第17話 依存

 休み明けの月曜日。

 朝から気分が重い。出張から戻った門倉が、今日からまたいつも通り出勤している。

 今朝廊下ですれ違った時、門倉は見事に私をスルーした。まるで私の存在なんかここにないみたいに。

 仕方ないとは思うけど、やっぱり寂しい。

 ずっと避けられていたけどまた前みたいに普通に話せるようになったのも束の間、今度は前より状況が悪い。今度こそもう門倉とは決別かな。

 やっぱり門倉との焼肉の約束は果たせそうもない。


 昨日の帰り際、今週から仕事が忙しくなるので更に帰りが遅くなりそうだと光に伝えた。光は少し寂しそうな顔をして、仕事なら仕方ないなと呟いた。

 休みの日には多分会えると思うし、平日は少しだけ我慢してもらおう。



 オフィスではオリオン社担当のグループと、新しいクライアントのホシザキカンパニーの仕事に取り掛かるグループが、それぞれ慌ただしく行き来している。

 ホシザキカンパニーのイベントは若者向けの夏のイベントで、企画書を手に部下たちがああでもないこうでもないと頭を悩ませている。

 ターゲットは若いカップルだから、7割方が女性を喜ばせるような企画になるだろう。

 さて、今度はどんな企画が飛び出すのか。今から企画会議が楽しみだ。



 お昼になる少し前、部長から会議室に呼び出された。部下たちに指示を出して会議室に足を運ぶと、そこには同じように呼び出されたであろう門倉もいた。

 なんだか緊張する……。門倉は私の方を見もしないけれど。

 部長からの通達は、来週からオフィスの場所が変わるということだった。

 新しい部署が発足することになり、今の企画一課と二課のオフィスを新部署が使用することになったそうだ。そして一課と二課は、あまり使われていない第二大会議室をパーテーションのようなもので区切って共同で使用することになるらしい。

 まさに晴天の霹靂だ。

 新部署発足の話は聞いていたけどオフィスの引っ越しなんて初耳だし、しかも一課と共同になるなんて。

 いくら仕切りがあっても毎日ずっと同じ部屋に門倉がいるとは!

 冗談じゃないよ……。隣の部屋でもこんなに気まずいのに。


「あのー……なんで一課と二課が同じ部屋になるんですか?新部署がそちらを使えばいいのでは……」


 決定済みのことだから何を言ってもしょうがないのはわかっているけれど、とりあえず申し立ててみる。


「新部署はふたつともジャンルがまったく違う課なんだよ。その点一課と二課は同じ企画課だから、オフィスを共同で使用することになったんだ。今後、一課と二課が協力して請け負う仕事もあるかも知れないし」


 それこそ冗談じゃないよ……。

 だいたい毛色の違う一課と二課のメンバーがうまくやっていけるかどうかもわからないのに。


「とにかくこれは社内決定済みだから。今週金曜までに各自で荷物まとめて土曜には引っ越しできるようにしてくれ」


 これまた忙しい時に……。会社は部下の仕事の邪魔をしたいのか?

 いろいろ思うところはあるものの、何を言っても聞いてもらえなさそうだ。



 部長の話が終わって会議室を出た。門倉は私には目もくれず、さっさと一課のオフィスへと戻っていく。

 そんなあからさまに無視しなくてもいいじゃないか。私だって散々悩んだのに。

 ……なんて、門倉にはそんなこと関係ない。

 門倉の気持ちは嬉しかったし、門倉とならうまくいくような気もした。だけど私は門倉に止められたにもかかわらず、一度は別れた光を選んだ。その結果、私は仲のいい同期の門倉を失った。

 あっちを立てればこっちが立たず。なんだかうまく行く気がしない。

 何がうまく行かないって……何もかもだ。



 忙しい仕事の合間や残業中にみんなで少しずつ荷物を整理して、金曜日の夜にはなんとか引っ越しの準備が済んだ。

 今週はずっとこんな状態だったから、毎日仕事を家に持ち帰って企画書のチェックをしたり、書類の作成をしたりしている。光と会う時間は取れないままで週末を迎えてしまった。

