第13話 告白
ベッドの上で何度も寝返りを打っては起き上がり、またベッドに倒れ込んでジタバタしては寝返りを打っているうちに夜が明けてしまった。東の空がすっかり白んでいる。
仕方なく起き上がり、仕事に行く支度を始めた。一睡もできずぼんやりした頭をシャキッとさせようと、少し濃いめのコーヒーを淹れる。
中高生じゃあるまいし、いい歳して情けないとは思うけど……こんな経験は初めてだから、どうしていいのかわからない。
自分の気持ちもよくわからないのに、どんな顔して会えばいいんだろう。
いつもより少し早めに出社した。気を抜いていると睡魔に襲われそうになり、眠気覚ましにコーヒーを買って喫煙室に向かう。
あくびを噛み殺しながら喫煙室のドアを開けると、門倉が一人ぼんやりした様子でタバコを吸っていた。これではまた喫煙室に二人きりだ。
一瞬
「……おはよう」
「ああ……篠宮か。おはよう」
ぎこちない挨拶を交わして、門倉からひとつ離れた椅子に座った。
うう……気まずい……。
静かな喫煙室に、ライターの着火ボタンを押す音がやけに大きく響く。
「昨日あれから……あいつと会ったのか?」
門倉が顔をそむけたままで尋ねた。きっと門倉も気まずいのは私と同じなんだろう。
「……もう時間も遅かったから、会わずにまっすぐ家に帰った」
「……そうか」
そう呟いて門倉はタバコに口をつけた。
あれからずっと気にしてたのかな?私と光が会ってるところを想像してイライラしてたとか……。
でもそんなこと聞きづらいから黙っておこう。
「昨日……びっくりさせて悪かったな」
「え……?ああ……うん」
急に昨日のことを言われると、抱きしめられたことや頬にキスされたことを思い出してドギマギしてしまう。どんな顔をしていいのかわからず、慌ててうつむきコーヒーを飲み込んだ。
「あちっ!!」
ああ……またやってしまった……。
舌がヒリヒリする。どうやらやけどしてしまったらしい。自販機のコーヒーが熱過ぎるって文句言ってやらなきゃ。
「またかよ……。大丈夫か?」
門倉が笑いを堪えながら私の隣の椅子に座り、顔を覗き込んだ。
「だ、大丈夫……」
顔を上げると、門倉と至近距離で思いきり目が合った。思いがけず見つめ合う格好になってしまい、目をそらすこともできず固まってしまう。
「……好きだ」
「え……」
何かを言う間もなく、私の唇に門倉の唇がほんの一瞬重なった。あまりにも突然過ぎて、その瞬間は何が起こったのか理解できなかったけれど、至近距離で見つめられ慌てて目をそらす。
門倉はのけぞりかけた私の頭を大きな手で引き寄せて、もう一度口付けた。
唇が触れ合うだけの優しいキスの後、門倉は私の頭をそっと撫でた。
「あいつなんかやめて俺にしろよ。大事にするし絶対後悔させないから」
「……」
急にそんなこと言われたって……。
何も答えられないままうつむくと、門倉は苦笑いを浮かべながら、私の頭をポンポンと軽く叩いて立ち上がった。
「俺は本気だからな」
門倉はそう言い残して喫煙室を出ていった。
今ので眠気もすっかり覚めてしまった。門倉の唇の感触がまだ残る唇に、指先でそっと触れてみる。
他に誰もいないからって……。ここ会社なのに誰かに見られたらどうすんの……。
『……好きだ』
『あいつなんかやめて俺にしろよ。大事にするし絶対後悔させないから』
『俺は本気だからな』
門倉の声が何度も耳の奥で響く。
どうしよう……。びっくりしたけど……イヤじゃなかった……ってことは……私……?
