第9話 後悔

 翌日の昼休み。

 会社の中庭のベンチで花壇の花を眺めながらコーヒーを飲んで、ぼんやりして過ごした。

 昨日岡見と小塚から聞いた話が頭の中をぐるぐる駆け巡る。


 光と会ったら何から話せばいいのか。

 岡見と小塚から聞いたと言うわけにはいかないから、何も知らないふりをしていた方がいいのかな。

 やっぱりもう会わない方が……とも思うけれど、光は連絡を待っているだろうし、そういうわけにもいかないだろう。

 今朝からポケットの中には光の名刺が入っている。だけどいざ電話しようとすると指が震えて、思いきることができない。


 昔はなんのためらいもなく電話をして、夜遅くまで他愛ないことを話し込んだっけ。

 優しく耳に響く光の声が好きだった。電話を切る前の『おやすみ瑞希、大好きだよ』の一言が、いつも私を幸せな気持ちで眠りに就かせてくれた。


 結婚したらよほどの用がないと電話をしなくなったけれど、その分いつもすぐ隣に光の温もりを感じながら優しい声を聞いていた。

 体温とか鼓動とか息遣いをすぐそばに感じて安心していたのは私だけじゃない。きっと光も同じだったんだと思う。

 だけどそんな大事なことを忘れ、その温もりを手放してしまったのは私の方だった。



 腕時計を見てため息をついた。スマホと名刺をまたポケットの中にしまい、仕事が終わったら電話しようと思いながらオフィスに戻った。

 電話することさえためらってしまうほど、今の私たちの間には大きな距離がある。

 本当に今更気付いても遅いことばかりだ。



 定時の後の休憩時間、喫煙室でタバコを吸っていると門倉がオイルライターの蓋をカチャカチャ鳴らしながらやって来た。

 また何か考え事をしているんだろう。仕事のことかな。


「よぅ篠宮、お疲れ」

「お疲れ」


 門倉は私の隣に座ってタバコに火をつけた。少し疲れた顔をしている。


「昨日、ちゃんと眠れたか?」

「うん……それなりに」

「そうか」


 胸に深く吸い込んだ煙をゆっくりと吐き出しながら、門倉はまたオイルライターの蓋をカチャカチャと開け閉めしている。


「なんにも知らないで無理につらい話聞かせて悪かったな。俺が思ってた以上に、篠宮にとっては酷な話ばっかりだった」

「うん……そうなんだけど、光が離れて行ったのは私にも責任があると思うから。知らずにいたら楽だったとは思うけど、私は知っておくべきだったのかなって思う」


 短くなったタバコを水の入った灰皿の中に投げ込んだ。ジュッと音をたてて火が消える。


『俺、この先ずっと何年経っても瑞希と一緒にいたいよ』


 ああ、まただ。

 夏の終わりに二人で線香花火をした日の光の言葉と優しい顔を思い出した。


「門倉……私、もう一度光に会ってみようと思う」

「会うこと勧めてた俺が言うのもなんだけど……大丈夫か?」

「うん。今度は逃げないでちゃんと話そうと思ってる」


 門倉にあまり心配かけたくなくて少し笑顔を作って見せた。

 私はうまく笑えているかな。


「いや、そうじゃなくて……会ったら篠宮はまた……」


 休憩時間の終わりを告げるチャイムが喫煙室に大きく響き渡り、門倉の言葉を遮った。


「やっぱり……せ……じゃ……ったな……」


 立ち上がって振り返ると、門倉は少しためらいがちに目をそらした。


「ん?何?」

「いや……なんでもない」


 もしかしたら、また私が泣くんじゃないかって心配してくれてるのかな。

 本当にお節介でお人好しなんだから。


「さぁ、早く戻らないと」


 私が促すと門倉はゆっくりと立ち上がり、私の頭をポンポンと軽く叩いた。


「禊が済んだらビールで乾杯してうまい焼肉食うんだろ。楽しみにしてるからな」

