第12話 密室
月曜日の昼休み。
私は社員食堂の隅の席に座り、一人で日替わり定食を食べている。今日は日替わり定食のおかずが人気の甘辛チキンだったせいか、いつもに増して男性の利用者が多いように感じる。
私の隣には営業部の雨宮部長が座っていたけれど、雨宮部長がさっさと食べ終わって席を立ってからは空席のままだ。
『禊はこれで終わりだな』という言葉通り、あれから門倉が私を誘うことはなくなった。仕事の後だけでなく、昼休みに社員食堂で会っても仕事の合間に喫煙室で会っても、門倉が私の隣に座ることはない。
最近門倉はいつも一課の同僚と一緒にいて、私とは話そうとも目を合わせようともしない。あんなに一緒に笑って過ごしていたのに、今では知らない人になってしまったみたいだ。
門倉が急にあんなに怒って私を突き放したのはなぜだろう?光と会うことを勧めたのも、早く禊を終わらせろと言ったのも門倉なのに。
また同じ失敗をくりかえすかも知れないから辞めとけと言われたのに、私が光をかばったのが気に入らなかったのかな?
禊が終わっても仲間だろって言ったのは門倉なのに、門倉と一緒に笑うことはもうできないのかな。そう思うと無性に寂しい。
ビールで乾杯して一緒に美味しい焼肉を食べようって約束は、果たされないかも知れない。
オリオン社のイベント開催日が近付いて来るにつれてオフィスは慌ただしくなった。
予定を変更したり現場に出向いたり、私も部下たちも残業で帰りが遅くなる日が増え、終電間際に慌てて会社を出る日も珍しくない。
平日は帰りが遅くなる上に休日も出勤して遅くまで仕事をするので光と会う時間は取れず、食事をしながら簡単なメールを送るだけで精一杯。
そんな日が半月ほど続いた。
オリオン社のイベントが始まってから1週間が経ち、ようやく落ち着きを取り戻した時、光と離婚してから5年が過ぎていることに気付いた。
離婚してから、結婚期間と同じ5年。
二人で選んだ結婚指輪を外して離婚届を提出した、5年前のあの日のことを思い出すと今も胸が痛む。
私がどんな思いで離婚届を提出したとか、それからずっとあの日の胸の痛みを忘れられないなんて、光は知らない。
もしもこの先光と笑って一緒にいられたら、この胸の痛みも『決定的瞬間』に遭遇した日の悲しみも、何もかも忘れられるだろうか。
水曜日の午後。
つい先日まで忙しくて休憩もろくに取れなかったけれど、今は仕事も一段落して仕事の合間に一息つく余裕もできた。
仕事の合間にコーヒーでも飲もうと自販機に向かっていると、その角の向こうから人の話し声が聞こえてきた。若い女性と男性の声だ。
女性が何やら楽しそうにおしゃべりしているのを男性が相槌を打って聞いているという感じ。
今は休憩時間じゃないし、働き者のうちの課の部下ではないと思うんだけど。
廊下の角を曲がると自販機の前で話している男女の姿が見えた。飲み物の入ったカップを持って甘ったるい声で話しているのは、若い男性社員に人気の営業部の事務をしている女子社員だ。
小悪魔を装っているのか、自分を最大限に可愛く見せるメイクが得意な今時のオシャレ女子って感じ。
彼女はお得意の上目遣いと甘えた口調で、自販機の飲み物を補充しに来た光に話し掛けている。
「勝山さん、自販機に新しい飲み物入れてもらえますぅ?」
「何かご希望があるんですか?」
「キャラメルマキアートとか、ありますかぁ?」
「ああ、ありますよ。次の補充の時に入れておきますね。他にも何か要望があったらお聞きしますけど」
「じゃあ、勝山さんの携帯の番号教えて」
仕事中に若い女子にナンパされてるよ……。
若い子はやることが大胆だな。
「えっ……それはちょっと……」
若い子の押しの強さに引いてるな。
「勝山さんってぇ、独身ですよねぇ?彼女いるんですかぁ?」
独身だけどバツイチだよ、その人。
「えーっと……いや……」
彼女はいないけどバツイチだって、ハッキリ言えばいいのに。
「勝山さんってぇ、すっごい私のタイプなんですぅ。今度デートしてくださいよぉ」
いちいち語尾を伸ばすな、語尾を。鼻にかかった声と甘ったるい話し方が癇に障るわ!