 土曜日の明日は、休日出勤をしてもオフィスの引っ越しで何時間かは潰れてしまうだろう。

 このままでは日曜日まで出勤する羽目になりそうだ。それだけはなんとか避けないと。


 光は毎日メールを送ってくる。そのほとんどが会いたいとか、会えなくて寂しいと言った内容だ。

 昔付き合っていた時は大学生だったからほぼ毎日会っていたけれど、今はそういうわけにもいかない。

 私にはやましいことなんて何ひとつないけれど、また光を不安にさせているのかも。日曜日だけはなんとかして光と会う時間を作ろう。



 翌日土曜日。

 部下たちもほぼ全員が休日出勤している。

 午前中のまだ時間の早いうちにオフィスの引っ越しが済んだ。お昼になる少し前、細かいものの配置などがだいたい片付いた頃に部長からジュースの差し入れが届き、みんなでひと息つくことにした。


「もう昼かぁ、腹減ったなぁ」

「今日は社食休みですね。土曜の昼御飯っていつもどうしてます?」

「男はだいたいそこの定食屋か牛丼屋だよな。女子は?」

「いろいろ。パスタ屋とかカフェとか、ファミレスにも行く」


 みんなはジュースを飲みながら昼食の相談をしている。それを聞き流しながら室内を見回していると、ところどころパーテーションの隙間が広い部分があることに気付いた。

 でもまぁ、これくらいなら特に仕事に差し支えないからいいか。

 自分のデスクに座りなんとなく横を向くと、少し広い隙間から一課のオフィスが見えた。

 あ……真横だ……。

 隙間から見えたのはデスクでパソコンに向かう門倉の姿。一瞬、門倉と目があった気がする。

 いや、パソコンの画面見てるなら目が合うわけないか。気のせいかな。


「それじゃあお昼までもう少しあるから、自分の荷物の片付け済んでない人は済ませちゃって。済んだ人はこっち手伝ってくれる?」

「わかりました」


 手の空いている部下たちに手伝ってもらって、消耗品を棚に並べたり必要な掲示物を壁に貼ったりした。


「篠宮課長」


 隣で手伝ってくれていた早川さんが、作業を進めながら話し掛けてきた。


「なに?」

「私、彼と別れることにしました」


 一瞬耳を疑った。


「……え?」

「あれからずっと話し合ったんですけど、だんだん険悪になってきて疲れちゃいました。最近はなんでこの人と結婚しようと思ったんだろうって考えるようになって。お互いにわかり合うことは無理みたいです」

「うん……そうなんだね……」


 あんなに幸せそうに婚約を報告していたのはほんの少し前のことなのに、心なしか今の早川さんの表情には疲れがにじんで見える。

 私が余計なことを言ったせい?

 でもあのまま結婚していたら、きっと夫婦関係に亀裂が生じていただろう。遅かれ早かれ直面する問題だったのかも知れない。

 ただ、仕事が原因で別れることになるなんて他人事とは思えない。


「まだまだこの仕事続けたいですからね。結婚は仕事に理解のある優しい人が見つかったらしたいと思います」

「……そっか」


 ずいぶん悩んだのだと思う。

 話し合っていがみ合って悩みに悩んだ末、別れを決めた早川さんは清々しい顔をして前を向いている。

 強いな、早川さんは。

 彼女ならきっと自分にとって何が一番大事なのか見失うことなく、自分の手で幸せを掴み取ることができるだろう。


「女はさ……結婚してもしなくても、何かと大変だよね」

「ホントに……不公平です」

「いいタイミングで見つかるといいね。わかり合える人」

「はい」


 お昼のチャイムが鳴った。みんなは時計を見上げて手を止める。


「篠宮課長にはまだ現れないんですか?」

「ん、何が?」

「わかり合える人」

「……どうかな」



 土曜の昼にいつも訪れる喫茶店でサンドイッチを食べながら、早川さんの言葉を思い出していた。


『なんでこの人と結婚しようと思ったんだろうって考えるようになって』


 最初はおそらく、彼のことがとても好きだったから結婚しようと思ったんだと思う。だけど仕事とか家に嫁ぐという考え方とか相容れない部分があって、お互いに一歩も譲れなかったんだろう。