「うん」



 8時半過ぎに残業を終えてオフィスを出た。

 そのまま家に帰るときっとまたためらって電話しそびれてしまうような気がしたから、自販機でコーヒーを買って喫煙室に足を運んだ。

 もう残っている者の数少ない社内は節電のために照明が落とされて少し薄暗く、喫煙室は真っ暗だった。消灯しているのは誰もいないということだ。


 コーヒーをこぼさないように喫煙室のドアをゆっくりと開け、入り口付近にある照明のスイッチを手探りで見つけて灯りをつけた。

 椅子に座ってとりあえずタバコに火をつける。このタバコを吸い終わるまでに気持ちを落ち着かせよう。自分にそう言い聞かせると、無意識にいつもよりタバコを吸うペースが遅くなる。

 コーヒーを飲みながら口の中で光に話す言葉を何度も呟いているうちに、気がつくとタバコはフィルターギリギリのところまで燃え尽きていた。

 往生際が悪いな、私も。

 タバコを灰皿の中に投げ入れ、ポケットからスマホと名刺を取り出して深呼吸した。

 今度こそ電話を掛けよう。いつまでも逃げ続けるわけにもいかない。


 名刺に書かれた番号の数字をゆっくりとタップして、スマホを耳に近付けた。鼓動がどんどん速くなるのを感じながら、心の中で呼び出し音を数えた。

 5つめまで数えた時、呼び出し音が途切れた。


「はい、勝山です」


 光の声が聞こえた瞬間、心臓が更に大きな音をたてた。電話を切ってしまいたい衝動を抑えて、おそるおそる声を絞り出す。


「もしもし……」

「……瑞希?」


 耳に響くのはあの頃と変わらない、私を呼ぶ光の優しい声。


「うん……瑞希、です」

「良かった……ありがとう、電話してくれて」

「うん……」


 何度もシミュレーションしたはずなのに、用意していた言葉はなにひとつ私の口からは出てこない。


「えっと……」


 私がなかなかうまく話せないことに気付いたのか、電話の向こうで光が小さく笑うのが微かに聞こえた。


「瑞希、今どこにいるの?」

「会社……」

「まだ仕事中?」

「これから帰るところ……」


 たどたどしい返事しかできなくて、なんだか恥ずかしい。


「瑞希がイヤじゃなかったら……一緒に食事でもしようか」

「……うん」


 20分くらいで着くから会社の前で待ってて、と言って光は電話を切った。

 通話を終えてスマホをポケットにしまい、ぬるくなったコーヒーを一気に飲み干した。

 いきなり会うことになるとは思っていなかったから戸惑ってしまい、また鼓動が速くなる。

 落ち着け、落ち着け。とりあえず光と会うまでに少しでも落ち着かなくちゃ。


 意味もなくあたふたして両手で顔を覆い、まっすぐ帰るつもりだったので化粧直しをしていないことに気付いた。

 とりあえず……少しくらいは化粧を直しておこう。別に光と会うからとかそんなんじゃなくたって、大人の女性の身だしなみとして当然だ。

 門倉と飲みに行く時は化粧直しなんてしたことないけど。



 喫煙室を出て化粧室で化粧直しをした後、時間を見計らって会社を出た。まだ早いかと思ったのに、光は既に会社の前で待っていた。


「ごめん……待たせちゃった?」

「いや、今着いたところ。行こうか」

「うん」


 並んで歩き出した二人の間には、あの頃にはなかった微妙な距離がある。昔みたいに手を繋いで歩いたりはしないけれど、光が私の歩幅に合わせてくれているのがわかった。


「遅くまで仕事してお腹空いてるだろ?何食べたい?」

「何がいいかな……。光の食べたいものでいいよ」

「じゃあイタリアンでいい?」

「うん」


 光と肩を並べて歩くのなんて何年ぶりだろう?