門倉のことを好きとか恋愛の対象と思ったことなんかなかったのに、なんでこんな……。
「おはようございます!」
「わぁっ!」
急に声を掛けられて、驚きのあまり椅子からずり落ちそうになった。
田村くんが不思議そうな顔で私を見ている。
「どうかしました?」
「お、お、おはよう……」
びっくりした……。ドアが開いたの全然気付かなかった……。
ぬるくなったコーヒーを飲み干して席を立った。
慌てて喫煙室を出ようとして椅子の脚につまずき転びそうになる。
「篠宮課長、大丈夫ですか?」
「う、うん……大丈夫……」
眠気は覚めたけど、朝からこんな状態じゃ仕事にならないよ!これから仕事なんだからしっかりしなきゃ。
とりあえずさっきのことは一旦忘れようと思うと同時に、また門倉の唇の感触を思い出して赤面してしまう。
「ホントに大丈夫ですか?」
「大丈夫、ホントに大丈夫だから!」
これ以上ボロを出して挙動不審と思われないように急いでオフィスに戻り、なんとか必死で気持ちを切り替えて仕事に取り掛かった。
目を通した企画書を閉じて金城くんを手招きする。
「はい、なんでしょう」
「この企画書だけどね。なかなか面白いと思うんだけど、ちょっと盛り込みすぎかな」
「そうですか?」
「やりたいことはわかるよ。でもあれもこれも欲張りすぎてひとつひとつの内容が薄くなってる気がする。全面的に推したい部分をいくつか残して、ひとつひとつをもう少し深く突き詰めてみたら?今よりもっと良くなると思う」
「わかりました」
企画書を返そうとして、金城くんに教えてもらったエレベーターの止まる時間が間違っていたことを思い出した。
「金城くん、昨日のエレベーターの夜間点検のことだけど、止まる時間は2時間じゃなくて20分の間違いだったよ」
「あ、そうでしたか?」
そこに私が閉じ込められていたことを知らない金城くんは、どうってことなさそうな顔をしている。
「あれだね。誰かに物事を伝える時は間違えないようにしないと。人との約束にしてもそうだけど、特に仕事に関しては時間を正しく伝えるのは大事だから」
「そうですね。気を付けます」
金城くんからエレベーターが止まることを聞いていたのに、実施される時間も確認せず慌てて飛び乗ってしまった私も人のことは言えないんだけど。それを話すと面倒なことになりそうだから、私が閉じ込められていたことは誰にも言わないでおこう。
昼休み。
社員食堂に向かう途中で門倉を見かけた途端、また今朝のことを思い出してしまった。
顔を合わせるのが気まずくて社員食堂に向かう人混みの影に隠れようとすると、突然門倉が振り返って目が合った。
……こっち見てるよ……。しかも今日は同僚と一緒じゃなくて一人らしい。門倉はそのまま社員食堂には入らず、入り口の前で待ちかまえていた。
「隠れることないだろ」
「……だって」
今朝あんなことがあったばかりなのに、門倉はなんでこんなに何事もなかったような顔していられるんだろう。私は恥ずかしくて顔を上げることもできないのに。
うつむいていると門倉が少し顔を近付けて、私の顔を覗き込んだ。
えっ、まさかまたこんなところで?!
「ん?篠宮、なんか顔色悪いぞ」
「えっ?!ああ……そう?」
焦った……。まさかそんなことはないと思ったけど、またキスされるんじゃないかなんて一瞬でも考えた自分が恥ずかしい。
「体調でも悪いのか?」
「いや……大丈夫」
「ホントに大丈夫か?」
「夕べ眠れなかっただけだから」
あっ……しまった!昨日のエレベーターでのできごとで頭がいっぱいになって眠れなかったって言ってるようなもんじゃないか!
「ふーん?眠れなかったんだ」
門倉は意地悪な笑みを浮かべて私に一歩近付いた。
「それは俺のせい?」
「いや……あの……」
「責任取って膝枕でもしてやろうか?」
何その余裕の態度?
ううっ……門倉のくせになんかムカつく……!
「バカッ!!そんなの要らないよ!」
踵を返して足早に二課のオフィスへ戻ると、取引先に行っている者以外はみんな昼食を食べに行っているので、オフィスには誰もいなかった。
ちょうどいい、少し休もう。自分の席でデスクに突っ伏して目を閉じた。
門倉のやつ、調子に乗りやがって!何が『責任取って膝枕でもしてやろうか?』だ、バカ!!