 愛し合って結婚を決めたはずなのに、結婚を具体的に考えたせいでいがみ合って別れてしまうなんて悲しい話だ。

 私と光はお互いに好きだったから結婚したものの、失敗に終わった。

 それなのに私たちはまた一緒にいる。

 光は私を好きだと言ってくれるけど、私は?本当に私は光の気持ちに応えられているだろうか?

 会えなくて寂しいとか、一緒にいる時くらいはもっとくっついていたいとか、以前の光はほとんど言わなかった。それが原因で気持ちが離れてしまったから、今度は素直に伝えようと思っているのかな。

 前みたいに光に寂しい思いをさせないように、私もできるだけ会う時間を作ろうと思う。



 サンドイッチを食べ終わり、コーヒーを飲みながら光にメールをした。


【明日は休めるように今日中に仕事片付けるつもりだから、今夜は帰りが遅くなると思う】


 すぐに光からの返信があった。


【明日休みなら仕事終わったら俺の部屋においでよ】


 これは泊まれと言うことか。泊まったらまた今夜もゆっくり休ませてはもらえそうにない。

 本当は最近少し寝不足で疲れているから、帰ってぐっすり寝たいんだけど。

 ……仕方ない。

 わかった、仕事が終わったら連絡すると返信してスマホを置いた。


 コーヒーを飲み終えて少し目を閉じると、急激に眠くなってきた。

 ここで寝るわけにはいかない。うっかり眠ってしまっても、ここに来て起こしてくれる人なんか、今はいないんだから。

 少し早いけどオフィスに戻ることにしよう。



 午後はオフィスの引っ越し準備のせいで滞っていた仕事を片っ端から片付けた。

 今日は仕事を持ち帰ることはできないから全部済ませて帰りたいけれど、部下たちから新しい企画の相談を受けながらなので、思うように仕事がはかどらない。

 かなり遅くなることを覚悟しておいた方が良さそうだ。



 部下たちは8時過ぎに全員退社した。

 一課のオフィスも人はほとんどいないらしい。


「門倉課長、お先に失礼します」

「お疲れ様」


 パーテーションの向こうから、一課の人と門倉の声が聞こえた。

 門倉、まだ残ってるんだ。なんとなく声がだるそうに聞こえたけど……週末だし疲れているのかも知れない。


 それからまた企画書に目を通したり、パソコンに向かって書類の作成をしたりして、なんとか仕事を片付けて時計を見上げると、時刻はもう9時半になろうとしていた。

 門倉が帰った様子はなかったけど、まだ残ってるのかな?

 少し気になって、帰り支度をしながらパーテーションの隙間から一課のオフィスを覗いてみると、門倉がデスクに突っ伏しているのが見えた。

 え?寝てるの?

 そっと一課の入り口に近付いて中を見てみると、残っているのは門倉一人だけ。

 突っ伏していた門倉が体を起こした。ノロノロと鞄を手にして椅子から立ち上がろうとしたけれど、足元がふらついてまたドサリと椅子に倒れ込んだ。

 なんだか様子がおかしい。もしかして具合が悪いのかも?

