第15話 決断

 何事もないまま週が明けた。

 あれからずっと考えたけど、今私がどうするべきなのか、私はどうしたいのか答は出ないままだ。

 会社で門倉と顔を合わせても、光とのことを考えるとまともに目を見ることもできないから、必要以上の会話もせずにその場を離れる。


 今日は自販機の補充に来ていた光を見かけた。

 光が来る日を知っているのか、また営業部のあの子が一生懸命光を口説いていた。

『私と付き合って』と言う彼女に対し、光は作業する手を止め少し困った顔をして『すみません、好きな人がいるんです』と答えた。

『でも付き合ってるわけじゃないんでしょ?』と彼女が尋ねると、光は『それでも好きなんです。……僕の命と引き換えにしてもいいくらいに』と言ってまた作業を続けた。

 その言葉を聞いた途端、胸がしめつけられるように痛んで涙が溢れそうになり、コーヒーは買わずに踵を返してオフィスに戻った。


 やっぱり光のことを突き放すなんて、私にはできない。

 離婚した時点で嫌いになれていたら、あれから5年間も苦しまなかった。好きだったから傷付いたし、嫌いになれないからこれ以上傷付け合わなくて済むように離婚したんだ。

 私がもっと光を大事にしていたら、あんな風に別れたりはしなかったはず。

 ずっとくっついていることはできないけれど、今なら昔みたいにお互いの気持ちを見失うことはないのかも知れない。離れていた分だけ変わってしまったことに少し戸惑いはあるけれど、私たちはもうあの頃みたいに子供じゃない。きっと大人として向き合えるはず。

 だったら私は……。



 早めに残業を切り上げて会社を出た。

 駅のそばまで来た時、背の高い見慣れた後ろ姿を見掛けた。その隣には見たことのない綺麗な女の人がいて、長い髪を揺らしながら門倉に笑いかけている。二人は親しげに会話しながら駅前のイタリアンレストランに入って行った。

 駅前に新しいイタリアンレストランができたって私が言っても、トマトの嫌いな門倉は興味ないってバッサリ切り捨てたのに。あの人とは嫌いなトマトも笑って食べられるんだろうか。

 門倉にもそんな人がいるんだな。いつまでも過去を引きずってハッキリしない私より、もっといい人が見つかったのかも。

 別に私じゃなくたって、モテる門倉にはいくらでも相手は見つかるだろう。

 おかげで決心がついた。


 バッグからスマホを取り出し、これから会いたいと光にメールを送ると、どこに行けばいい?とすぐに返信があった。私の自宅の最寄り駅で待ち合わせてスマホをバッグにしまった。

 ずいぶん迷ったけど、これから光に返事をしようと思う。

 仕事を辞めることはできないし、学生の頃のように長い時間一緒にはいられないけれど、それでもいいと言ってくれるのなら……。

 私は光に、「もう一度光と付き合う」と返事をするつもりだ。



 待ち合わせた駅のそばのレストランに入って食事をしたあと、コーヒーを飲みながら光と話した。

 この間の夜の電話のこともあって、光は私に「やっぱり付き合えないから、もう会うのはやめよう」と言われるのではないかと思っていたようけど、私が思いきって「もう一度光と付き合う」と言うと、心底驚いた様子で息を止めて目を大きく見開いていた。

