第10話 困惑

 光と会った日の翌日の土曜日。

 休日出勤なので平日より少しゆっくり出社した。

 二課のオフィスに向かう前に自販機でコーヒーを買って喫煙室に足を運び、椅子に座ってタバコに火をつけ、ぼんやりと煙を眺めながらコーヒーを飲んだ。

 夕べから光の言葉が頭をぐるぐる回って離れない。


『今更過ぎることも自分勝手なこともわかってる。でも俺はやっぱり瑞希が好きなんだ』


 確かに今更だ。もしあの時光が、私の代わりを探すより『もっと俺を見て』とか『俺を必要として』と私本人に言ってくれていたら……私は光の寂しさに気付けたのかな。

 仕事はもちろん大切だけど何より大切なのは光だと、まっすぐな気持ちで言えたかな。

 もう終わりにしようと思っていたはずなのに、今となってはどうしようもないことばかり考えて、今の光と一緒にいたいのか、自分がどうしたいのかがわからない。

 大きなため息をついてコーヒーのカップに口を付けようとすると、ドアが開いて少し眠そうな門倉が火のついていないタバコを口にくわえながら室内に入ってきた。


「おはよう」

「おはようさん」


 門倉は私の隣に座ってくわえたタバコにオイルライターで火をつけ、あくびを噛み殺した。


「寝不足?」

「あー……ちょっとな……」


 門倉が少し顔を近付けて私の目を覗き込んだ。その距離があまりに近いのでドキッとして思わず背を反らせた。

 ち……近いよ!!近すぎるから!


「な……何?」

「なんだ、篠宮もか?目が赤いぞ」

「ああ……うん、ちょっとね。いろいろ考えてたら寝付けなくて」


 三十路過ぎの女の寝不足顔をそんな近くでマジマジと見ないで欲しい。肌のカサつきとか目の下のクマとか、普段は気にならない門倉の無駄に整った顔立ちとか……近くで見られるといろいろ気になるんだから。


「……元旦那のことか?」

「うん……。ああそうだ。昨日、光と会った」


 門倉は煙でむせそうになりながら驚いた様子で私の方を見た。


「えっ……会ったのか……」


 昨日会う前に言っていなかったとは言え、光と会うことを勧めたのは門倉なんだし、そんなに驚かなくてもいいのに。


「会ったよ。残業終わってから食事に行った」


 門倉は眉間にシワを寄せてコーヒーを飲んだ。私もコーヒーを飲もうと椅子の間の台の上に視線を移すと、置いたはずのカップはそこになかった。

 おかしいな、確かにここに置いたはずなのに。反対側の台の上にもない。

 ん……あれ?門倉はここに入ってきた時、コーヒーなんて持ってたっけ?

 門倉が口を付けているカップの淵には、うっすらと私の口紅がついていた。


「門倉!それ私のコーヒーなんだけど!!」

「あ、すまん。ついうっかりして。金払うわ」

「……いいよもう。せめて別のところから飲んで」


 私の言葉の意味がわかると、門倉はばつの悪そうな顔をしてカップから口を離した。


「……悪い」


 間接キスとか、小学生じゃあるまいし今更気にするつもりはないけれど、私の目の前でカップに付いた口紅の上に口を付けられるのは、なんとなく生々しく感じてしまう。


「で、相手はなんて?」

「うん……それなんだけど……」


 門倉が短くなったタバコを灰皿に捨てて腕時計を見た。


「ああ……もう行かないとな。話は仕事の後でゆっくり聞くわ。コーヒーのお詫びに今日はおごってやる」

「コーヒーくらい別にいいのに」

「いいからおごられとけ。じゃあ後でな」


 立ち上がって私の頭をポンポンと軽く叩き、門倉は先に喫煙室を出て行った。触られた感触がまだ残る頭を思わずさする。

 小塚の店まで手を引いてくれた時も思ったけど……ホントにデカイ手だな。

 よく考えたら小塚の店で話を聞いた後、公園で門倉に抱きしめられたんだ。いや、その前も確か会社の中庭で……。

 門倉がなぜそうするのかよくわからないけど……そんなに私は弱って見えたのかな。

 ちょっと前まではむやみに触ったりしなかったのに、なんで最近になって急にそんなことをするようになったんだろう?

