第11話 休日
翌日。
仕事が休みなので時間を気にせずゆっくり眠っていると、テーブルの上に置いたスマホが鳴った。
まだ眠いし無視してしまおうと頭から布団をかぶって寝返りを打った。
着信音は一度途絶えても少し間をおいてまた鳴り続けた。気にはなるけれどまぶたが重くて開かない。一体誰だろう?
夕べ自宅に戻ってから一人でしたたか酒を飲んだ。
普段はあまり飲まない頂き物のウイスキーをロックで何杯も煽った。なぜ急にあんなに突き放されたのかはわからないけれど、門倉に言われた言葉が頭から離れなくて、無性に腹が立って胸がモヤモヤして、飲まずにはいられなかった。
『篠宮は好きだって言ってくれるやつなら誰でもいいのか?』
誰でもいいとは言っていない。だけどもし付き合うなら、私を好きじゃない人よりは、好きだと言ってくれる人の方がいいに決まってる。たまたまそれが別れた夫の光だっただけだ。
光が優しいことはよく知っている。付き合うかどうかは、今の光を見てから決めても遅くはないと思う。
この先の人生で私を好きだと言ってくれる人が他にもいるなんて保証はない。
仕事一筋に生きて一人のまま定年を迎えた時に、仕事がなければ私には何もないんだなんて寂しい思いをするのだけはイヤだ。誰かと想い合い寄り添って穏やかに生きていきたい。
一度は失敗したけど、私はまだ結婚に対して希望を持ってもいいんじゃないか。だから私は少しだけ勇気を出して前に進もうと思う。
ベッドの上でうっすらとまぶたを開いてぼんやりしていると、何度目かの着信があった。
さっきから一体誰だろう?よほど大事な用なのかな。
観念して起き上がり、モソモソとカーペットの上を這ってスマホに手を伸ばした。ボーッとしながら鳴り続けるスマホの画面に映し出された発信者の名前を見た途端、目が大きく開いた。
わっ……光からの電話だったんだ。休みの日なのに何度電話しても出ないって心配してるかも。
「もっ……もしもし……」
慌てて電話に出ると、電話の向こうで光が少し笑った。
「おはよう瑞希。もしかしてまだ寝てた?」
「あ……うん、寝てた。夕べ遅くまで起きてたから」
「そうか、起こしてごめん。でももうお昼だよ」
壁時計を見ると時刻はもうすぐ12時になろうとしている。
「一緒に昼御飯でもどうかと思って電話したんだけど……ダメかな」
また誘うって言うのは本気だったんだな。
それにしても弱気なお誘いだ。この間誘ってもいいかと聞かれた時にハッキリ返事をしなかったから?
「今起きたところだし……すぐには無理だけど……」
「いくらでも待つから、会ってくれると嬉しい」
朝方まで深酒をした私の顔はきっと今ひどい状態なんだろうけど……。
優しい声で弱々しくそんなこと言われると、とてもイヤとは言えない。
「……うん、わかった。これから急いで用意する」
「慌てなくていいよ。用意できたら電話して」
急いでシャワーを浴びて、まだ抜けきらないアルコールを体外に排出してしまおうと、少し熱い湯船に浸かりながらむくんだ顔をマッサージした。
なんで私は光に会うためにここまでしているんだろう?ただ一緒に食事をするだけなのに。
それでもあんまりひどい姿をさらすのはみっともない。ただでさえ若かったあの頃とは違うんだから、会った途端に今の私にがっかりされるのもいたたまれないし。
お風呂から上がって鏡を覗き込むと、顔色もむくみもさっきより少しはましになっている気がした。髪を乾かして化粧をして、何を着ていこうかと悩む。
仕事以外に着ていくような服はここ何年も買っていない。だって実際仕事に出掛ける以外は食料品や日用品の買い出しくらいしか行かないし。
通勤用のスーツで行くのもなんだけど、普段着で行っていいものか。
……まぁいいか。ホテルのレストランでディナーとか、そんなかしこまった場所に行くわけでもない。
バカみたいに張り切っておしゃれする必要はないんだから、普段買い物に出掛ける時に着ている服で行こう。
出掛けるのに着ていく服に迷うなんて、大学時代に光と付き合っていた時以来だと思う。
