第16話 情事

 週末は土曜日の休日出勤を終えた後、初めて光の部屋にお邪魔した。

 あまり広くはない1DKのマンションで、そこに住み始めてからもうすぐ2年になると言っていた。離婚してからこの部屋に入居するまでは、精神的に不安定で体調もあまり良くなかったので実家に居たそうだ。

 離婚してから5年も経った今になってまた私たちが付き合っていると知ったら、両親たちはどう思うだろう?

 本当の離婚の理由は詳しく話さなかったけれど、私の両親はきっと反対すると思う。離婚した時には『若気の至りで結婚を早まったから、世間と現実の厳しさを知ってうまくいかなかくなったんだな』と散々言われた。

 光の両親がなんと言っていたのかは知らない。

 結婚生活がうまくいっているうちは時々光の実家に遊びにも行ったし、光の両親にはとても可愛がってもらった。だけど結果的に離婚してしまったのだから、今となってはもしかしたら、可愛い息子を追い詰めてしまった悪い嫁として憎まれているのかも知れない。



 光の部屋に行く前に二人でスーパーに立ち寄り、約束していたハンバーグの材料を買って、光の部屋の少し狭いキッチンで料理をした。

 久しぶりに作ったハンバーグは少し見た目が不格好だったけれど、光はとても嬉しそうに食べてくれた。


「また瑞希の手料理が食べられるなんて、ホントに夢みたいだな」


 そう言った光の目が心なしか潤んで見えた。


 食事の後は一緒にキッチンで洗い物をして、入浴を済ませてから二人でお酒を飲んだ。

 昔みたいに缶チューハイの1本や2本で酔ったりしない。光は思っていた以上に私がお酒に強くなったことに驚いていた。

 今の仕事のこととか好きな食べ物の話とか、他愛ないことを遅い時間までお酒を飲みながら話した。


 その夜も私たちはベッドで抱き合った。

 別れる前からこの間の夜まで何年も触れ合っていなかったから私が忘れてしまっただけなのか、それとも実際に変わってしまったのか。光って昔もこんな風に私を抱いていたかな?

 ……そうか。光としか経験のない私と違って、光は他の人たちとも何度も関係を持っているんだ。私が聞いたのは二人だけだったけど、実際はもっとたくさんの人としていたのかも知れない。

 きっと今は私だけなんだと信じてるけど、好きじゃない人とでも体だけの関係を持つことができたんだよね、光は。

 実際のところ、私以外に一体何人くらいの人と関係を持ったんだろうとか。

 昔はこんなことしなかったなとか、一番最近別の人を抱いたのはいつだろうとか。

 その気になれば私も好きじゃない人とでもできるものなのかなとか。

 光に抱かれながら、そんなことばかりが頭の中を巡った。


「瑞希、大丈夫?つらい?」


 よほど私が上の空だったのか、それともあまり良くなさそうだと思ったのか、光は途中で手を止めて私の顔を覗き込んだ。

 ……しまった。いくらなんでも失礼だろう。


「大丈夫……。この間までこういうのずっとなかったし、まだ慣れなくてちょっとね……」


 苦し紛れに答えると、光は少し首をかしげた。


「え……?ずっとなかったって……そんなに?」


 しまったな、余計なこと言っちゃったかも。


「この間も少し思ったけど……それでちょっとアレなのかな。よく慣らしたつもりだったけど、もしかして痛かった?」


 ちょっとアレってなんだ?

 そんな経験豊富な人みたいに……。なんだか他の人と比べられてるみたいでイヤな気分だ。

 最初からものすごくその気だったわけじゃないけど、一気にその気が失せた。


「……その話はもういい。ごめん、今日はちょっと無理みたい」

「えっ……」


 ごろりと寝返って背を向けると、光は隣に横になって少し困った様子で私を後ろから抱きしめた。


「ごめん……なんか俺、気に障るようなこと言った?それとも瑞希が嫌がるようなことでもしたのかな?」


 途中でこんなのひどいと思われるかも知れないけど、私にだってプライドくらいある。他の人と比べるようなこととか、体があまり良くなかったようなことを言われたら傷付くのは当たり前だ。