 どうしようかと思ったけれど、放っておくわけにもいかない。もし何かあったら大変だ。とりあえず大丈夫なのかだけでも確認しないと。

 思いきって一課のオフィスに足を踏み入れた。門倉は椅子に座ったまま手で目元を覆っている。


「……門倉、大丈夫?」


 声を掛けると、門倉は何も言わず鞄を手に椅子から立ち上がり、ゆっくりと歩きだした。やはりその歩様がおぼつかない。


「ねぇ……大丈夫なの?」


 私が目の前まで駆け寄ると門倉は立ち止まって、じっと私を見下ろした。

 顔色が悪い。やっぱり具合が悪いんだ。

 車で送ってもらうにも他に誰もいないしどうしようかと思っていると、門倉が突然私の方へと倒れ込んだ。


「えぇっ?!」


 支えきれず私も一緒にその場に倒れ込む。


「いたた……って……何これ熱っ!」


 私に覆い被さるようにして倒れた門倉の体は、ビックリするほど熱かった。


「すごい熱……!どうしよう……とにかくなんとかしないと……」

「……大丈夫だ、ほっとけ」


 門倉は弱々しい声で呟いて起き上がろうとした。


「全然大丈夫じゃないし、ほっとけるわけないでしょ!」


 ポケットからスマホを出してタクシーを呼び、なんとか必死で門倉を立ち上がらせ、肩を貸してオフィスを出た。

 エレベーターに乗ると、門倉の苦しそうな息遣いがさっきよりハッキリと耳に届いた。


「とにかく家まで送ってくから。タクシーの運転手さんに家の場所くらいは言える?」

「いいって言ってるだろ……。俺のことなんかほっといて……あいつんとこ行けよ……。待ってんだろ……」


 門倉にはそんなこと一言も言ってないのに、私が光と会う約束してるって、なんで知ってるんだろう?


「……なんで?」

「仕事しながら……ずっと……時計チラチラ……見てただろ……。わかるっつーの……」


 それって……門倉はずっと私を見てたってこと?