門倉のせいでお昼も食べそびれてしまい、空腹でお腹が鳴っている。頭の中は恥ずかしさとか気まずさとか、悔しさみたいな感情が入り乱れてグチャグチャだ。
睡眠不足のせいか、それとも空腹のせいなのか、頭から血の気が引くのがわかった。頭から全身に冷えた感覚が広がって、なんだか少し寒気がする。
エレベーターの中で抱きしめられた時の門倉の体の温もりを思い出した。
今まで一緒にいても何も言わなかったのに、急にあんなこと言うなんて……。バツイチのくせに男慣れしていない私の反応がおかしくてからかってるのかな?何もバツイチで若くもないし仕事しかない私なんか相手にしなくたって、他にもっと可愛い子がいるのに。
ホントにバカなんじゃないの?門倉も……光も。
光をもう一度信じたいと思えば思うほど、また裏切られるのではないかと不安になってしまう。光は優しいけれど、それは私だけじゃなく誰にでも同じように優しいから、他の女の子からの誘いをハッキリと断れないんだと思う。
優しさと弱さは紙一重だ。
昔は光の優しいところが大好きだった。だけど今はそれが光の心の弱さなんだってこともわかってるから、優しくされるほど不安になる。
だから門倉の優しさの裏にある強さに、光には感じたことのない感情を抱いてしまうのか、それとも本当に門倉に惹かれているのか。
自分の気持ちがわからないなんておかしな話だ。
どちらを選べば後悔しないのか、そんなことはわからない。後悔しないように打算的に選ぶなんて私にはできそうもない。
好きとか、嫌いとか。恋とか、愛とか、情とか。
どこに境目があって何を基準に見定めればいいのか、誰も教えてくれない。
恋の仕方なんか、もう覚えてない。今の私には何よりも難しい話だ。人を好きになるって……恋の始まりって、どんな感じだったっけ。
眠りの中で私の頬に柔らかいものが優しく触れたような気がした。
『風邪引くなよ』
夢うつつに聞いた声はとても優しかった。
さっきまで冷えきっていた体は、何やら温かいものに包まれている。
あったかい。この温もりは何かに似ている。
そう、確かこんな風に温かい腕の中に抱きしめられて……。
「篠宮課長、そろそろ昼休み終わりますよ」
早川さんに声を掛けられて目が覚めた。
慌てて顔を上げ時計を見ると、昼休みが終わる10分前だった。
「珍しいですね、篠宮課長が会社で寝るなんて」
「ああ……うん。ちょっと寝不足で」
伸びをしかけて、体に毛布が掛けられていることに気付いた。
「あ……これ早川さんが?」
「いえ、私じゃないです」
一体誰のものだろう?
毛布をたたんでいると、端の方に『仮眠室』の文字を見つけた。昼食が済んで戻ってきた誰かが、仮眠室からわざわざ持ってきてくれたのかな?
「ん……?なんだこれ?」
デスクの上にコンビニ袋が置いてあることに気付き、軽く首をかしげる。私はコンビニなんか行ってないのに、なぜここに?
一体なんだろうと思いながら袋の中を覗くと、ツナマヨのおにぎりとタマゴサンド、ペットボトル入りの無糖のカフェオレが入っていた。見事に私の好きなものばかりだ。
よく見るとその奥には紙切れが入っている。
【時間ある時に食え】
ぶっきらぼうなたった一言の走り書きは、見覚えのある門倉の文字だった。毛布を仮眠室から借りて来て掛けてくれたのも、きっと門倉だろう。
……なんだよもう……。
眠れなかったのも昼食を食べそびれたのも、門倉のせいなのに。
それにしてもお腹空いたな。
時計を見ると12時55分、あまりゆっくり味わっている暇はないけど、おにぎりを食べる時間くらいはありそうだ。包みを外してツナマヨのおにぎりにかじりついた。
いつも一緒にコンビニで買い物しているわけでもないのに、私の好きなものばかり選んだのは偶然なのか、それとも私のことをそれだけよく見ているからなのか。
顔を合わせると憎まれ口ばかり叩くけど、門倉には光とは違う優しさがある。さりげなく気を遣ってくれるんだ、門倉は。
私にとってそれが当たり前になりすぎていたから、これまで深く考えたことはなかったけど。
心地いいって……たった今、気付いた。
午後8時。
私はオフィスで一人、睡魔と戦いながらパソコンに向かっている。さっきまで田村くんもいたけど仕事を終えて帰ってしまったから、話す相手もいなくて余計に眠い。居眠りして間違えて入力しないように気を付けないと。
できるだけ早く帰って寝ようと思っていたのに、定時間際になって部長が現れ、二課の成果報告書を今日中に仕上げてくれと言ってきた。昨日の朝は『来週でいい』と言っていたのに、それは部長の勘違いだったらしい。
やっぱり今日も帰りは遅くなるな。
それにしても眠い。一瞬でも気を抜くと眠ってしまいそうだ。
あともう少しなのに、こんなに眠くては効率が悪すぎて、終わるのがどんどん遅くなる。
一息ついて眠気覚まそうと、タバコと小銭を持ってオフィスを出た。
自販機で普段は飲まないブラックのコーヒーを買って喫煙室に向かう途中で門倉と会った。社内でも会わない日はまったく会わないのに、今日に限ってやたらと顔を合わせる。
「篠宮、残業か?」
「見ての通り」
残業でもなければこんな時間まで会社に残ったりしないよ。
「眠そうな顔して……大丈夫か?」
誰のせいだと思ってるんだ。
「成果報告書は来週でいいって言ってたのに、定時間際になって急に、今日中に出せって部長が」
「あー、俺もおんなじこと言われてさっきまでやってたよ。篠宮はまだ終わらないのか?」
「……おかげさまで」
門倉のせいで眠くて終わらないんだよ!