 思ったより普通に会話ができていることにホッとした。

 あんな別れ方をしたから何年も離れていたのに、こうしていると昔と変わらないような気がしてくる。そんなのはもちろん気のせいだとわかっているけれど。


 光が連れていってくれたのは、最近駅前にできたイタリアンレストランだった。門倉を誘えと受付嬢に言ってやろうかと私がひそかに思っていた店だ。光もこんなオシャレな店に連れて来る相手がいるのかな。

 ……なんて、私が気にすることじゃないか。

 私たちはもうずっと前に離婚して、他人同士になったんだから。


「ここの料理が美味しいって聞いてたから一度来てみたかったんだけど、なかなか機会がなくて」

「そうなの?」


 機会がなかったとは……?

 時間がなかったのか、タイミングが合わなかったのか。それとも一緒に来る相手がいなかったのか。


「瑞希はここに来たことある?」

「ないよ。若い女子たちが美味しかったって言ってたから、気にはなってたんだけど」

「じゃあ……一緒に来られて良かった」


 良かった……のか?その相手が別れた妻で本当に良かったと思ってる?


「光だったら、食事に誘う相手くらい周りにたくさんいるでしょう?」


 思わずそんなことを口走った。

 本当に可愛くないな、私は。


「他の誰かとじゃなくて……俺は瑞希と来たかったんだよ」


 ……なんで?

 恋人とか夫婦だった頃ならともかく、もうずっと前に別れた私と一緒に来たかったなんて台詞はおかしい。会って食事をしたところで、これまでのことがすべてなかったことになるわけじゃないのに。

 私が黙り込んでしまったことに困ったのか、光は作り笑いを浮かべて私にメニューを差し出した。


「料理、選ぼうか」

「……うん」


 メニューを見るとどれも美味しそうで、あれこれ目移りして何を注文しようか悩んでしまう。明太子のカルボナーラも美味しそうだし、茄子とベーコンとトマトのパスタも捨てがたい。

 昔はいろいろ注文して一緒に食べたけれど、さすがに今はそれもどうかと思ったりする。


「生ハムのサラダ頼もう。瑞希、生ハム好きだよね。あと、マルゲリータかな」

「う……うん」


 そんなことも覚えてるんだ。もしかしたら、これまで付き合った私以外の人のことも覚えてたりするのかな。


「そんなのよく覚えてるね」

「覚えてるよ。瑞希が好きだったものも苦手だったものも、初めて俺のために作ってくれた料理も」

「……そうなんだ」


 初めて光のために作った料理はオムライスだった。卵が破れて不格好な見た目だったけど、光は美味しそうに食べてくれたっけ。

 そんな時もあったな。


「何にするか決めた?」

「あ……えーっと……どっちにしよう。明太子のカルボナーラか、茄子とベーコンとトマトのパスタか……」


 好きなものをひとつだけ選べと言われたら、私はいつも迷ってしまう。悩んだ末にこれと決めても、土壇場で決定を覆したりもする。つまり優柔不断なんだ。

 仕事ではそんなことないのに。


「迷ってるなら両方頼めばいいよ。一緒に食べよう」


 一瞬うなずきそうになったけれど、私は慌てて首を横に振った。いくら懐かしくても、どれだけ光が優しくても、あまり距離を詰めすぎるのは良くない。


「……ううん、明太子のカルボナーラセットにする。サラダも飲み物もデザートも付いてるって」


 光がほんの少し顔をしかめたのがわかったけど、私はそれに気付かないふりをした。


「生ハムのサラダはいいの?」

「いい。そんなに食べられないから」

「うん……そっか」


 目をそらしてうっすらと笑みを浮かべた光の顔が、どことなく寂しそうだった。

 向かい合って食事をしても昔と同じようには笑えないし、楽しかった頃を懐かしむために会ったわけじゃない。どうにもならない違和感ばかりが膨らんで、息苦しくて声も出せなくなってしまいそうだから、早々に話を済ませてしまった方がいいのかも知れない。