 そして私の手を握り「ありがとう、瑞希……本当に夢みたいだ」と呟いた。その目は心なしか潤んでいるように見えた。

 それから店を出て、駅から自宅までの短い道のりを、光と手を繋いで歩いた。光の手は少しためらいがちに私の手をそっと握っていた。

 強引な門倉とは違うな。門倉は有無を言わさず私を抱き寄せたり手を握ったりしたけれど。


 マンションの前まで来ると、光は立ち止まって名残惜しそうに私の目を見つめた。


「ホントに近いんだね」

「うん。便利でしょ」


 光は私の手をギュッと握りしめた。


「もう少し……一緒にいたいな」

「……コーヒーくらいしかないけど、少しだけ上がってく?」


 思いきって尋ねると、光は嬉しそうにうなずいた。

 部屋に呼ぶってことは、その後何があってもおかしくないし、もっと言えば何があっても文句は言えないってことだ。子供じゃないんだし、それくらいのことはわかってる。

 決心が揺らがないうちに、私のすべてを光でいっぱいにして欲しい。そうすれば門倉のことは、ほんの一時の気の迷いだったと思えるはずだから。


 部屋に入ってキッチンでコーヒーを淹れた。

 コーヒーと一緒に、取引先の担当者からいただいたチョコレートを出した。

 光はチョコレートが好きだったからきっと喜ぶと思ったのに、前ほどは食べなくなったと言った。私の味の好みが変わったのと同じで、光の好きなものも変わったんだな。

 でもそれはこれから時間をかけて知っていけばいい。今のお互いのことを少しずつわかり合えたら、きっとうまくいくはずだ。

 コーヒーを飲み終わると、光がいつになくソワソワしていることに気付いた。

 部屋で二人きりになるなんて本当に久しぶりだから落ち着かないのかな。それは私も同じだけど。


「今度は瑞希の作った御飯、一緒に食べたい」

「うん。じゃあ休みの日にね。何がいいかな」

「瑞希の作ったハンバーグが一番好きだったな」


 好きだった、と過去形になってしまったことに気が付いたのか、光は少しばつの悪そうな顔をした。


「最近はあまり料理してないから、昔みたいにうまくできるかわからないけど……頑張ってみる」


 コーヒーのおかわりを入れようとカップを持って立ち上がり、キッチンでやかんを火にかけようとすると、光が私の後ろに立ちおずおずと私を抱きしめた。


「これからまたもっと好きになると思う。瑞希の料理も、瑞希も」

「……うん」


 昔は当たり前のようにこうしていたのに、久しぶりに感じた光の体温や腕の感触にためらってしまう。


「光、コーヒー……」

「コーヒーはもういいから……もう少しだけこうさせて」


 私を抱きしめる光の腕の力が少し強くなったのがわかった。背中から光の体温と少し速い鼓動が伝わってくる。


「瑞希……好きだよ。もう二度と間違えないから……ずっと俺と一緒にいて」

「……うん」


 光は私の体を自分の方に向けて、私の目をじっと見つめた。


「俺がひどいことしたから一度は別れたのに、勝手だと思われても仕方ないけど……もう二度と瑞希を悲しませるようなことはしないから、瑞希にも俺だけを見てて欲しい」


 光が門倉のことを言っているんだってことは、すぐにわかった。

 不安なのは私だけじゃない。光も不安なんだ。不安を拭い去るには、お互いを信じるしかない。

 まっすぐに目を見てうなずくと、光は私の唇にそっとキスをした。短く触れるだけのキスを何度もくりかえした後、光は私を強く抱きしめた。


「もう一度……俺だけの瑞希になってくれる?」

「……うん」



 真夜中に光の腕の中で目が覚めた。光は裸の胸に私を抱き寄せたままで寝息をたてている。

 ずっと忘れていた光の肌の温もりとか、私の素肌に触れる手の感触が、私の中で眠っていた女の部分を呼び覚ました。

 私は何年ぶりかで光に抱かれながら、光以外のことを考えないように必死で光の背中にしがみついていた。

 はだけて少し寒そうな光の肩に布団をかけ直した。

 心と体に残る違和感も、大事なものを見失ってしまったような喪失感も、今はまだ否めなくても時間と共に消えてなくなるはず。

 ほんの少しの罪悪感と胸の痛みを気のせいにしてしまおうと閉じたまぶたの裏側に、門倉の顔が浮かんだ。

 私は確かに門倉に惹かれ始めていたんだと思う。

 口が悪くて少し強引だけど優しくて、私のことを一番わかってくれた。急に好きだと言われて戸惑ったけれど、抱きしめられても手を握られてもイヤじゃなかったし、門倉のキスはとても優しかった。

 だけど私は私の意思で、もう一度光と一緒にいることを選んだ。後戻りはできない。


『ホントにおまえはなんにもわかってねぇなぁ……』


 少し呆れたような門倉の声が聞こえた気がした。



 翌日の早朝、光は少し眠そうに自分の家へ帰った。今度は俺の家においでね、と言い残して。

 そのうちまた当たり前のようにお互いの部屋を行き来したり、休みの前の日には泊まったりもするんだろう。

 先のことはまだわからないけど、いずれお互いの気持ちが固まれば復縁なんてこともあるかも知れない。『ずっと一緒にいよう』という約束を、今度こそは守れるといいなと思う。