そう言ってやりたいのを堪え、少しばかりの皮肉で言葉を返した。仕事終わったなら私に構ってないで早く帰ればいいのに。
きっと帰ろうとしていたはずの門倉は、私と一緒に喫煙室に入ってタバコに火をつけた。また今朝のことを思い出してしまうから、早く帰って欲しいんだけど。
そういえば昼休みのこと、まだお礼を言っていなかった。睡眠不足もお昼を食べそびれたのも門倉のせいなのに、お礼を言うのもしゃくだけど。
「あの……お昼ご飯と毛布……ありがとね」
「ん?ああ、ちゃんと食ったか?」
「昼休みの終わりにおにぎり食べて、3時の休憩にタマゴサンド食べた」
「そうか。なら良かった」
門倉はなんともなさそうな顔をして笑っている。
「わざわざ仮眠室から毛布借りて来てくれたの?」
「まあな。おまえなんか寒そうだったし、蒼白い顔してたから」
「ありがと、あったかかった」
素直にお礼を言って、今度はやけどしないようにゆっくりコーヒーをすすった。
「ブラック?いつもはミルク入りなのに」
「眠いから」
「ホントに大丈夫かよ。報告書仕上がる前に眠っちゃうんじゃないか?」
「そうならないように頑張ってるの」
門倉と話していると少しは眠気も覚めた。あと少しだし、睡魔に負ける前になんとかなりそうだ。
「10分だけでも寝れば?少しは効率上がると思うぞ」
「めちゃめちゃ眠いの、起きられる自信ない。それこそ朝になるよ」
「起こしてやるけど?」
それは門倉に寝顔をさらせって、そういうこと?そんなのいくらなんでも恥ずかしすぎる。
「いい、遠慮しとく。あと少しだし」
門倉は短くなったタバコを灰皿に投げ入れて、伸びをしながら私の方をチラッと見た。
「しょうがねぇなぁ……。篠宮が終わるまで眠らないように横で見ててやる」
「えっ、そんなの頼んでないけど!」
「キーボード枕にデスクで社泊なんてイヤだろ。眠りそうになったら起こしてやるから、黙って言うこと聞け」
うう……ないとは言い切れない……。
頬にキーボードの跡をつけて慌てふためく自分の寝起き顔を想像してしまう。
「俺のせいなんだろ?責任取ってやるよ」
「……門倉のくせにムカつく。膝枕は要らないからね」
「腕枕の方がいいのか?意外と大胆だな」
「要らんわ!」
また門倉にからかわれる前に、さっさと報告書仕上げて帰ろう。
タバコを灰皿に捨ててコーヒーを急いで飲んだ。
「またやけどすんなよ」
「またって……」
やけどしたとは言っていないのに、私が今朝やけどしたことを知ってるのか?!
食べ物の好みだけでなく、口の中まで知り尽くされているようで無性に恥ずかしい。
「篠宮、顔赤い」
「うるさい」
「今度は何想像してたんだ?」
「コーヒーが少し熱かっただけ!」
からになったカップを握り潰してゴミ箱に投げ入れた。
ホントにもう……調子狂う……。
「仕事終わったなら早く帰れば?私はもう大丈夫だし」
「そういうこと言うか?終わったら久々に晩飯おごってやろうと思ったのに」
「そんなのいいのに……」
確かに門倉とはしばらく一緒に食事とか飲みに行ったりしていない。だけど以前とは状況が違いすぎるから、少し戸惑う。
まぶたが重くなって閉じそうになるたびに、門倉に頭を小突かれたり肩を叩かれたりしながら、報告書が仕上がったのは9時を少し過ぎた頃だった。
「やっと終わった……」
間違いがないか確認した後、報告書を部長のパソコンに送信してパソコンの電源を落とした。
「お疲れさん」
門倉は私の頭をポンポンと軽く叩く。これは門倉の癖みたいなものなのか?