「いや……それもちょっと……」
取引先の社員だから強く断れないのか、光は困った顔で作り笑いを浮かべている。
断るならハッキリ断れ!
仕事中に男を口説いている若い女子にも、ハッキリしない光にもだんだんイライラしてきた。
「彼女いないなら付き合って。ね?お願い!」
彼女は上目遣いで可愛らしくお願いするポーズをとったけれど、私には獲物の前で『いただきます』と手をあわせている肉食女子にしか見えない。
「いや……仕事ですのでそういうのは……」
彼女は光の手を取ると、素早く何かを握らせた。
さっきから曖昧な表情で言葉を濁していた光が驚いた顔をしている。
「じゃあこれ、私の携帯の番号。連絡待ってますね」
そう言って去っていく彼女の後ろ姿を呆然と眺めた後、光は手の中の紙切れをポケットの中にしまった。
……しまうんだ。
ホントに連絡したりするのかな?
そうか、ここでごみ箱に捨てて彼女に見つかったら後々面倒だもんね。うん、きっとそうに違いない。今のは見なかったことにしておこう。
光は何事もなかったかのように手際良く飲み物の補充を終えて自販機の扉を閉めた。柱の影で光と彼女の様子を窺っていた私も、コーヒーを買おうと自販機の前へ向かった。
「あ……瑞希。久しぶりだね」
「うん……ずっと仕事忙しくて」
光はポケットから小銭を出して自販機に入れ、砂糖なしミルク入りのコーヒーのボタンを押した。
「今日は会える?」
「うん。やっと仕事落ち着いたから、今日はいつもより早めに帰れると思う」
コーヒーの入ったカップを私の手に握らせて、光は嬉しそうに笑った。
「これ俺のおごり」
「ありがとう」
「仕事終わったら連絡して」
「わかった」
光は「じゃあまた後でね」と軽く手を振り、台車を押して去っていく。温かいカップを手に、昔より大人になったその後ろ姿を眺めた。
ちゃんと返事をしなきゃと思っていたけれど、さっきのシーンを見てまた迷いが生じた。
私も光も大人になったし、二人ともたくさん後悔したんだから、もう昔みたいな失敗はしないはず。
そう思っているのに、女の子に誘われてもハッキリ断れない光を見ていると、私が忙しくて会えない時はまた他の誰かのところへ行ってしまうんじゃないかと不安になった。
昔の光はあんなに私を好きだって言っていたのに、他の人を私の代わりにしたんだ。
もしかしたら今だって、特別好きじゃない人とでも体だけの割り切った関係になれたりするんじゃないか。そんなのは光に限ったことでもないし、疑いだしたらきりがないのもわかってる。
だけどさっきの光と彼女とのやり取りを目撃した時、光の浮気現場に踏み込んだあの日の『決定的瞬間』が私の脳裏をよぎったのは間違いない。
光ともう一度付き合うということは、こんな不快感と不安をずっと抱え続けるってことなんだ。
私はこの先ずっとそれに耐えられるだろうか?
定時間際に掛かってきた電話を終えた頃には休憩時間を過ぎていた。
タバコでも吸って来ようかと思ったけれど、光と会う約束をしているので少しでも早く仕事を終わらせた方がいいかと思い、休憩を取らず残りの仕事をそのまま片付けてしまうことにした。
パソコンに向かっていると金城くんがオリオン社の担当者からいただいたお菓子をお裾分けしてくれた。
「今日はこれからエレベーターの夜間点検があるらしいですね」
「そうなの?」
「貼り紙がしてありました。何時からだったかな?2時間くらい止まるらしいです」
「ちゃんと見てなかった、ありがとう」
まだ時間も早いし、夜間点検なら社員が帰った後の遅い時間にするのだろうから、私にはあまり関係なさそうだ。あまり待たせると光に申し訳ないから、さっさと仕事を済ませて会社を出よう。
正直言うとさっきのことがあってからかなり複雑な気分ではあるけれど、今日は会うって約束したんだし。
こんな気持ちではやっぱり踏み切れないから、光と付き合うのはもう少し考えた方がいいのかも知れない。
次のクライアントのイベントの企画書に目を通していると、思ったより時間が遅くなってしまった。
気が付くとオフィスに残っているのは私一人。
今日は早く帰れそうだと光に言ったのに、時刻は間もなく8時半になろうとしている。
慌てて帰り支度を済ませオフィスを飛び出してエレベーターに乗り込み、階数ボタンの①と扉を閉めるボタンを押した。
扉が閉まりかけた瞬間。
「おい、篠宮!」
門倉がすごい勢いでエレベーターに飛び込んできて私の腕を掴んだ。
「門倉……?」
「何やってんだよ!」
「え、何が……?」
「これから点検でエレベーターが止まるんだよ!」
「あっ……!嘘……これから?!」
扉を開けるボタンを押そうとした時には時既に遅く、扉は閉まりエレベーターが動き出した後だった。
「あーっ……間に合わなかった……」
「次の階のボタン押せよ」
「あ、そうか。えっと、今5階だから……」
5階より下のボタンを押そうとした時、エレベーターがキューッと静かに軋む音をたててゆっくり止まった。
「ああっ!!」
「……止まったな」
どうしよう?!確か金城くんが2時間くらい止まるって言ってたのに!