その光と会うためにまた着ていく服に悩んでいるなんて、とても妙な気分だ。
自分で意識したことはなかったけれど、離婚してからの私って女を捨てていたんだなとつくづく思う。恋愛には興味がなかったし、誰かのために綺麗になる必要もなかった。
女を捨てていたというよりは、女である自分を忘れていたという方が正しいのかも知れない。
午後2時15分。
私の自宅の最寄り駅で光と待ち合わせた。お昼御飯を一緒にと誘ってくれたのに、時刻はお昼時を大幅に過ぎている。
駅に着くと光は改札前の壁にもたれて待っていた。
「お待たせ。遅くなってごめんね」
「いや、俺も今来たところ」
「そうじゃなくて……支度に時間がかかって、もうお昼御飯の時間じゃなくなっちゃったから」
「そんなの気にしなくていいよ。急に誘ったのに瑞希が来てくれただけで俺は嬉しい」
光って……そんなこと言えるんだ。言われたこっちの方が照れくさくて、少し頬が熱くなった。
昔も優しかったし、好きだって何度も言ってくれたけど……いくらでも待ってるとか、会えて嬉しいとか、今になってそんなにストレートに言われると、なんだか恥ずかしい。
赤くなった顔を隠そうと思わずうつむいてしまった私を、光は不思議そうに見ていた。
「どうかした?」
「ううん……なんでもない」
「じゃあ……どこに行こうか。食べたいものある?」
朝方まで深酒したせいで食欲はまだあまり湧かない。でも光はずいぶん待たされてお腹を空かせているはずだ。
「私は軽いものでいいんだけど……。光はお腹空いてるよね?」
「俺も朝御飯が遅かったから、そんなに言うほどでもないな。じゃあ昼は軽めにしよう。そこのカフェでも入ろうか」
「あ……うん」
『昼は』ってなんだ?
昼御飯を一緒に食べるつもりで誘ったんでしょ? 食事が済んだら帰るんじゃないの?
カフェに入って私はパンケーキを、光はミックスサンドを、二人ともセットの飲み物はホットコーヒーを注文した。
パンケーキなんて久しぶりだ。光とカフェに入るのも何年ぶりだろう。
最近、光と一緒に何かをするたびに何年ぶりだろうと思ってしまう。
「瑞希はこの近くに住んでるの?」
「駅から徒歩5分」
「便利でいいなあ」
光が今の私の住んでいる場所を知らないように、私も光が今どこに住んでいるのか知らない。
どこの会社でなんの仕事をしているのかだけは偶然知ったけど、もう会わないと思っていたから、今現在のことは何も聞かなかった。
「瑞希は俺のことなんにも聞いてくれないんだね」
「聞いて欲しいの?」
「今の俺のこと知って欲しいし、俺も今の瑞希のこともっと知りたいよ。ダメかな?」
まだ付き合うとハッキリ決めたわけじゃないし、今の段階でそんなに深入りしていいものか、あまり距離を詰めすぎるのは良くないような気もする。
「ダメってわけじゃないけど……」
その後に続く言葉が見つからず口ごもると、光は少し困った顔で笑みを浮かべた。
「ごめん、困らせるつもりはなかったんだ。ただ素直にそう思っただけで、無理強いする気もない」
そんな切ない顔をされたら、少しでも聞かなきゃいけないような気になってしまう。
「……じゃあ、最寄り駅だけ聞いとこうかな」
私がそう言うと、光は一瞬キョトンとした後、おかしそうに笑った。
「無理して合わせなくていいって」
無理……したのかな?
そりゃ、めちゃくちゃ知りたいとも思ってないけど……。
「いつか瑞希がホントに俺のこと知りたいって思ったら、家の場所教えるから」
「それって……私が付き合う気になったら俺んちにおいで、ってこと?」
「うん。そうなると嬉しい」
光は光なりに私の気持ちを汲んでくれているのかも。
じゃあ、私は……?今の光に少しでも歩み寄る気持ちはある?
だいたいどこを見て付き合うかどうかを判断すればいいのかわからないのに、何も知ろうとしないで光のことがわかるわけがない。
そうだ、私は何度か会っている時の様子を見ただけで、付き合うべきかどうかを判断できるほど恋愛上級者じゃないんだから、一歩踏み込まないと何も始まらないんだ。
とりあえず……どうすればいい?