 あの日バスルームから聞こえた、絡み合う男女の恍惚に喘ぐ声をまた思い出して吐き気がした。

 両手で顔を覆って不快感に耐える。


「瑞希……?」

「他の人と比べないで」

「えっ……」

「光はいろんな人としてきたのかも知れないけど、私は……」


 生娘でもあるまいし、バツイチの私がいい歳してこんな子供じみたことを言うなんて、情けなくて涙が溢れた。


「瑞希……泣いてるの?」

「お願いだから今だけほっといて」

「ほっとけないよ。言いたいことがあるなら言って」

「何も言いたくない」


 ただ好きだという気持ちを伝え合うためだけに抱き合っていたあの頃とは違う。

 私は光としかしたことないから、あの頃の光しか知らないし、どうすれば男の人が喜ぶとか、その辺の知識には疎い。女としてのなけなしの自信が一気に失われていく。

 光はどうしていいのかわからず、私を抱きしめながらオロオロしている。


「ごめん、瑞希……機嫌直してよ」


 私の機嫌を損ねた理由もわからないのに、なぜ光は謝るのか。女慣れしているなら私の気持ちも察してよ。

 この間は何も考えないようにしていたから気付かなかったけれど、この先私は光と抱き合うたびにこんな気持ちになるんだろうか?それとも回数を重ねれば気にならなくなるの?

 別れてからのことはお互いに責めることはできないとわかっているけれど、やっぱり光のそういう面を見るのは複雑な気持ちだ。

 スタートは私と同じだったはずなのに、光は私と夫婦だった時も、私の知らないうちに一人でどんどん大人の経験を重ねていた。

 本当は私とするより他の人とした方がいいと思ってるんじゃないかとか、私で満足できなければまた他の人ともするんじゃないかとか、疑い出したらきりがないのに、不愉快な妄想ばかりが広がってまた胸が軋むようなイヤな音をたてる。


「瑞希……せめてこっち向いてよ。一人で泣かないで」


 みっともない泣き顔なんかみられたくない。

 気持ちが落ち着くまでほっといて。


「俺のことイヤになった?」


 光がイヤとか、そういうんじゃない。

 だけどこの気持ちをなんと言って説明したらいいのか。こんな気持ち、きっと光にはわからないだろう。

 光は顔を覆っている私の手をどけようとした。何に対してかわからないけど、無性に苛立つ。


「ほっといてって言ってるでしょ!」

「瑞希……」


 なんかもう光がなんと思おうがどうでもいい。こうなったらぶちまけてやる。


「どうせ私は恋愛もしないで仕事ばっかりしてきたから、光が付き合ってきた人たちと違って全然慣れてないよ!」

「えっ……」

「いい歳してどうすれば男の人が喜ぶとか全然知らないの、私は年相応の経験がないから!光しか知らないんだから!」


 それは光の責任じゃないのに、一体何を言ってるんだと自分でも思う。

 浮気した光へのちょっとした八つ当たりだ。それくらいは許されるだろうか。


「瑞希……それホント?」


 何に対しての『それホント?』なんだかわからないけど、私は嘘はひとつも言ってない。

 強いて言えば、光以外の人と……門倉と、キスはした。だけどあれも門倉がしてきたことだから、恋人同士がするようなキスなんか光としかしたことはない。


「俺と別れてから……誰とも付き合わなかったの?」

「あいにく私は光みたいにモテないの。言ったじゃない、仕事しかしてないって。光と付き合う前も別れた後も、他の人と付き合ったことなんかないよ!」


 なんでこんなに怒ってるのか、自分でもよくわからなくなってきた。

 私がモテないのも、光以外の誰とも付き合ったことがないのも、光には関係のないことだ。私はモテないって開き直ってどうする。

 散々八つ当たりをされているのに、光は嬉しそうに笑っている。


「ごめん、瑞希には悪いけど俺はちょっと……いや、かなり嬉しいかも……」


 はぁ?なにがそんなに嬉しいって?マグロが好きなのか、光は?!


「男ってバカだね。自分の好きな子が他の人としたことないって思うと嬉しいんだから。瑞希が俺としか付き合ったことないとか知らなかったし」


 ……それホントにバカなんじゃないの?