 光が右手を挙げて店員を呼び止め、明太子のカルボナーラセットと、茄子とベーコンとトマトのパスタと、生ハムのサラダとホットコーヒーを注文した。

 店員がテーブルから離れると光はグラスの水を少し飲んだ。


「……なんで自分の好きなもの注文しないの?」

「ん?食べたいなと思ったから注文したんだよ」


 嘘ばっかり……。

 茄子なんか好きじゃないくせに。サラダだって生ハムよりシーフードの方が好きだったはず。


「変な気を遣わなくていいのに」

「瑞希が好きなもの、俺も食べたいなと思っちゃいけない?」

「いけなくはないけど……」


 また胸が軋んだ音をたてた。立て付けの悪い錆びたドアを無理やりこじ開けようとしているような、そんな感じ。


「あのね光、私……」

「話は食事の後にしよう」

「……うん」


 料理を待つ間、特に話すことがあるわけでもなく視線をさまよわせながら水を飲んでいた。

 間が持てなくて居心地が悪くて、こんな時に限ってなかなか料理が来ない。いや、そう感じるだけなのかも。

 光も同じように落ち着かないのか、さっきからメニューを見ている。


「ただぼんやりしてるだけってのもなんだから、ワインでも頼もうか」

「ああ、うん」


 チーズの盛り合わせと白ワインをボトルで注文した。とりあえずこれで少しは気が紛れる。

 光はグラスをひとつ私に差し出し、私がそれを受け取るとワインを注いでくれた。私も注いであげた方がいいのかなと思ったけど、光は自分でグラスにワインを注ぎ、二人とも何も言わずにワインを飲んだ。


 確か初めてワインを飲んだのは光と一緒にイタリアンレストランに行った時だ。

 気軽に入れるイタリアンレストランが大学の近くにあって、二人とも飲んだことのなかったワインを初めて飲んでみることになった。あの頃はまだ二十歳を過ぎて間もなくて、お酒に慣れていなかったから、グラスワインを2杯も飲むとほろ酔いになって、二人とも少しフワフワした足取りで手を繋いで帰った。

 30歳を越えてすっかりお酒に強くなった今では、もうそれくらいの量では酔わないけれど。


「なんか今……瑞希と一緒に初めてワイン飲んだ時のこと思い出した」

「……うん、私も」


 自然とそう答えると光は少し嬉しそうに笑った。


「若かったな」

「お互いにね」


 あれからもう12年も経ったんだ。

 嬉しいことも悲しいこともつらいこともあった。離れてからはそれぞれの道を歩きながら歳を重ねて、また出会うとは思ってもいなかった。


「……いろいろあったね」

「……うん」


 それからまた二人とも黙りこくってワインを飲んだ。

 運ばれてきた料理を食べ始めると、光が微かに笑みを浮かべた。


「瑞希と向かい合って食事するなんて何年ぶりかな」

「この間居酒屋で……」

「あれは違うよ。ビールとつまみだけだったから」

「そう……?私の夕飯、いつもそんな感じだけど……」


 私の夕飯なんて仕事の後で門倉と居酒屋に行くか、家に帰って一人で適当なものをつまみにビールを飲んで終わるのが当たり前。

 結婚していた頃はなんとかして食事の用意をしていたけれど、最近は自分だけのために料理を作るのが面倒だから、あまり自炊はしていない。

 光がサラダのトマトを口に運んだ。

 ああ、そうか。いつも門倉の分までトマトを食べていたけど、今日はそんなことしなくていいんだ。


「俺……瑞希の作ってくれる料理好きだったよ。けど一人で食べるより一緒に食べるのが好きだった。料理がどんなに美味しくても、一人じゃ味気なかったから」

「……うん」


 仕事が忙しくなると、出勤前になんとか食事の支度だけして出かけ、夜は残業で遅く帰ることが多かった。帰っても夜中まで家事と持ち帰った仕事に追われて、光とはまともに会話する時間もなかった。

 光はいつもそんなことを考えながら一人で食事をしていたのかも知れない。


 食事を終えてコーヒーを飲みながら、どうやって話を切り出そうかと考えた。

 あの時はごめん、とか突然言ってもなんのことかわからないだろうし、岡見と小塚にいろいろ聞いたことは伏せておきたいから、何から話せばいいのかと悩む。


「昨日、小塚から電話もらった」


 光は顔を上げることなくそう言ってコーヒーを飲んだ。


「えっ……」


 昨日っていつ?