覚悟を決めて『付き合う』って言ってみようか。
「光……あのね……」
思いきって話を切り出そうとすると、店員が私の注文したパンケーキを運んできた。
「お待たせしました、パンケーキお持ちしました」
「あ……ありがとう……」
店員が私の前にパンケーキを置いてテーブルから離れると、光は小さく笑った。
「ここのお店はパンケーキにならないんだね」
「え?」
「ほら、居酒屋では若い女の子の店員が『こちら豚の角煮になりまーす』って……」
ああ、光と居酒屋で向かい合っていた時のことか。
女子大生風の店員が、オーダーしたものを運んでくるたびになんでもかんでも『こちら~になりまーす!』って、勘違いな敬語を使っていたっけ。
「ああ……あれね。これから角煮になるなら今はなんなの?生きてる豚なの?って、気になって気になって……」
改めて考えてみると本当におかしな日本語だと、思わず笑いが込み上げた。
「やっと笑ってくれた」
「え?」
光は私の顔を嬉しそうに見つめている。
「離婚する前もずっと笑った顔なんて見られなかったし、瑞季の会社で再会してからもずっと身構えて表情が固かったから。瑞希の笑った顔、久しぶりに見たよ」
「そう……だっけ……?」
「……って言っても、瑞希が笑えないような状況を作ったのは俺なんだけど……」
離婚する前はまともに顔を合わせなかったし、光とどう接すればいいのかずっと悩んでいた。光の前で笑う余裕なんてなかったと思う。
ちょっとしたことでお互いにつらかった時のことを思い出してしまうなんて。よく考えたら、こんな状態で付き合ってうまくいくとは思えない。
「あ……また瑞希を困らせるようなこと言っちゃったかな。ごめん」
「……ううん」
「パンケーキ、冷めないうちに食べて」
「うん……」
パンケーキにホイップマーガリンを塗ってメイプルシロップをかけた。
その様子を見ていた光が首をかしげた。
「シロップ、そんな少しでいいの?」
「え?」
「昔はもっとたくさんかけてたよね。飲み物もいつもミルクティーだったし。もしかして甘いの苦手になった?」
驚いたな。二人でカフェやファミレスに行っていたのなんて結婚する前の大学生の頃なのに、10年以上経ってもまだそんなこと覚えてるんだ。
「苦手ってわけでもないけど、確かに昔ほど甘いものは好きじゃなくなったかな。いつもミルク入り砂糖なしのコーヒー飲んでる」
「そうなんだ。味覚も好みも大人になったのかな」
「大人にもなるよ。もう32だからね」
ハッキリ言葉にすると、また胸が軋んだ音をたてた。
どんなことがあっても時間は止まることなく流れていて、私たちは離れてからもそれぞれに歳を重ねた。お互いに知っているのは若かった頃のことばかりで、まるで知らない大人同士になってしまったみたいだ。
「まだ32だよ、瑞希」
「え?」
パンケーキを切り分けていた手元から視線を上げると、光が真剣な顔をして私を見つめていた。
「若けりゃいいってわけじゃないし、焦ってもいいことなんてなかったもんな。俺は大人になった今の瑞希をもっと知りたいし、これからの瑞希とまた一緒にいられたらって……思ってる」
「……」
光の言葉を聞くと複雑な気持ちになって、素直にうなずくことはできなかった。
やっぱり焦って結婚なんかするんじゃなかったって、光は私との結婚を後悔してるってことなのかな。
確かに私たちはあの頃まだ世間知らずで、人として幼かった。結果的に失敗はしたけれど、あの時はお互いを大事に想うからこそ二人で結婚を決めたんだと、私は思っていたのに。
「ごめん、また余計なこと言って瑞希が食べるの邪魔したみたい」
黙って手元に視線を落とした時、光のオーダーしたミックスサンドが運ばれてきた。
ちょうど良かった。少しの間は余計な話をしなくて済む。
私がパンケーキを口に運ぶと、光もサンドイッチを食べ始めた。
今の私にはシロップのかかったパンケーキはやっぱり甘すぎたみたいだ。
「まだ時間も早いしどこか行かない?」
コーヒーをもう少しで飲み終わる頃、光がそう言った。どうしようかと思ったけれど、私は首を横に振った。
「今日はやめとく。家のこと何もしてないし……明日の仕事の準備もしときたいから」
本当は家のことなんてどうにでもなるし、明日の仕事の準備も特別何かをしなくちゃいけないわけでもない。
ただ今日はもうこれ以上光と一緒にいるのがちょっとしんどいだけだ。
あの頃の真剣な想いが結婚という形に結び付いたと私は思っていたのに、光は私との結婚に対して『焦ってもいいことなんてなかった』と言った。
『若気の至り』と言われればそれまでの短い結婚生活だったし、決してうまくはいかなかった。
私は光と向き合えなかったことや、仕事に打ち込みすぎて光を大事にできなかったことは後悔しても、光と結婚したこと自体を後悔したことはない。
光が私との結婚を後悔しているのかも知れないと思うと、胸がギシギシとイヤな音をたてた。