「覗き見禁止だからね」

「しょうがねぇだろ……。目が勝手に……見てるんだから……。とにかく……俺のことはほっとけ……。言う通りにしないと……襲ってやるからな……」


 こんな熱があっても憎まれ口だけは叩けるんだから、家に着くまでなんとか意識は持ちそうだ。


「できるもんならやってみな。一人じゃまともに歩けないくせに。病人は大人しく言うこと聞きなさい。家まで送らせろ」

「……くそ……覚えてろよ……」


 なんだかんだ言いながらも、門倉は私の肩に体の重みを預けている。

 こんな時に不謹慎なのはわかってるんだけど、門倉に憎まれ口を叩かれるのが嬉しいなんて、私もどうかしてる。

 いつもはバカにされたり助けられたりしてばかりだったから、今は私が門倉を助けているんだと思うと優越感で笑いがもれた。


 タクシーに乗り自分の家の場所を運転手に告げると、門倉は私の肩にもたれて目を閉じた。

 もしかしたら朝からずっと調子が悪かったのかな。今日は休むわけにはいかないと思って、無理して出社したのかも知れない。

 体調が悪いのに部下の前ではそれを見せず遅くまで仕事して、本当はものすごくつらかったはずだ。


「お客さん、もうそろそろですよ。大丈夫ですか?」

「あ、はい。なんとか」


 とりあえず家の中まで送り届けないと。

 門倉が住んでいると言うマンションの前でタクシーが停車した。料金を支払い運転手さんの手を借りて、なんとか門倉を担ぐようにしてタクシーを降りた。


「門倉、何階の何号室?」

「もうここで大丈夫だって……」

「家まで送らせろ」


 前に門倉に送ってもらった時に言われたことを言ってやると、門倉はつらそうに荒い息をしながら微かに苦笑いを浮かべた。


「5階……504……」

「5階の504号室ね、わかった。もう少しだから頑張ってよ」

「おー……」


 ここまで来ると観念したのか、門倉は大人しく私に送られる気になったようだ。

 門倉から預かった鍵でエントランスのオートロックを解除してエレベーターに乗り込むと、門倉が小さく笑った。


「エレベーター……乗るたびに……あの時のこと、思い出すわ……」

「ん?ああ……。門倉、あの時私が緊急呼び出しじゃないボタン押してたの、気付いてたんでしょ」

「……さぁな」


 気付いてたんだな。

 気付いてたのに教えてくれないなんて、本当に意地悪だ。


 鍵を開けて部屋に入り、照明のスイッチの場所を聞いて明かりをつけた。

 部屋の中は思ったより片付いている。1LDKの間取りの、男の独り暮らしって感じの部屋だ。

 とりあえず門倉をベッドに寝かせた。


「薬とか体温計とかどこにあるの?」

「もういいから……早く帰れよ……」

「あっそ。じゃあ勝手に探すからいい」


 部屋の中を手当たり次第ゴソゴソ漁っていると、ベッドから大きなため息が聞こえた。


「どこ探しても……ねぇよ……そんなもん……」

「そうなの?じゃあ買ってくる。近くにまだ開いてるドラッグストアある?」

「いいって……。俺もう寝るから……帰れよ……」

「ふーん……わかった」


 部屋の鍵とバッグを持って玄関を出た。

 鍵を閉めてエレベーターで1階に降り、スマホのアプリでこの辺りの地図を見てドラッグストアを探す。

 もういいから帰れと言われても、看病をしてくれる人なんか他にいないんだから、せめてできることだけでもしておかないと。

 マンションから歩いて10分ほどのところにあるドラッグストアで、必要なものをあれこれかごに放り込んだ。

 解熱剤と体温計、スポーツドリンク、冷却シート、冷やさないと使えないけど、アイス枕も念のために買っておこう。

 門倉の部屋には調理器具とか食材なんて何もなさそうな気がするから、レトルトのお粥とかゼリーなんかも買っておくことにした。

 会計を済ませて買い物袋を受け取るとかなりの重量だったけれど、急ぎ足で門倉のマンションへ戻った。


 重い買い物袋を提げて部屋に戻ると、門倉はスーツ姿のままベッドに横たわっていた。

 そっと近付くと苦しそうな寝息が聞こえた。汗もかくだろうし、せめて楽な服装に着替えさせてあげたい。

 勝手にタンスの中を漁り、部屋着らしきものとタオルを見つけ出した。汗をかいた時にすぐ着替えられるように、シャツとか下着とかもベッドのそばに用意しといた方がいいのかな?

 別の引き出しをいくつか開けてみる。宝探しに来た盗賊のような気分で、一番上の浅い引き出しの中を覗いた。


「あ……これ……」


 1枚の写真が目に留まり、手に取って眺めてみる。新入社員の頃に同じ課の同僚と一緒に撮った写真だ。

 髪の長い私の隣には門倉がいて、私の左手の薬指にはまだ真新しい結婚指輪が光っていた。みんな楽しそうに笑っている。

 若いな……門倉も、私も。

 10年も前のこんな古い写真を大事に取ってあるなんて、門倉って見かけによらず意外と几帳面なのか、物持ちがいいのか。

 それともこの写真によほどの思い入れでもあるのかな?

 写真を引き出しの中に戻し、また別の引き出しの中を物色して着替えを見つけ出した。

 よし、こんなもんだろう。

 ベッドの上で眠っている門倉にそっと近付き、額に浮き出た汗をタオルで優しく拭いて、冷却シートを貼り付けた。


「……冷たっ……!」


 どうやらびっくりさせてしまったらしい。

 門倉は重そうなまぶたを必死で開いてこちらを見た。


「ごめん、冷たかった?」

「おまえ……帰ったんじゃなかったのか……」

「ドラッグストアで必要なものいろいろ買ってきた」


 門倉はため息をついて呆れた顔をしている。


「余計なお世話だな……」

「余計なお世話でけっこう。とりあえず着替えて熱計ろうか。少し起きられる?」


 私が手を貸そうとすると、門倉はゆっくりと起き上がった。


「いい……。自分でできる……」


 門倉が着替えている間に、冷凍庫にアイス枕、冷蔵庫に多めに買ったスポーツドリンクやゼリーなどをしまった。


「着替え終わった?」

「ああ……」

「じゃあこれで熱計って」

「オカンか、おまえは……」


 スーツをハンガーに掛けていると、体温計の測定終了のアラームが鳴った。


「何度?」


 体温計を見せられて思わず目を見開いた。


「40.5℃?!えぇっ、何これ……!」

「俺も初めて見た……」


 見て見ぬふりしてほったらかしにしないで良かった……!