 三十路過ぎのバツイチ女のセカンドバージンなんて、どこに値打ちがあるって言うのよ。それより大事な初めてのものを、光には全部あげたはずだけど?


「……わけわかんない」

「わかんないかな。でも瑞希が他の男のものになったことがないってわかって嬉しいんだ」


 光は背を向けていた私の体をクルリと自分の方に向けて、両手で頭を引き寄せ額をくっつけた。


「他の子と瑞希を比べたりしてないよ。今は瑞希のことしか考えられないくらい、俺の頭の中は瑞希でいっぱいなんだ」

「今は……って、今だけ?」

「ずっと瑞希でいっぱいにさせてよ、俺の心も体も全部。瑞希以外は見えなくなるくらい」


 そっと重ねられた唇は優しくて、あの頃何度も交わしたキスを思い出させた。変わらない部分もあるんだと、ほんの少しホッとする。

 光の唇が私の唇に優しく触れるだけの短いキスで、懐かしいような切ないような気持ちになった。


 その夜は結局、それ以上のことはしないで、手を繋いで寄り添い合って眠った。

 眠りに落ちる直前、薄れていく意識の遠くの方で誰かの声が聞こえた。


『……好きだ』


 その人はそう言って私の唇に優しく触れるだけの短いキスをした。

 優しいのに悲しくて切なくて胸が痛んだ。

 涙がにじんでその人の顔は見えなかった。


 夢の中で誰かの名前を呼んだような気がする。

 その人にも、他の誰の耳にも聞こえないほど小さなかすれた声で。

 その声は風にさらわれてかき消された。

 私の涙と一緒に。



 窓を叩く雨音で目が覚めた。

 天気予報では今日は曇りだと言っていたのに、朝から本降りだ。

 こんなに降っていたらどこにも行けないな。今日は光と二人、この部屋の中で何をして過ごせばいいのか。

 光はまだ眠っているし、先に起きて朝食の用意でもしていようかと思ったけれど、やっぱりもう少し横になっていることにして、何気なく目元に手をやった。

 ん……?なんだろう、まつ毛が引っ付いて目がシバシバする。

 一度気になるとどうしても気になって、ベッドを出て洗面所で鏡を覗き込んだ。

 これは……涙の跡?夕べ光と喧嘩というか、そんな感じになって泣いた時の涙?

 顔を洗ってタオルで顔を拭いた。

 いい歳してあんなわけのわからんことで泣くなんて、ホントにみっともないな。

 もう少し私に余裕があれば、別れた後で光が誰と何をしていようが気にならないんだろうけど、離婚した理由が理由だけに、過敏になってしまうのかな。

 これが別の人なら、過去なんて気にならなかったのかも知れない。


 一度起き上がるとまた横になる気にはなれなくて、やっぱり朝食の支度をすることにした。

 ベッドの縁に腰掛けて着替えの入ったバッグを漁っていると、後ろから腰に手が回された。


「瑞希……おはよう……」


 光はまだ眠そうな顔をしている。


「まだ早いよ。もう起きるの?」

「目が覚めちゃったから朝御飯でも作ろうかと思って」


 洋服をバッグから出しながら答えると、光は私の腰に頬をすり寄せた。


「休みの日くらいもう少し一緒にゴロゴロしていようよ」


 夕べ途中でやめてしまったから仕切り直したいのかな。だけど私はそんな気分じゃない。


「でもお腹空いたし」


 本当はお腹はそんなに空いていない。ただその気になれないだけだ。


「瑞希……もう少しだけ。ね?」


 光は少し起き上がり、甘えた声でそう言って私を後ろから抱きしめ、首筋や耳元に何度もキスをした。抱きしめていた腕がほどけて私の胸元を撫でている。

 どうにかして私をその気にさせたいらしい。男の人って、そんなにしたいものなのかな?

