第8話 真実

 木曜日。

 小塚の店の定休日に合わせて、私と岡見、そして門倉も、いつもより少し早めに仕事を切り上げて集まることになった。場所は小塚が厚意で店を貸してくれて、シェフをしている弟さんが簡単な料理を振る舞ってくれるそうだ。


 本当は門倉には同席を頼まずにおこうかと思ったけど、どっちみち内容を話さなきゃいけないのなら一緒に聞いた方が話が早い。

 それにやっぱり、私の知らないどんな話が飛び出すのかわからないから不安だったのも同席を頼んだ理由のひとつだ。


 光にはあれからまだ連絡をしていない。今日の話次第で光と会って話す内容が変わると思う。

 私はこれで本当に光とのことをきれいに終わらせることができるだろうか。今より更に後悔とか反省をしなくてはいけない状況にならないことを祈るばかりだ。



 月曜日と同じくらいの時間に会社を出られるように必死で仕事を終わらせ、まだ残って残業をしている部下たちに挨拶をして慌ててオフィスを出た。先に仕事を終えた門倉は喫煙室で待っているらしい。

 喫煙室のドアを開けると、門倉が煙を吐きながらゆっくりと私の方を向いた。


「お待たせ」

「おー、お疲れ。篠宮も一服してくか?」

「ああ、うん。そうする」


 とりあえずタバコを1本吸い終わるまでにちょっと落ち着こう。

 夕べから緊張して胃が痛い。今までどんなに大きな取引先との契約でも、こんなに緊張したことはないのに。

 ケースからタバコを取り出して口にくわえると、門倉がオイルライターで火をつけてくれた。


「あんまり緊張すんな。大丈夫だ、俺がいるから」

「ありがとう……」


 最近やけにそういうこと言うよね。門倉なりに私を気遣ってくれてのことなんだろうけど、こいつはやっぱり天然タラシに違いない。

 新しい恋をした時のために、女子がクラッと来ちゃうような台詞を私の反応で試してみてるのかも。そんなことしても被験者が私じゃ参考にはならないと思うんだけど。


「門倉ってさぁ、天然って言われない?」

「いや、言われたことないけど。……ってか、むしろ天然は篠宮だろ?」

「私だって言われたことないけど。私のどこが?私は門倉みたいにタラシじゃないよ?」

「……そういうとこだよ」



 この間と同じように会社を出て小塚の店まで門倉と一緒に歩いた。だけど今日はあの時と違って足取りが重い。心なしか歩くペースがどんどん落ちていく気がする。


「篠宮、歩くの遅すぎ」

「だってなんか……」


 緊張と不安で立ち止まってしまいそうになる私の手を門倉がギュッと握った。


「店に着くまで引っ張ってやるから頑張って歩け」

「う……うん……」


 門倉の手は大きくて温かくて少しホッとした。

 一緒に来てもらって良かったと思った。もし私一人だったら、途中で逃げていたかも知れないから。

 私の手を引いているのが、何度も握り合った光の手じゃないことに、少し違和感はあるけれど。




 深夜の公園で、私は涙を浮かべながら力なくブランコに座っている。

 門倉はブランコのそばのベンチに座って黙り込んだままタバコを吸っている。


 やっぱり聞かない方が良かったかな。

 私は光の妻だったはずなのに、何も知らなさすぎた。いや、夫だったはずの光から何も知らされていなかったんだ。

 信頼されていなかったから本当の意味で夫婦になれなかったのかな。


 門倉が地面で火を消したタバコの吸い殻を携帯灰皿にしまって立ち上がった。


「篠宮、ずっとここにいると風邪ひくぞ。そろそろ帰ろう」


 泣き顔を見られるのがカッコ悪くて、うつむいたまま少し作り笑いを浮かべた。


「ごめんね、遅くまで付き合わせて。私はもう少し酔いが醒めたらタクシーで帰るから、門倉は先に帰っていいよ」