 別にイヤなわけじゃないからいいんだけど……イヤじゃないから、少し複雑な気分だ。



「篠宮課長、書類の確認お願いします」

「はい」


 金城くんの作ったオリオン社のイベントの書類に目を通した。

 メイン会場の大花壇のイメージ図だ。大花壇で花時計を作ることになっている。


「うん、よくまとまってる。わかりやすくていいんじゃない?ここに注釈入れとくともっといいよ」

「あ……花時計の件ですね。わかりました」


 何を、と言わなくても気付いたのは大きな成長だ。

 大花壇を時計の文字盤に見立て、数字が入る場所に同じ花を植える。

 これから金城くんはこの書類を持って、早川さんと田村くんと一緒に花の種類や色についての打ち合わせに、オリオン社に行くことになっている。打ち合わせは順調に進んでいるようだ。



 土曜日は社員食堂が休みなので、会社近くの喫煙できる喫茶店に足を運んだ。

 サンドイッチとミニサラダのセットで軽い昼食を済ませ、食後は美味しいコーヒーを飲みながらタバコを吸う。それが私の土曜日の定番。

 別の店で昼食を済ませてコーヒーを飲みに来る門倉と会うこともある。平日は日替りランチもあるけれど土曜はやっていないから、男の門倉には喫茶店の軽食では全然足りないらしい。

 だからというわけでもないけれど、土曜日の昼食を一緒に食べることはほとんどない。

 平日の昼は約束しているわけでもないのに、社食で会うと門倉は必ずと言っていいほど私の隣に座る。

 仕事の後はしょっちゅう居酒屋で禊をしているし、門倉と一緒にいることが多いのは、いろいろ余計なことを言わずに済んでお互い気楽だからなのかな。

 気楽で居心地が良すぎるからあまり意識したことはなかったけれど、最近の門倉にはなんとなく違和感がある。


 昨日光と一緒に食事をした時にも、また別の違和感があった。なぜなんだろう?

 仕事のことなら自信を持って判断できるのに、恋愛なんて光としかしたことがないから、男女の関係のことには疎いしキャパシティーが小さいなと思う。

 20代で結婚も離婚も経験して、仕事一筋で恋愛から遠ざかっているうちに30代になった。

 若い頃は不器用なりに純粋に『好き』という気持ちだけで突っ走れたけれど、今は何もかもが違いすぎる。

 あんな別れ方をしたのに、もう一度付き合ってくれと急に言われてもどうしていいのかわからない。

 もしもう一度一緒にいることを選んだら、何もかも過ぎた日の想い出として受け止め、あの頃のように光を好きだと言えるかな。

 その道を選ぶことを、門倉は賛成してくれるだろうか。

 別に門倉の許可や賛同がいるわけじゃないけれど、私は自分自身のことなのに自分だけの判断で決断を下すことを不安に思っている。

 また同じ失敗をくりかえして光を傷付けてしまうのではないかと思うと、正直怖い。

『今の俺を見て』と光は言ったけれど、変わったのは光だけじゃない。私も変わったと思うし、光が好きなのは昔の私なんだと思う。

 光が今の私を見てがっかりするとか、もしかしたら私が今の光を好きにはなれない可能性だってある。

 それでもやっぱり『光とはもう付き合えない』と断れないのは、私の中にまだ光への気持ちが残っているからなのかも知れない。


 見えるのは後ろばかりで、先はまったく見えない。私はまた次の一歩を踏み出すことを躊躇して、同じ場所で足踏みをしている。



 その日は喫茶店で門倉と会わなかった。

 ガッツリ系の定食屋とか丼ものの店でなく、料理に食後のコーヒーが付くような店にでも行ったのか、会社に戻って自販機のコーヒーを飲んだのか。

 今日も門倉が来るものだと思って時間も気にせずのんびり雑誌を読んでいたら、うっかり昼休みが終わる時間を過ぎそうになってしまい、会社まで小走りで戻った。

 よく考えたら約束もしていないのに、どうして私は門倉が来るものだと思っていたんだろう?