門倉はオロオロしている私を呆れた顔で見ている。
おまけにエレベーター内の照明まで落ちてしまった。
「ああぁっ!!電気まで消えた!!」
恐怖と緊張感で心拍数がどんどん上がる。
「落ち着けよ。緊急時のボタンあるだろ」
「あ、そうか」
緊急時呼び出しのボタンを慌てて押した。
「ん……あれ?」
何度押しても反応がない。
「なんで?なんの応答もないんだけど!!」
必死の形相でガチャガチャとボタンを押し続ける私の手を、門倉が大きな手で握って止めた。
「なんかの手違いで電気系統まで全部止まってるんだな。慌ててもしょうがないからちょっと落ち着け」
真っ暗なエレベーターに閉じ込められてしまったのに、落ち着いている余裕なんてあるわけがない。
「こんな時に落ち着いてられないよ!」
とにかく誰かに気付いてもらわなければと、門倉の手を振り払って必死でドアを叩いた。
「だから落ち着けって」
門倉が私を引き寄せて長い腕の中に閉じ込めた。
突然抱きしめられ門倉の体温に包まれて、心臓がさっきとは違う音をたてた。
「そのうち動く。俺がいるから心配すんな」
門倉は私を落ち着かせるためにそうしたんだろうけれど、私の心臓は余計に落ち着かない。
それなのに門倉がそばにいてくれる安心感は大きい。一人だったらどうしていいかわからず、もっとひどく取り乱していただろう。
「相変わらずだな、篠宮は」
「相変わらずって何よ……」
「仕事に関しては抜かりがないのに、普段はどっか抜けてる」
「ドジだって言いたいの……?」
バカにされたみたいで悔しくて、門倉の胸を押し返した。それなのに門倉は私の力なんかものともせず笑って、更に強く私を抱きしめて頭を撫でた。
「俺は篠宮のそういう完璧じゃないところが、人間らしくていいと思うぞ」
「何それ……」
ずっと私の存在なんてなかったような態度を取っていたくせに、どうしてエレベーターに乗ってきたんだろう?エレベーターに乗ろうとする私を止めるなら、手で扉が閉まらないように押さえるとか、私を引っ張り出すとか、他にも方法はあったはずなのに。
どうして門倉は私を抱きしめたりするんだろう?
「門倉だって人のこと言えないよ……。自分まで乗っちゃったら道連れになっちゃうのに。止めるなら他に方法はあったでしょ?」
「……そんなことわかってるよ」
「……え?わかってるならなんで……?」
門倉の言いたいことの意味がさっぱりわからない。
「やっぱバカだな、篠宮」
門倉は今どんな顔をしているんだろう?いつもみたいにちょっと呆れた顔をして笑っているのかな?
「バカって言われる理由もわからないんだけど……。って言うか、もう大丈夫だからそろそろ離してくれる?」
「こうしてるとあったけーから、このままでいさせろ」
確かに門倉にこうされてるのはあったかいけど……。
体の大きさや温かさ、腕の長さや力強さ、いつものタバコの匂い、少し押し殺した息遣い……。視覚以外の感覚が門倉を敏感に感じ取って、異性であることを再認識してしまう。
ただでさえ暗くて門倉の表情が見えないのに、これ以上こんな状態が続いたら心臓がもたないよ!