 光と別れてから、そのことがずっと心に引っ掛かっていた。守れなかった約束はいつまでも心の奥にしがみついて、私を許してはくれなかった。

 私たちはまた約束をした。

 お互いを大事に想う気持ちを忘れなければ、笑ってずっと一緒にいられるだろう。

 ……きっと。



 その日は会社で門倉とは会わなかった。

 門倉は今日から今週いっぱい、出張で四国に行っているそうだ。しばらく顔を合わせなくて済むと思うとホッとした。

 光と付き合うことにしたと面と向かって言える自信が今はまだないし、メールや電話をしてもすぐに顔を合わせるのは気まずい。でもいずれは言わなくちゃいけないんだから、しばらく会わずに済む今のうちに電話かメールで伝えた方がいいのかも。

 ……ずるいな、私は。光を選んだくせに、門倉にも嫌われたくないなんて勝手すぎる。

 どうせなら思いっきり嫌ってくれた方が気が楽なのかも知れない。すぐ近くにいても関わらないでいてくれたら、迷うことも光を不安にさせたり悲しませたりすることもないんだから。

 ……なんて、自分の身勝手さに辟易する。

 門倉が言っていた通り、私も別れた奥さんと同じってことだ。



 昼休みが終わる少し前。

 私は意を決して門倉に電話することにした。電話の内容を他の人には聞かれたくないから、その場所に中庭のベンチを選んだ。

 スマホの画面に門倉の電話番号を表示すると手が震えた。

 もう二度と私に笑って話し掛けてくれないかも知れない。だけどいつまでも光とのことを秘密にはしておけない。

 大きく深呼吸をして通話ボタンを押した。呼び出し音を聞きながら、門倉が電話に出なければいいのにと思ってしまう。

 今からこんなことでどうする。しっかりしろ。

 心の中で自分を叱咤して奮い起たせた。

 何度も呼び出し音が続いた。忙しくて出られないのかな。

 ほんの少しホッとしながら、また後で掛けようと電話を切りかけた時、呼び出し音が途切れた。


「もしもし」


 あ……繋がった……。

 急激に鼓動が激しくなる。


「どうした、篠宮?」

「うん……今、ちょっとだけいいかな」


 ドキドキしながら、できるだけいつも通りを装う。


「ああ、大丈夫だ。で、なんだ?」

「うん……あのね……今こんなことを電話で言うのもなんなんだけど」

「ん?なんだよ、改まって。気持ち悪いな」


 門倉が笑いながら尋ねた。


「私……光と付き合うことにしたから」


 緊張でカラカラに渇いた喉から絞り出した私の声は、少しかれていた。


「え……?」

「昨日、ちゃんと返事したの。だから門倉には知らせておこうと思って」


 門倉が電話の向こうで黙り込んだ。ほんの少しの沈黙が流れる。


「おまえ……俺にそんなこと言うためにわざわざ電話して来たのか?」


 いつもより低い門倉の声が耳に響いた。


「うん……ごめん、出張中で忙しい時に」

「そういう意味で言ったんじゃない。あんなつらい思いさせられたくせに、なんでまたあいつなんだよ……!」


 怒りを押し殺した声で門倉はそう言った。


「やっぱり私は光を見捨てられないよ……。門倉には他にもいい人がいるでしょ?あの髪の長い綺麗な人とか……」

「はぁ?なんのことだ」


 苛立たしげな声の向こうで、オイルライターの蓋をカチャカチャ鳴らす音がした。


「受付の女の子とか、昨日駅前のイタリアンレストランに一緒に行った人とか……」

「あいつは元嫁だ。今度再婚するから最後に昔のことを謝りたいって呼び出されただけ」


 なんだ……そうだったんだ。だけどもう私は……。


「……そうなんだ。でもどっちにしろ私には関係ないね。門倉とは付き合えないから」


 オイルライターの蓋を閉める音が一際大きくガチャンと響いた。


「おまえそれ本気で言ってんのか?」

「うん……本気だよ」

「本気であいつが好きか?」

「……うん」


 門倉の大きなため息と舌打ちが聞こえた。


「だったらもう好きにしろ。じゃあな」


 私が返事をする前に通話が途切れた。

 ……門倉……怒ってたな……。

 門倉に嘘をついた。

 本気で光が好きかと聞かれて、私は『うん』と答えた。本当はまだ光に対しての想いが、そんなにハッキリとした気持ちじゃないのは自覚しているのに。

 出張から戻っても、門倉はきっと口もきいてくれないだろう。




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