部下にもこういうことしたりするんだろうか。いや、歳下ならともかく、さすがに歳上の部下にはやらないか。私はしょっちゅうされてるんだけど。
同期なのにまるで子供扱いだ。
顔をしかめながら帰り支度をしていると、お腹が大きな鳴き声をあげた。よほど大きな音だったらしく、門倉はおかしそうに吹き出した。
「腹減ってんだろ。行くぞ」
「あ……仮眠室に毛布返しに行かないと」
「持ってやる。借りてきたのは俺だしな」
「……ありがとう」
なんだかやけに門倉が優しい。
いつもそうだったのか、それとも急にそうなったのか。そんなことまでわからなくなってしまう。
オフィスを出て仮眠室に寄り、毛布を返してから会社を出た。
「さぁ、何食いたい?なんでも好きなもの言え」
「牛丼でもラーメンでもなんでもいい……。とにかく早くてお腹が満たされれば」
「なんだよ、色気ねぇなぁ」
色気ないは余計だ。だいたい門倉と食事をするのに色気なんて必要ない。
「眠いもん、早く帰って寝たいの」
「そうだったな。じゃあ……そこの定食屋にでも行くか」
会社のそばにある安くて早くて美味しい定食屋に入り、門倉は豚のしょうが焼き定食、私はアジフライ定食を注文した。
「ビールでも飲むか?」
「無理……。お酒なんか飲んだら電車で寝ちゃう。最終の終着駅で起こされるのはイヤ」
「家まで送ってやろうか?」
「それはいい。電車に乗ったら眠らないように立ってる」
門倉と家を行き来したことは一度もない。
禊の後は駅の改札を通ったところで別れるし、お酒を少し飲みすぎて酔っていたらタクシーで帰る。だからお互いの家は知らない。
知らず知らずのうちに門倉とはそれくらいの距離を保ってきた。その距離感がちょうど良かったのに、門倉がどんどん私の領域に入って来ようとしている気がする。
少しすると注文していた定食が運ばれてきた。評判通り、本当に早い。
門倉は箸を手に取って笑みを浮かべた。
「篠宮と飯食うの久しぶりだな」
「うん……そうだね。誰かさんがあからさまに避けるから」
「しょうがねぇだろ。俺にもいろいろあるんだよ」
「いろいろって何よ」
何気なく尋ねると、門倉は付け合わせのキャベツを口に運びながら少し眉をひそめた。
「イヤなこと思い出した」
「イヤなこと……って、何?」
小鉢の小松菜のおひたしを食べようと開いた私の口に、門倉がトマトを押し込んだ。驚いてむせながらにらみつけると、門倉はおかしそうに笑った。
「おまえと同じだ。俺にも心の傷くらいある」
「心の傷って……」
口の中のトマトをようやく飲み込んで、その言葉の意味を尋ねると、門倉は小さくため息をついた。
「俺がやめとけって言ったら、篠宮はあいつをかばっただろ」
「まぁ……そうだね」
「思い出したんだよ。嫁を怪我させたこととか、『この人は悪くない』だの『寂しいからそばにいてって私が言ったの』だとか言って、浮気相手を必死でかばったこととかさ……」
「うん……」
「嫁のために頑張って働いてたのに、そのせいで寂しい思いさせて挙げ句の果てに浮気されて、『寂しくて耐えられないから離婚してくれ』だもんな。篠宮だって俺と同じ理由で旦那に浮気されて、離婚してくれって言われたんだろ?」
私がうなずくと、門倉は自嘲気味に苦笑いを浮かべた。
「それなのに篠宮はまたあいつとより戻そうとしてるし、俺がやめとけって言ったらあいつをかばうんだもんな。おまえを好きな俺の気持ちはどうでもいいのか?って思ったら、なんかもう何もかもバカらしくなって、篠宮も嫁と一緒なんだなって思った」
そんなこと考えてたんだ。
傷付けるつもりも心の傷をえぐるつもりもなかったけれど、私の言葉はイヤな記憶を呼び起こすにはじゅうぶんなほど、門倉にショックを与えてしまったらしい。
私がよほど深刻な顔をしていたのか、門倉は笑いながら私の額を指でピシッと弾いた。
「痛ぁ……」
それほど痛くはなかったけれど、びっくりして左手で額をさすると、門倉はおかしそうに笑った。
「おい、箸が止まってんぞ。冷めないうちにさっさと食えよ。早く帰って寝るんだろ」
「ああ……うん」
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