 私と話す前?それとも話した後?


「瑞希に俺のこと聞かせてくれって頼まれたけど、勝手に話していいかわからないから電話したんだって。だから本当のこと全部話していいって言った」

「……ごめん」

「瑞希が謝ることないよ、謝るのは俺の方だ。この間居酒屋で会った時に嘘ついたこと、後ろめたかったし……。ちゃんと本当のこと話して謝りたかったから。また瑞希に嫌われるのが怖くて嘘ついた。ごめんな」

「……」


 もうずっと前に別れたんだし、今更私に嫌われたってどうってことはないはずなのに。黙っててくれと小塚に頼めば、私は光の話が嘘だとは気付かなかったのに、なぜそれをしなかったのか。


「瑞希は俺より仕事が大事なんだって子供みたいに拗ねて……俺を必要としてくれるなら誰でもいいってやけになってさ。男のくせにカッコ悪いな」

「光が他の人を選んでもしょうがない状況を作ったのは私だと思う。光がつらかった時に私はそれに気付けなかったし、ちゃんと話も聞かないでひどいこと言ったから、それを謝りたかったの。ごめんなさい。私は全然向き合おうとしなかった」


 私が頭を下げると光は首を横に振った。


「俺、本当にバカだった。一緒にいたかったのは瑞希が好きだったからで、誰でも良かったわけじゃないのにな。別れてしばらく経って冷静になってからやっとそれに気付いて……ずっと後悔してた」

「……うん」

「瑞希の代わりなんて……瑞希以上に好きになれる人なんて、どこにもいなかったよ。こんなに好きなのにもう会えないんだって思うと苦しくて、その原因を作った自分が許せなくて……もう生きてるのもつらくなって死のうとした」


 どんな顔をして聞けばいいのかわからなくて、自然とうつむいてしまう。


「大量に睡眠薬飲んで朦朧としてる時に……夢の中で瑞希に会ってさ」

「私に……?」

「約束やぶってごめんって言おうと思ったら『バカ!!なんでこんなことしたの?!』って、瑞希が泣きながら怒ってくれたから……会ってちゃんと謝らなきゃって思ったら、死ねなかった」

「うん……」

「どんなに罵られてもいいから、瑞希に会いたいって思ったんだ。ずっと会いたかった。瑞希が……好きだから」


 え……?今、なんて言った……?

 驚いて顔を上げると、光の真剣な眼差しに捕らわれた。目をそらすこともできず息を飲む。

 息をするのも忘れてしまいそうなほどの緊張に耐えかねて、思わず立ち上がった。


「もう時間も遅いし……そろそろ出よう」


 伝票を取ろうとすると、それより早く光が手を伸ばした。


「今日は払わせて。誘ったのは俺だから」


 店を出るととにかく1秒でも早くこの場を立ち去りたくて、駅に向かって歩き出そうとした。すると光が突然私の手を握り、駅とは逆の方向へと歩き出した。驚いて手を引っ込めようとすると、光は更に強い力で少し強引に私の手を引いて歩いた。


「……離して」

「お願いだから、逃げないでもう少しだけ話を聞いて。これきりになんてしたくない」


 これでもう光とのことにけりをつけて全部終わらせるつもりだったのに、光はそれを許してくれない。

 光の手はあの頃と同じように温かくて、なんのためらいもなく大好きだと言えた頃のことが次々と頭に浮かんで、手を引かれながら見つめた光の後ろ姿がぼんやりとにじんで見えた。