 どうしたものかと困っていると、光はガバッと起き上がり私を布団の中に引っ張り込んで押し倒した。


「一緒にいられる時くらいは、もっと瑞希とくっついてたい。ダメ?」

「ダメじゃないけど……」

「じゃあそうしよ」


 何度もキスをされて肌に触れられているうちに私の息遣いが少しずつ荒くなって、微かに声がもれた。私に触れる光の手付きがどんどん艶かしくなっていく。


「瑞希、可愛い。大好きだよ」


 まんまとその気にさせられて、いつの間にか体を繋がれて、何も考えられないように揺さぶられて。

 こうなってしまうと抗う術を知らない私は、光のなすがままに体を投げ出して、突き上げてくる衝動に必死で声を抑えた。


「声我慢しないで」


 光はゆっくりと腰を動かしながら、口を覆っていた私の両手を握ってベッドに押さえつける。

 私が目を閉じたまま首を横に振ると、光は私の腰をつかんでさらに引き寄せ、奥の方を強くえぐるように突き上げた。これまで経験したことのない感覚に襲われ、こらえきれず声が漏れる。


「聞かせてよ。瑞希の可愛い声、もっと聞きたい」


 あの頃はこんなことしなかったし、そんなこと言わなかったのに。

 知らない人に抱かれているようで無性に恥ずかしくて、声を必死で堪え涙目になりながら顔をそむけた。


「恥ずかしがってる瑞希も可愛い」


 光は何度も何度も激しく腰を打ち付けて果てたあと、ゆっくりと舌を絡めたキスをしながら私をギュッと抱きしめた。

 ちょっとだけって言ったのに、全然ちょっとじゃない。結局私がその気じゃなくても、体だけいいように懐柔して、自分の気が済むまでするんだから。

 こういうの、ずるい。


 事を終えると、光は満足そうに私を腕枕して髪を撫でている。なんだか腑に落ちない。


「瑞希、大好きだよ」

「……」


 男の人はみんな、してる最中とかその後にそう言うもんなのかな?

 好きだからするのか、気持ちいいから好きなのか、体が満足したから好きなのか、よくわからない。


「また機嫌悪い?俺とするのはイヤ?」

「そういうわけじゃないけど……」


 起きていきなりその気もないのに押し倒されたんだから、少しくらいムカついてもいいと思う。

 それともそんなことに腹が立つ私がおかしい?他の女の人はみんなそうされると喜ぶの?……わからん。

 昔はどんな感じだった?少なくとも私がしたくない時、光は無理にしようとしなかったような気がする。

 ……と、思ったけど、光に求められて拒んだことなんかないのかも知れない。あの頃は光に求められると嬉しかったし、お互いに同じ気持ちで求め合っていたんだと思う。

 今は……どうだろう?

 私がその気じゃなくても、光は私の体だけをその気にさせて抱いた。

 だけど私の体はあの頃ほど光を求めていない。抱かれても嬉しいとか大好きだとか昔みたいに感情が昂ったりはしないし、何度も飽きることなく抱き合いたいとは思わない。

 体だけはそれなりに反応して快感も得られるけれど、心はどこか冷めている。

 昔はこんなことなかったのにな。

 私は元々性欲があまり強くないんだっけ?昔の光は今ほど性的欲求は強くなかったと思うんだけど。

 私以外の人と付き合って性的な悦びを知ってしまったのか、単純に年齢とともに性欲が強くなったのか。

 もしかして私は仕事に打ち込んで恋愛から遠のいている間に、女として枯れてしまったのか?

 仕事のし過ぎで男性化してるとか?女性ホルモンの分泌が足りてないとか?

 まだ32歳なのに、それはそれでまずいだろう。


「瑞希、もう髪は伸ばさないの?」


 光が私の髪を撫でながらそう言った。


「短い方が手入れが楽だし」

「ふーん……ショートもいいんだけど、俺はやっぱり瑞希にはロングの方が似合うと思うな」


 相変わらず髪の長い女の子が好きなのか、光は。

 私は離婚した翌日に、光の好みとは真逆になろうとして長かった髪を短くしたんだ。

 私の髪が短いのは気に入らないのかな。


「髪はもうこのままでいいよ。気に入ってるし」

「そっか。まぁどっちでもいいんだけどね」

「本当は長い方が好みなんでしょ」

「なんでもいいよ、瑞希なら」


 本当にそう思ってるならもう髪は伸ばさないでおこう。



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