「もう少し瑞希と一緒にいたかったんだけど……あんまり無理は言えないな」
「……ごめん」
「いや……急に誘ったのに会えただけでも嬉しかった。来てくれてありがとう。また誘うから、今度はどこかに行こう」
「うん……じゃあ、またね」
駅の前で光と別れた。
一人になるとホッとして、ようやく自然に息を吸うことができた。
自宅に戻り、一息つこうとタバコに火をつけて初めて、この間も今日も、私は光の前でタバコを吸っていなかったと気付いた。
居酒屋で会った時はタバコを吸っているところを見られたし、昔の私とは違うことを知って欲しくて、あえて目の前でタバコを吸った。
隠しているつもりはないのに光の前でタバコを吸わなかったということは、私は光の目を気にしているのかな。光も私に無理をさせまいとやたらに気を遣っている。
門倉が言った通りだ。私も光も、相手の顔色ばかり気にしている。
光と一緒にいると何もかもがぎこちなく、言葉の端々や会話の隙間に拭い去れない過去が貼り付いていて、それを見つけるたびに胸が軋んだ。
何度か会って慣れてくれば今みたいに気まずくなることはなくなるのかな?せめて普通に会話ができなければ、この先ずっとどころか、1日も一緒にはいられない。
光のことが好きかと聞かれたら、正直まだなんとも言えないけれど、光が本気で私を好きで一緒にいたいと思ってくれているのなら、できれば私もそれに応えたい。やり直すことはできなくても、また新しい関係を築くことはできるんじゃないかと思うから。
次に会う時はもう少し自然に笑って話せるといいなと思う。
今はまだ過去を振り返るたびに胸が痛む。それを光と一緒にひとつひとつ乗り越えられたら、新しい想い出はつらかった過去の傷痕を消してくれるだろうか。
きっと私たちがすべてを受け入れ心から笑えるようになるまでは、まだまだ時間が必要だ。
光と二人でカフェに行った日から2週間が過ぎた。
仕事の後や休日に会って何度か食事をしているうちに、少しずつ二人で会っている時のぎこちなさや息苦しさは薄れてきたように思う。
以前よりは自然に笑えるようにもなったし、会話も少しは長く続くようになった。けれどやっぱりまだ時折感じる違和感は拭えない。
ふとした時に過去のことを思い出して胸が痛むのも、お互いに相手の顔色を窺っているのも相変わらずだ。
できればもう光を傷付けたくはないし、私も傷付きたくない。お互いにそう思っているからなのか、光は昔以上にとても優しくしてくれるし、私もできるだけ光と会う時間を作るようにしている。
昨日は日曜日で仕事が休みだったので、前に約束していた通り食事をするだけでなく、レンタカーを借りて少し遠出をした。昔二人で行った想い出の場所に行ってみたいと光が言ったからだ。
そこに行けば昔みたいに、二人ともなんの気兼ねもなく笑えるだろうか。純粋にお互いを好きだった頃の気持ちを思い出せたら、私は光が好きだと言えるのかな。
そんなことを考えながら光の運転でそこへ足を運んだ。
山合にあるその牧場で景色を眺めて動物たちと触れ合った。
馬や牛や羊、そこで家族のように仲良く飼われている犬や猫やウサギやモルモット。のんびり動物たちを見ているだけで心が和んだ。
『瑞希はウサギ好きだったよね。ウサギ飼いたいって昔言ってたもんな』
ウサギを飼いたいと言っていたのは大学を卒業する少し前、婚約中でまだ実家で暮らしていた頃のことだ。
あの頃は動物を飼うことがどれほど大変かをわかっていなかったから、ただ可愛いからというだけの理由でウサギを飼いたいと何気なく言った。
結婚して一緒に暮らせるようになったら飼いたいねと二人で話したことを思い出した。
だけど結婚して仕事をしながら家事をするようになるとそんな余裕はなかったし、家を留守にする時間が長いので、世話をしてやることもできないと思い断念した。
あの時本当にウサギを飼っていたら、仕事で忙しくても二人で可愛がって世話をして、少しは私たちの結婚生活も長く続けられただろうか。
もしかしたら私たちが不仲になって寂しさで死なせてしまったかもと思うと、やっぱり飼わなくて正解だったのかなと思ったりもする。
動物たちに餌をやったり戯れたりしていると二人ともいつもよりは自然に笑って過ごせた。けれどどこに行っても何をしても、昔とは違うのだと改めて認識した。
光が私の手を取ろうとして何度かためらっていたことに気付いたけれど、私は気付かないふりをした。
帰り際も昔みたいにキスしたり抱きしめたりしない。
光は私を好きだと言ってくれるけれど、私はまだ光のことが好きだと自信を持って言えない。
昨日もまた返事ができないまま『じゃあまたね』と言って別れ、二人で過ごす3度目の休日は終わった。
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