「やっぱりバカだな、篠宮。こんな時間にこんな場所でおまえを一人にできるわけないだろ」


 門倉は私の手を引っ張って強引に立ち上がらせ、その長い腕で私を抱きしめた。


「酔ってなんかないくせに。一緒にいてやるから泣きたきゃ好きなだけ泣け」


 門倉の体温が体に伝わってくる。温かくて優しくて涙がこぼれた。

 こんな弱ってる時に平気な顔してこんなことするんだもんな。思いきり泣いてしまいたいとか思っちゃうじゃないか。

 これはちょっとずるい。

 門倉の優しさに流されて崩れ落ちないように、甘えたがる弱い心にブレーキをかけた。


「泣かないよ……。門倉ってやっぱり天然だよね……」


 門倉の胸を両手で押し返そうとすると、門倉は更に強い力で私を抱きしめた。


「はぁ?もう天然でも養殖でもなんでもいいよ!つらいことは自分の中に溜め込んでないで全部吐き出せ。俺がいくらでも聞いてやる」

「やっぱり知りたくなかったな……。今更だけど……ショックだった」

「篠宮……」


 無理に聞かせて悪かったとでも思っているのか、それとも同情しているのか。門倉はなかなか私を離そうとしない。


「もう大丈夫だから離して」

「一人になるのがつらいなら……うち、来るか?」


 いつもより少し低い声で門倉が尋ねた。

 門倉の家に行ったことなんかないし、そこまでしてもらう理由はない。それに今は早く一人になりたい。


「行かない。ちゃんと帰るから安心して」

「一人でホントに大丈夫か?」

「大丈夫。明日も仕事だし、帰ってお風呂入って寝る」

「うん……そうか」


 門倉は私からゆっくりと手を離した。急に夜風の冷たさが染みて身震いがした。


「確かに寒いね。早く帰ろう」


 家まで送ると門倉は言ってくれたけど私はそれを断って、駅前のタクシー乗り場から別々のタクシーに乗った。

 タクシーに乗ってドアが閉まり、門倉の姿が見えなくなった途端に涙が溢れた。

 こんな時はあんまり優しく抱きしめたりしないで欲しい。光に抱きしめられた時のことをまた思い出して泣いてしまうから。


 タクシーのシートに身を預けてぼんやりと窓の外を流れる景色を眺めた。岡見と小塚から聞いた話が次々と頭の中に蘇り、胸が痛くて窓の外の景色が涙でにじんだ。

 前に別の友人から聞いた話より、岡見と小塚から聞いた話は私にとってとてもショックだった。そして光本人から聞いたあの時の彼女の話もまったく違うものだった。

 光は私に本当のことを隠したくて嘘をついたんだ。



 結婚して3年が経ち、入社4年目の春。

 光はそれまで所属していた商品管理部から営業部に異動になった。入社当初から営業職を希望していたので、営業部への異動が決まった時はとても喜んでいたし張り切っていたのを覚えている。

 まさか営業部でひどい目にあって心を病んでしまうとは思いもしなかっただろう。


「シノ、サークルのOBの栄田サカエダさんって覚えてる?」


 岡見は少し言いづらそうにその話を切り出した。

 栄田という苗字はそんなに多くもないし、私と光が付き合うきっかけになった人だからよく覚えている。


「ああ、あの飲み会の時に私の隣にいたしつこい人?その栄田さんがどうしたの?」

「偶然なんだけどな。光の就職した会社の営業部に栄田さんがいたんだ」

「そうなの?!知らなかった……」


 光からはそんな話は聞いたことがなかったのだから、知らなくて当然だと思う。

 彼らの話によると、あの時のサークルの飲み会で私と光が抜け出した後、栄田さんはひどく荒れていたそうだ。


「栄田さんはあの飲み会の前からシノを気に入って目ぇつけてたからな。プライドの高い人だからさ、後輩たちの前で光にシノを持ってかれて恥かかされたってめちゃくちゃ荒れてたんだ」