「人を使い捨てカイロみたいに……」
「おまえを使い捨てたりしねぇよ、俺はな」
俺はな、って……何が言いたいの?まるで私が誰かに使い捨てられたことがあるみたいじゃないか。
もしかして門倉は私のこと、光に使い捨てられた惨めな女だとか思ってるわけ?
「篠宮……結局あれからさ……あいつと付き合ってんの?」
門倉は少し低い声でためらいがちに尋ねた。
居酒屋で禊をした後からずっと一言も会話していなかったから、門倉が何も知らないのは当たり前だ。
「まだちゃんと返事してないけど……時々会って食事したりとか……あっ!!」
そうだった、このあと光と会う約束をしていたんだ!
仕事が終わったら連絡してって言われてたのにまだ連絡していないし、このまま2時間くらい身動きが取れないのなら知らせておかないと心配するかも。
「なんだ急に」
「いや……このあと光と会う約束してて……。当分動けそうにないって連絡しとかないと心配かけるかも……」
抱きしめられながらごそごそポケットを探りスマホを出そうとすると、門倉は私の腕を強い力で掴んでそれを止めた。
「門倉……?」
「ホントにあいつが好きか?」
真っ暗な中でも表情が目に浮かぶような真剣な声で尋ねられ、私は自然と正直な気持ちを話そうと思えた。
「好きなのかって聞かれたら、正直まだわからないけど……光があんなに想ってくれてるんだから、その気持ちに応えたいとは思ってる」
「じゃあ……もしあいつ以外にも、おまえのことが好きだって男が現れたらどうする?」
なんで急にもしもの話?
離婚してからの5年間、本気で好きだって言ってくれる人なんかいなかったけど。
「私は別にモテないし、そんなの考えたことないからわからないよ」
「だったら今考えろ。別の男にあいつよりずっとおまえのことが好きだって言われたら、どっち選ぶんだ?」
急にそんなこと聞かれても。
どちらも私を本気で好きだって言ってくれるなら、そりゃもちろん私が好きな方を選ぶに決まってる。
「私自身が好きな方……?」
「……だからそれがどっちなのかって聞いてんだろ……」
門倉のボソボソ呟く声が耳元で聞こえた。
「ん?なに?」
「いや……こんな真っ暗な密室で二人きりじゃ、俺が変な気起こしてもおかしくねぇな」
「……え?」
門倉の指先が私の頬を撫でた。
「門倉……?」
「あいつに言えないようなことしようか」
「えっ?!」
光に言えないようなことって……つまりそれは……。
こんな門倉、私は知らない。門倉が何を考えているのか、暗闇のせいで表情もまったくわからなくて、知らない男と密室に閉じ込められているような錯覚に陥る。
二つの大きな手が私の頬を包み込んだ。
「こんな時に冗談やめてよ……」
「本気ならしていいか?」
ゆっくりと顔が近付く気配がした。
「バカッ、そういう問題じゃない……!」
私の額に門倉の額がそっと触れたのがわかった。
「ホントにバカだな、俺は。おまえが禊終わるの待とうなんてカッコつけないで、もっと早くこうしときゃ良かった。おまえのこと一番わかってやれるのは俺だと思うし、俺のこと一番わかってくれんのもおまえだって思ってたけど……おまえ全然わかってねぇもんな」
「門倉……?さっきから何言って……」
「いい加減気付けよ、バカ……」
額が離れて、頬に柔らかいものが微かに触れた。
えっ……今の、もしかして……。
場所を確認するように触れた門倉の親指が、私の唇をゆっくりなぞる。
「ねぇ、ちょっと待ってよ……」
「もうじゅうぶん待った。それなのにおまえはあいつを忘れようとしない。だったらもう待つのはやめる」
グイッと頭を引き寄せられ、もう逃れられないと観念してギュッと目を閉じた。
閉じたまぶたの向こう側に微かに光を感じた時、門倉の手が私の体からゆっくり離れた。エレベーターは微かに軋んだ音をたてた後、静かに動き出した。
おそるおそる目を開けると、門倉は私に背を向けていた。
「……時間切れだな」
門倉は静かにそう呟いて、私の頭をポンポンと軽く叩いた。
エレベーターが1階に到着して扉が開いた。門倉は何も言わずにさっさと降りて歩いていく。
私は門倉を追い掛けることもできず、黙ってその後ろ姿を見送った。
確かエレベーターは2時間くらい動かないって金城くんが言っていたけど、私たちはそんなに長い間あの密室に二人きりで閉じ込められていただろうか?