 滑り込みセーフで午後の始業時間に間に合った。

 二課のオフィスに入る前に一課のオフィスをチラッと覗いてみたけど、門倉の姿は見当たらなかった。そりゃ来ないわけだ。

 取引先にでも行ったのかな。

 門倉が来たって特に何がどうなるってわけじゃないし、一緒にコーヒーを飲むだけなんだけど。



 定時のチャイムが鳴る頃には順調に仕事を終え、帰り支度を済ませて門倉にメールを送ると、もう少しで終わるから喫煙室で待っててと返信があった。

 自販機でコーヒーを買って喫煙室に足を運び、椅子に座ってタバコに火をつけた。

 コーヒーを飲もうとカップに口を付けた瞬間、不意に今朝のことを思い出した。

 ……いやいや、私の飲みかけのコーヒーを門倉が飲んだからなんだって言うの?ちょっと私が口を付けたカップに門倉が口を付けたからって、30を過ぎたいい大人が気にするほどのことでもないんだから。

 ……本当にキスしたわけでもあるまいし。

 自分でそう思っておきながら、なぜか無性に恥ずかしくなって慌ててコーヒーを飲み込んだ。


「あちっ!」


 喉元を通っていく熱い固まりにのたうち回りそうになる。慌てて飲むにはまだ熱すぎたらしい。

 ああもう……なにやってんだか。


「何やってんだ?」


 声の方に視線を向けると、喉元を押さえて苦悶の表情を浮かべる私を門倉が不思議そうに眺めていた。


「いたの……?」

「いたけど」


 ドアが開いたの気付かなかった……。


「どうした?」

「コーヒーが熱かっただけ」

「何やってんだよ、大丈夫か?」

「うん……まあ、なんとか」


 さっきおかしなこと考えていたせいで、門倉の顔を見るのがなんとなく気恥ずかしい。それをカップで隠すようにしてコーヒーをすすった。


「篠宮がコーヒー飲み終わるまで、俺もタバコでも吸って待つかな」


 門倉は当たり前のように私の隣に座る。椅子なんか一杯あるんだから隣に座らなくてもいいのに。



 それからいつもの居酒屋で食事をしながらビールを飲んで、昨日光に会った時のことを話した。

 さっきからずっと門倉の眉間にシワが寄っている。


「それで篠宮はどう思ってるんだ?」

「私に会いたかったのは、あの時のことを謝りたかったからなんだと思ってたのに……まさかあんなこと言われるとは思わなかった、5年も前のことだし」

「そういうことじゃなくて……篠宮はあいつをどう思ってるのかって聞いてんの」


 どう思ってるのかと言われても。


「5年前に別れた夫」

「確かにそうだけど……そういうことじゃなくて」


 門倉が苛立たしそうにビールを煽り、タバコに火をつけた。

 なんか機嫌悪い?タバコを吸いながら手元をじっと見つめて、オイルライターの蓋を何度も開け閉めしている。


「あいつに好きだって言われたんだろ?おまえはあいつのこと好きかどうかって聞いてんだよ」

「……どうだろう?」

「どうだろう?って……自分のことだろ?」

「そうだけど……」


 ずっと想っていた相手ならともかく、光は一度苦い思いをして離婚した相手だ。簡単に答えが出せるわけがない。

 他の人はみんな、誰かに『好きだから付き合ってくれ』とか言われて、簡単に答えが出せるものなのかな?


「門倉だったらどうする?」

「俺?」


 門倉が不機嫌そうな声で返事をした。なんでこんなに機嫌悪いの?


「別れた奥さんとか昔の彼女から、やっぱり好きだからよりを戻して欲しいって言われたら……」

「断る。俺にはもうそんな気持ちはないからな。けど……付き合ってくれって言ったのが好きな相手なら付き合う」


 門倉は元嫁と元カノにはもう好きとかそんな感情はないみたいだけど、それとは別に付き合ってもいいと思うような人がいるってこと?