「光にはあの後のこと話したけど、光がシノには言うなって。今だから言うけど、俺も岡見も光のフォローするの大変だったんだぞ」

「そうなんだ……。ごめんね、迷惑かけて」


 サークルの誰も私にはそんなこと一言も言わなかった。光が全員に口止めしていたのかも知れない。


「それでな……運悪く何も知らずに栄田さんと同じ会社に就職した上に同じ部署の同じチームに配属になって、あの人根に持つタイプだから光のことずっと恨んでたみたいなんだ」

「何それ?器ちっさ……!!」


 大の大人の男がそんな何年も前のことをネタに後輩を虐めてたって?私の部下だったらただじゃおかないのに。


「おまけに光がシノと結婚してたのが気に食わなかったんだろ。新卒で結婚してるなんて珍しいから入社当初から目立ってたらしいしな」

「それにあいつ優しいから、既婚者なのにけっこうモテたらしいぞ。もちろんその時は結婚してるからって誘いは全部断ったらしいけどな」

「それも初耳なんだけど……」

「栄田さんのチームに、結婚間近だって言ってたのに彼女にフラれた先輩と、婚活連敗で結婚できない40過ぎの上司がいたんだって。あとは栄田さんの下僕みたいな先輩とか。寄ってたかって嫌がらせされたってさ」


 昼食を取るために入った店で偶然取引先の女性担当者と出会って一緒に食事をしただけで不倫だと噂を流されたり、残業して作り上げた契約書類のデータを消されたことも一度や二度じゃないらしい。子供じみた嫌がらせは日に日にエスカレートして、光は精神的にかなり参っていたそうだ。

 そこに来てあの契約書の差し替え事件が起こった。

 出掛ける前に書類を確認していたにも関わらず修正前の書類に替わっていたということは、出掛けに領収書のコピーを取るためにほんの一瞬目を離した隙に書類を差し替えられたとしか考えられないと光は言っていたらしい。


「かなりデカイ取引先との契約だったんだろ?それをダメにされて、身に覚えもないのに大勢の前で上司から散々怒鳴られてなじられたって。それでも周りは栄田さんたちが怖いから誰もかばってくれなかったんだ。もう誰も信じられなくなって、だんだん会社に行くのが怖くなったんだってさ」

「ひどい……」


 光の様子がおかしくなった時、私は仕事の忙しさにかまけて詳しく話を聞こうとしなかった。おまけに無断欠勤の理由も聞かず、出勤して職場の人たちに謝れと言った。

 ひどいのは私も同じだ。本当なら光の様子の変化に一番に気付き、話を聞いて一緒に乗り越えなければならなかったのは妻の私なのに。


「光はその時の私のこと、何か言ってた?」


 おそるおそる尋ねると、岡見と小塚は顔を見合わせて少し困った顔をした。

 門倉は最初からずっと黙って話に耳を傾けている。


「どんなことでもいいから教えて」


 私が頼み込むと岡見と小塚は小さくため息をついた。


「言いづらいんだけど、光がな……シノは仕事が忙しくなり始めてから全然自分のことを見てくれないって言ってたよ」

「いつも家でも仕事に必死になってるから、話したくても何も話せないんだって。『瑞希はもう俺のことなんか好きでも必要でもないみたいだ』って言ってたな」


 好きじゃなくなったなんてことはなかった。ただ、一緒にいることが当たり前になりすぎて、何も話さなくてもわかってくれると油断していたんだと思う。


「好きじゃなくなったわけじゃないけど……確かに仕事が忙しくなってからは光と食事も一緒にしなくなったし、まともな会話もしなかった。ずっと光に避けられてたような気がするよ」

「それ、光も同じこと言ってたぞ。シノに避けられてるって」

「おい、それは……」


 小塚の言葉を聞いた岡見が慌ててそれを止めようとした。きっと光は私には言いにくいことを二人に聞いてもらっていたんだろう。


「教えて。光が……なんて言ってたの?」


 私が覚悟を決めて尋ねると岡見が真剣な顔をして私を見た。


「シノ、先に断っとくけどな。光は別にシノとの間にあったことを俺らになんでもかんでも話してたわけじゃないぞ。どこに遊びに行ったとかは聞いたけどな。この話をした時の光は相当悩んで切羽詰まってたから、俺らが話させたんだ。それだけはわかってやってくれよ」