エレベーター内の貼り紙が目に留まり、今更ながらその文面に目を通してみると、動かないのは2時間ではなく20分の間違いだった。
ポカンとして貼り紙を見つめていると扉が閉まりかけ、慌てて開くボタンを押した。
「ん……あれ?」
緊急時呼び出しのボタンは私が思っていたのとは全然違う場所にあって、暗闇の中で必死に押し続けていたのは最上階の階数ボタンだったらしい。道理でいくら押しても応答がないはずだ。
あんなに取り乱してカッコ悪い。もしかしたら門倉はそれに気付いていたのかも知れない。
ため息をついてエレベーターを降りた。
まだ鼓動が落ち着かない。門倉に抱きしめられた温もりが少しずつ失われていく感覚に、胸がしめつけられるような痛みを覚えた。
とてもじゃないけど、今こんな状態で光の顔をまともに見られる自信がない。
【急な仕事があって終わるのが遅くなりました。明日も早いし、今日はこのまま帰ります。ごめんなさい】
メールを送信すると、すぐに光からの返信があった。
【わかった。会えるの楽しみにしてたから残念だな】
門倉と二人きりでエレベーターに閉じ込められて、抱きしめられて頬にキスされたとか、光には言えない。
『おまえのこと一番わかってやれるのは俺だと思うし、俺のこと一番わかってくれんのもおまえだって思ってたけど……おまえ全然わかってねぇもんな』
『いい加減気付けよ、バカ……』
『もうじゅうぶん待った。それなのにおまえはあいつを忘れようとしない。だったらもう待つのはやめる』
門倉の言葉が何度も頭の中をぐるぐる駆け巡る。
暗闇の中で門倉が言ったいくつもの言葉を反芻しながら帰路に就いた。
自宅に戻り玄関の鍵を開けてドアノブに手をかけた時、門倉が一番強い口調で言った言葉が脳裏をよぎった。
『別の男にあいつよりずっとおまえのことが好きだって言われたら、どっち選ぶんだ?』
別の男って……門倉のこと?!
手に持っていた鍵を思わず落としてしまい、マンションの通路にガチャンと大きな音が響いた。慌てて鍵を拾い上げてドアを開け、急いで玄関に飛び込む。
まさか……嘘でしょ……?
急激に速くなった鼓動に戸惑い、そんなことをしてもなんの意味もないのに、胸元を両手で押さえた。
『あいつに言えないようなことしようか』
今度は低く艶っぽい声で囁いた意味深な言葉が耳の奥で蘇り、赤面しながら思わず両手で耳を塞ぐ。
今までそんなことは一言も言わなかったし、それらしいそぶりは見せなかったのに、急に男になられても……。
もしエレベーターが20分じゃなく本当に2時間くらい止まっていたら……私はどうなっていたんだろう?門倉は暗闇の中で私をどうするつもりだったんだろう?
女の私がどんなに抵抗したところで、本気になった男の力には到底敵わない。抵抗する私を押さえつけて、無理やりにでもどうにかしようと思ってたなんてことは……。
いや、門倉に限ってそれはないと思う。
だってあの時、私の頬に触れた門倉の手はとても優しかったし、結局ほんの微かに頬に唇が触れただけで、それ以上のことは何もしなかった。門倉が本気になればどうにでもできたはずなのに、私は必死で抵抗したりはしなかった。もしあのまま門倉にキスされていたとしても、私はきっとイヤじゃなかったんだと思う。
それってつまり……。
「わあぁぁぁーっ!!」
頭がそれ以上想像することを拒んで真っ白になり、私は奇声を発して頭から布団に潜り込んだ。
いやいやいや……まさかそんなはずは……。
門倉は仲のいい同期で、隣の課の課長で、同じバツイチ同士の禊仲間だったはずなのに。
吊り橋効果みたいなもので、二人きりで真っ暗なエレベーターに閉じ込められてお互い勘違いしてるだけ?
恋愛経験の浅い私の許容量を越えてしまったのか、頭の中がパニックを起こした。
ダメだ、もう考えるのやめて寝てしまおう。ぐっすり眠って明日になれば少しは冷静になっているはずだ。
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