 聞いたことないんだけど。


「門倉、好きな人いるの?」


 ストレートに尋ねると、門倉は少し目を大きく見開いた後、照れくさそうに目をそらした。


「……いる」

「ふーん……知らなかった」

「だろうな。俺も言ってないし」


 そうか……門倉には好きな人がいるんだ。だから結婚指輪を処分して禊を終わらせたり、私にかまってる暇なんてないから、私にも早く禊を終わらせろって言ったのかも。

 私は光と別れてからちっとも前に進めていないのに、門倉は確実に前に向かって進んでいる。なんだか取り残された気分だ。

 私もなんとか前に進まなきゃというほんの少しの焦りと、不可思議なモヤッとしたものが心に芽生えた。

 残っていたビールを一気に飲み干してジョッキを突き出すと、門倉は少し驚いた顔をした。


「なんか悔しい……」

「何が?」

「門倉より早く次の恋を見つけたかったのに先越されちゃうし、恋の仕方なんて忘れちゃったしな……」

「はぁ?なんだそれ」


 門倉は怪訝な顔をして首をかしげながら店員を呼び止め、ビールのおかわりを2つ注文した。


「門倉は結婚する前、奥さん以外の人と付き合ってた?」

「まぁ……それなりに?」

「離婚した後も?」

「付き合ってた……とまではいかないけど、それらしい相手がいたこともある」


 それらしい相手ってなんだ?付き合ってたような付き合ってなかったような、曖昧な関係の相手のことをいうのか?

『いたこともある』ってことは、今はその人とはもう『それらしい』関係ではないのかな。

 なんにせよ、門倉が私よりずっと恋愛経験が豊富なことには違いない。


「いきなり好きとか付き合おうとか言われてもさぁ……どうしていいのかわからないんだよね。私の恋愛の基準は光だから」


 ビールを飲んでいた門倉がジョッキを置いて顔を上げた。


「恋愛の基準?」

「初めて付き合った人が光で、そのまま結婚して離婚して、その後は仕事一筋で光としか付き合ったことがないから、他の人だとどうするとかわからない」

「恋愛に基準なんか必要か?過去に誰と付き合おうが、大事なのは今の自分の気持ちだと俺は思うぞ」


 今の自分の気持ちがわかっていたら、最初から悩んだりしない。

 大人になれば恋愛ももっとうまくできるもんだと思っていたのに、大人になるほど恋愛以外にも大事なものが増えて、好きとか嫌いで割り切れるほど簡単じゃなくなっていく気がする。

 このままじゃ私、一生一人のままなんじゃないか?今はそれで良くても将来のことを考えると、『今の自分の気持ち』だけを考えているわけにもいかなさそうだ。


「光とのこと、考えてみようかな……」

「えっ」

「昔と同じってわけにはいかないけど……あんなに好きだって言ってくれてるし……」


 門倉は険しい顔をしてタバコに火をつけた。

 一度失敗している相手となんてやめとけとか思ってるのかな。


「篠宮は好きだって言ってくれるやつなら誰でもいいのか?」


 予想外の門倉の言葉に少し驚いた。

 一度別れた相手とは言え、私を好きだと言ってくれている人と付き合うのはそんなに悪いこと?


「そういうわけじゃないけど……今の光を見もしないで断るのもどうかと思うし、離婚した原因の半分は私にもあるんだし……。もう一度やり直せたらって思ったのは私も同じだからね」

「俺がやめとけって言っても?」

「え?」

「人間の本質なんてそうそう変わるもんじゃない。篠宮は仕事のことになると他のことは後回しにするだろ?あいつも最初のうちは我慢するだろうけどな、そんなことが続いてまともに相手してもらえなくなると、また同じことくりかえすんじゃないか?」


 それは私も思わなかったわけじゃないけれど、門倉に言われるとなぜか無性に腹が立った。


「そんなのわからないよ。でも私だって昔のことは後悔してるし、光もすごく後悔してたって。それにもう二度と私を悲しませるようなことはしないって言ってくれたから」


 どういうわけか私は、門倉に対して自分と光を擁護するようなことを言った。迷っていたから門倉に相談したはずなのに、これでは私が光ともう一度付き合うことを決めているみたいだ。

 門倉は舌打ちをして伝票を手に立ち上がった。


「だったら好きにしろよ。俺に相談なんかしなくたって、篠宮の中でもう答出てんじゃん。禊はこれで終わりだな」

「ちょっと門倉……」


 門倉はひどく苛立たしげな様子で私に背を向けた。私も荷物を手に立ち上がり、店を出ようとする門倉の後を追った。


「門倉、ちょっと待ってよ」


 店を出てさっさと歩いて行く門倉の腕を掴んで引き留めると、門倉はゆっくり振り返った。その顔があまりに冷たくて一瞬たじろいでしまう。


「俺が何言っても篠宮はあいつをかばうだろ?そんなにあいつが好きなら、同じ失敗をくりかえさないようにお互いの顔色窺いながらうまくやれば?じゃあな」



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