 とりあえず薬を飲ませなきゃ。でも何か食べてからでないと……。


「薬飲む前にお粥とかゼリーくらいなら食べられる?あっ、それともやっぱり病院に行った方がいいかも……」

「もういい……。後は自分でやるから……」


 門倉はさっきからしきりに私を帰らせようとする。こんな時くらいは頼ってくれてもいいのに。

 私が光を選んだから?門倉とは付き合えないって言ったら、今までの信頼関係も何もかもなかったことになるの?ずっと一緒に頑張ってきたのに、そんなの寂しい。

 冷蔵庫からゼリーを取り出して来て、スプーンですくって門倉の口の前に突き出した。


「私なんかとはもう関わりたくないとか思ってるかも知れないけどさ……こんな時くらいは頼ってくれてもいいでしょ……?おまえなんか要らないって言われてるみたいで寂しいじゃない……」

「要らないって言ったのは……おまえだろ……」


 門倉が目をそらして寂しそうに呟いた。

 胸がギュッと鷲掴みされるように激しく痛んだ。


「要らないなんて言ってない……」


 私の手からゼリーの容器とスプーンを取り、門倉は自分でゼリーを口に運んだ。


「何かあれば……おまえが来てくれるとか……思いたくねぇんだよ……」

「え……?」


 門倉はゼリーをベッドサイドに置いて私の腕を掴み、いつもより頼りない力で私を引き寄せ抱きしめた。熱に浮かされた門倉からは、速い鼓動と熱い体温が伝わってくる。


「そういうの……残酷なんだよ……。これ以上……期待させるようなことすんな……。おまえは俺より……あいつを選んだんだろ……」

「門倉……」


 門倉の手が私の体からゆっくりと離れた。


「もう行け……」

「でも……」

「抑えきかなくなるから……俺が熱で何もできないうちに……行けっつってんの……」


 門倉はまた容器を手にとって、スプーンでゼリーを口に運んだ。

 本当はつらいはずなのに、どうして門倉はこんな時まで強くて優しいんだろう。


 不意にあの日のことを思い出した。

 私は光が他の女と情事に及んでいる声を聞きながら、高熱のつらさに耐えて自分で自分の世話をした。

 目が覚めた時、私のそばには誰もいなくて、光に見捨てられたんだと思った。

 あの時の悲しさとかみじめな気持ちが蘇る。


「ごめん、やっぱりほっとけないよ。私はほっとかれてつらかったし、そばにいて欲しかったからさ……。せめて門倉が薬飲んで眠るまでは見届けさせてよ、心配だから」

「……勝手にしろ」


 ゼリーを食べ終えた門倉に薬と水を渡した。

 門倉は素直に薬を飲んで横になった。


「すぐ手が届くところにスポーツドリンク置いとくからね」

「おー……」


 ベッドサイドにペットボトル入りのスポーツドリンクを置いて離れようとすると、門倉は私の手を掴んだ。


「俺が眠るまで……いるんだろ?」

「ん?うん、いるよ」


 門倉の手が熱い。その熱が伝わって私の手まで熱くなる。


「だったら……こうさせとけ」

「それで安心して眠れそう?」

「興奮して……眠れなくなったら……責任とれよ」

「バカ……」


 手を握られながらベッドのそばに座って、しばらく門倉の様子を見ていた。門倉はつらそうに息をしながら目を閉じている。

 ちゃんと眠れるかな。早く薬が効くといいんだけど。

 目を閉じた門倉の顔を見ていると、私までだんだんまぶたが重くなってきた。ずっと寝不足で疲れが溜まっているから、気を抜くと眠ってしまいそうだ。

 私まで眠ってどうする。門倉が眠るまでなんとか持ちこたえなくちゃ。





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