゃあ好きか?」
今は光のために門倉に気持ちを伝えるのはやめておこう。
門倉は転勤して私と離れたら、新しい恋人が見つかるかも知れない。それを咎める権利なんて私にはないし、2年待ってくれというつもりもない。
せめて3回忌が終わるまでは他の人と恋をしないというのは、私の自己満足に過ぎないんだから。
「今は言わない」
「なんだよ。答出てんじゃん。じゃあ2年間俺にもあいつを偲ばせろ。まったく知らない仲じゃないしな。なんてったってライバルだし?」
もし光が生きていたら、門倉と仲良く酒なんか酌み交わすだろうか?火花がバチバチ飛び散る修羅場になったりなんかして。
「光、門倉に偲ばれて喜ぶかなぁ……」
「バーカ。あいつとおまえを引き合わせたのは俺だっつうの。きっと俺に感謝してるだろ。それにさ、あいつを大事にしたいっておまえの気持ちも、おまえのこと好きなあいつの気持ちも、俺は大事にしたいんだ」
「ん……ありがとう」
月末、門倉は企画一課を去った。
『ちょくちょく戻って来るからな』と私に言い残して。
パーテーションの隙間から見える一課のオフィスに、門倉はもういない。
喫煙室にも、社員食堂にも、いつもの居酒屋にも。
コーヒーを買いに行くと、二十代半ばくらいの若い男性が自販機の補充に来ていた。
光ももうこの世にはいない。
大切な人との別れはいつも寂しい。
だけど今、私の心は穏やかだ。つらかった過去を何度もくりかえし思い出していた頃のように、悲しさや虚しさが込み上げたりはしない。
大丈夫。私は前を向いて歩いて行ける。
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