「うん……わかった。それで光はなんて?」


 小塚は静かな口調で話し始めた。


「シノが毎晩遅くまで仕事してるから、もうずっと一緒に寝てないし触ってないって。きっと俺と寝るのもイヤなんだなって言ってた」

「うん……」

「光は寂しかったんだ、結婚して一緒にいるのにまともに話すことも触れ合うこともできなくて。シノが遠い存在になったって。つらい時もシノに気付いてもらえなくて逃げ場が欲しかったんだと思う。だから……」

「……浮気したってこと?」


 小塚は『シノには酷な話をするけど』と前置きをして光が浮気をした経緯を話し始めた。


 最初の会社を辞めてしばらく経った頃、光は買い物に出掛けたコンビニで偶然再会した高校時代の同級生の紹介で、小さな工務店に再就職したらしい。

 同級生の彼女には遠距離恋愛中の彼氏がいて、最初はマメに会いに来てくれたのにだんだんその頻度が落ち、ここ最近はもう2か月以上も会っていないと相談された光は、自分も結婚生活がうまくいっていないと打ち明けたそうだ。

 お互いを励まし合っていた二人がお酒の勢いを借りて、寂しさを埋めるために一線を越えたのはたった一度きりだったという。

 私が光から聞いた話では、浮気のつもりが本気になって離婚後もその彼女と半年ほどは付き合っていたはずなのに。


「光は死ぬほど後悔してた。シノを裏切ってしまったって」


 その後、浮気の後ろめたさも手伝って私との夫婦関係は修復できないまま、光は悩み疲れていたそうだ。

 そんな時、気晴らしに酒でも飲もうと岡見と小塚がサークルの同期生を数人集めて飲み会を開いた。


「思えばあれがシノと光の離婚を早めたのかもな」


 岡見が言うには、その飲み会でサークルでも特に仲の良かった藤乃フジノと再会したことがきっかけで、光は私とのことを彼女に相談するようになったらしい。

 藤乃は私にとってもサークルで特に仲の良かった友人だ。

 二人は偶然にも勤め先が近かったこともあって、仕事の後で頻繁に会うようになり、男女の仲になるのに時間はかからなかったと言う。


「サークルで仲良くしてたしシノは知らなかったかも知れないけどな、藤乃はシノたちが付き合うより前から光のことが好きだったんだ。光はシノのことが好きだったから藤乃に付き合ってくれって言われても断ったらしいけどな」


 まったく知らなかった。

 光のことが好きだなんて、藤乃は私には一言も言わなかったから。


「シノは光が藤乃を家に連れ込んでるところに鉢合わせたんだろ?」

「いや……そうなんだけど……相手が藤乃だったってことは、今初めて知った。私は直接姿を見てないから」


 あの日のことを話すと、岡見と小塚は顔を見合わせた。


「シノ、熱出して寝てたのか?」

「寝てたっていうか、意識を失ってた」

「それでか……。光はシノが夫の浮気を気にも留めないで寝てたって思ってる。日頃の激務の疲れで早く帰ってきて寝てたんだろうって」

「えぇっ……」


 光は私の友人でもある藤乃と不倫していることがバレてはまずいと思ったらしく、私が眠っている間に二人で部屋を出たらしい。

 それから2日間、光は帰ってこなかった。藤乃の部屋でほとぼりが冷めるのでも待っていたんだろうか?