 しばらく歩いた後、閉店したショッピングモールのそばにある広場のベンチに座った。

 光はすぐそばにあった自販機で買った温かいミルクティーを申し訳なさそうに私に差し出した。


「ゆっくり話せる場所探してたらこんなとこまで来ちゃったよ。ごめんな、瑞希」


 黙ってミルクティーを受け取った。昔、私が気に入ってよく飲んでいたものだ。

 最近はコーヒーばかりで、ミルクティーはあまり飲まないことなんて光は知らない。

 光は私の隣に座りタブを開けてコーヒーを一口飲んだ。昔は飲まなかったブラックの缶コーヒーだ。

 私が知らないうちに、光もそんなの飲むようになったんだな。


「初めて瑞希を裏切った時、すごく後悔した。それなのにまた同じことをくりかえした。自分でも最低だと思うけど、俺は瑞希の代わりにそばにいてくれる人が欲しかったんだ」

「うん……」

「別れてからずっと後悔してた。何もかもやり直せたらいいのにって。そうすれば瑞希を二度と離さないのにって、ずっと思ってた」


 光の言葉を聞きながらミルクティーの缶を握りしめた。

 私にはうなずくことも首を横に振ることもできない。

 何もかもやり直せたらいいのにと思ったのは光だけじゃない。私だって何度もそう思った。

 どんなに悔やんでもお互いの心の傷痕は消せないのに。


「今更過ぎることも、自分勝手なこともわかってる。でも俺はやっぱり瑞希が好きなんだ」


 光の手が膝の上に置いた私の手をギュッと握った。どうすればいいのか、どう答えていいのか、頭の中が真っ白になって何も考えられない。


「もう昔みたいには戻れないよ……」

「わかってる。でも好きなんだ。何も言わずにこのままあきらめて後悔したくない。二度と瑞希を悲しませるようなことはしないから、もう一度俺と付き合って欲しい」


 もう一度……?

 光と一緒に同じ未来を目指して歩くことが、今の私にできるだろうか。


「急にそんなこと言われても困る……」

「それもわかってる。ゆっくりでいい。昔じゃなくて今の俺を見て考えてくれないか」



 駅までの道のりを二人とも黙ったままで歩いた。

 光の手は私の手を握りしめていた。手を離すと何度も見た夢みたいに瑞希が消えてしまいそうで怖いんだ、と光は言った。

 駅のそばまで戻ってきた時、光は私の顔をじっと見つめた。


「また会ってくれる?」


 うつむいたまま返事もできず、握られた手をそっとほどいた。


「……帰るね」

「俺は瑞希に会いたい。だから誘うよ」

「……おやすみ」


 目をそらして光に背を向け、自動改札機を通り抜けた。昔は振り返って笑って手を振ったけど、今日は振り返らずに真っ直ぐ歩いた。

 二人で会った帰り際のこんな小さなことでさえ、あの頃と今では違うと思い知らされる。

 電車に乗って窓から真っ暗な景色を眺めた。

 どちらともハッキリ答えられないのは、私の心に迷いが生じているからなのか、それとも同じ失敗をくりかえすことを恐れているからなのか。離婚して5年も経ってからあんなこと言うなんて。


 私も光もあれから一歩も前には進めていないんだ。

 同じ場所で何度も足踏みをして、新たな一歩を踏み出すことをためらって、後戻りはできないと言いながら、ずっと後ろばかり振り返っていた。


 後になって悔やむから後悔って言うんだよね。

 私の一番の後悔はなんだろう?

 光と向き合わなかったこと?それとも去っていく光を引き留めなかったこと?

 もし今、再び差し出された光の手を取らなかったら後悔する日が来るだろうか。それは後になってみないとわからない。

 今はただ、どちらに進めば後悔しないのかと迷いながら、目の前の分岐点に戸惑っている。



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