「藤乃の姿は見なかったかも知れないけどさ。シノの留守中に光が女を連れ込んでるのには気付いたわけだろ?それでもシノは何も言わなかったのか?」

「言わなかったよ、何も。その時にはもう完全に夫婦関係は破綻してたし、光は別の人を選んだのかなって。高熱で倒れた妻を放置して女と出てくくらいだし、私のことはもう好きじゃないんだなと思ったから」


 小塚は空いたグラスにワインを注ぎながら眉間にシワを寄せてため息をついた。


「光はシノが責めるの待ってた」

「え?」

「シノがまだ少しでも自分のことを好きだと思ってるなら泣いて怒って責めるだろうって。そうしたら素直に謝って藤乃とは別れようと思ってたみたいだけどな。シノが何も言わなかったから、もうこれ以上夫婦でいることは無理なんだって光は思ったんだ」

「それで離婚……?」

「それもあるけど……今までのことをシノにバラすって、光は藤乃に脅されてたらしいからな。それだけは避けたかったんだろ」


 二人の話では最初から本気だったのは藤乃の方で、光は私の身代わりを藤乃に求めていたらしい。髪が長くて背格好が私と似ていたからというだけの理由で、藤乃に私の面影を重ねていたそうだ。


「あの時の光は病んでたからな。誰かと触れ合ってないと寂しくて耐えられなかったんだ。性依存って言うのか?」


 そんなことも初めて聞いた。

 光は寂しさを埋めるために、誰でもいいから抱きしめて欲しかったんだ。すぐそばにいても触れられない私の代わりに。


 その後、光は時間をかけて藤乃と別れたそうだ。すっかり心が病んでしまい精神科に通院していたとも二人は言っていた。

 それからしばらくして、生きる気力をなくした光は病院で処方されていた睡眠薬を大量に飲んで自殺を図ったらしい。一命をとりとめた光を二人が見舞いに行った時、光は『瑞希に会いたい』と涙ながらに呟いたそうだ。


「こんなこと話しといてなんだけどな。職場でのこととか原因はいろいろあるけど……光はシノのことがホントに好きだったんだ。だから近くにいるのにシノが遠くなってしまったことに耐えられなかった」

「嫌われたくないから自分の弱さをシノにさらけ出せなかったんだよ。それが光とシノを離婚に追いやった一番の理由だと俺は思う。だからって浮気していいとは思わないけどさ。シノにも原因はあると思うぞ」

「うん……。ありがとう、話してくれて」


 私は光のことを何も知らなさすぎた。

 どれほど寂しい思いをさせていたのか。どれほど光を傷付けていたのか。今更だけど、妻として光に寄り添えなかったことを謝りたいと思った。

 仕事と主婦業をこなすことで精一杯で、一番大事な妻としてのつとめを疎かにしてしまったのは未熟だった私だ。


 帰り際、小塚は言った。


『二人とも先を急がないで、もう少し大人になってから結婚すればうまく行ったのかも知れないな』


 それは私も何度も思ったことだ。

 どんなに悔やんでも過ぎた時間は戻らない。だけど……若かった日の過ちを心から悔やんでいるのなら、また別の未来へも踏み出せるのではないか。

 やり直すことはもうできない。だけどもし新たな道があるのなら、私は……。




 自宅に戻りシャワーを浴びて床に就いた。疲れているはずなのになかなか寝付けず、何度も寝返りを打った。

 光のことを考えると自然と溢れた涙は、いつしか枕に染みを広げた。


 本当に好きだった。

 好きだったから、掴み合いの喧嘩をして罵り合って憎み合って別れたくはなかった。

 だから何も言わなかった。


 私も光も、お互いに自分の弱さや心の奥に潜む汚い部分をさらけ出すことができなかった。

 どうして私たちはわかり合おうとしなかったんだろう?あんなに好きで好きでどうしようもなくて、ずっと一緒にいるために結婚したはずなのに。


 喧嘩して泣きじゃくる私の頭を何度も撫でてくれた優しい手と、いつかの仲直りの言葉を思い出した。


『ごめん、瑞希。泣かせてごめんな。俺には瑞希しかいないよ。好きだからずっと俺のそばにいて』


 ずっと一緒にいたかったのは私も同じだったはずなのに。

 無機的に一緒にいることで光を苦しめてしまったのだと思うとやりきれなくて、また涙が溢れた。


「ごめんね、光……」


 光に届くことのないその言葉は、夜のしじまに跡形もなく消え去った。




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