賭けの結果
棗の記憶の限り、決して約束を破らなかった男。
冗談半分の口約束さえ真に受ける愚直で、喫茶店主にこっぴどく絞られることすら日常だった。分け隔てなく、誰に対しても。
「来ると思ってたよ。大馬鹿野郎」
――来なければどれほど良かったか。
黒河の病室に向かう途中だった雨屋は、驚くほど簡単に伸し終えた。
背負った直刀を奪い、念入りに骨を折っておく。余力を残して病室で暴れ出す可能性も見えていたから。利き腕を四つ折りにされていれば動きも鈍る。
体を引きずるたび、粘着質な血痕が廊下に尾を引いた。腹の傷まで開いたらしい。
黒河が雨屋に与することも、予測の範疇で。
病室の窓から身を投げた殺し屋を見送り、あわてず廊下へ
古い錠前を針金で破って、病院の屋上に侵入する。
待つことしばらく、外設の螺旋階段がぎしりと鳴った。
「いたた。痛い……あの、かえしていただけませんか……?」
雀に目隠しの布を強奪された成人男性が低頭して、相手にされずうなだれている。
烏や鳩、野鳥の群れにつつき回され噛みつかれ、屋上まで連れてこられた雨屋の瞳が棗をとらえた。こぼれそうなほど見開かれる。
「……ご友人がたでいらっしゃいます?」
「ただの伝手。僕の力じゃあない」
上空を旋回する烏の大群は、夜闇に垂れこめた暗雲と見紛う――なるほど大盤振る舞いだ。飼い猫を動物病院に診せてやったのが効いたか。ひとの好い情報屋だ。
「逃がす気ないって言ったはずだけど」
「あはは……こちらに戦意はありませんが」
呑気に両手を挙げた雨屋が「ひえ」と尻もちをついてナイフを躱す。
後ずさり、上体を逸らし。攻勢に転じるでもなく、即興的に避けているだけのさばき方。本気でやれふざけてんのかと殴り飛ばしたいのに、当の
さっきまでは手抜きしてやがったかと。回避一辺倒に立ち回られる面倒くささを再認識して舌打ちした。
「
「どこが!? じゃなくて――」
「てめえのしたこと忘れてねえよな」
殺し屋とその追手。元から対立の立場だ。戦意があろうと無かろうと。
間合いを取ってひと呼吸おいた雨屋が、軽くくちびるを噛むのが見えた。
――戦うほかないと覚悟を決めたか。
距離を詰めてきた雨屋に嫌な予感がして、一歩、身を引く。
骨の壊れる音が聞こえた。
関節本来の可動域を超えたひねりが加えられ、右腕の間合いが不自然に伸びる。
「っ……!?」
しなる腕は鞭のように伸び、棗のベストを袈裟斬りにした。
外した肩をばきんと戻し、ねじ曲がった手指に小刀を握って。雨屋の追撃は緩まない。
その腹から、少なくない血を流しながら。
得物が交錯するたび血だまりが踏み広げられ、鮮やかな足跡を描く。
明らかに呼吸が早い。どう見積もっても、血を流し過ぎている。
腕も折ったし足も折った。指は半分イカレてる。取り回しのきく小刀を扱うのは、握力が残っていないから。それでなお消耗度外視に戦闘を続けるなら。特攻同然だ。
「……何の為に死ぬの? お前」
「モノには寿命があるものでしょう。そこに意味を求めますか?」
「その程度の捨て駒かよ。『持ち主』とやらも底が知れてるね」
「私にも、大した忠義は御座いませんから。お互い様ですよ」
忠義が無いのに命は捨てるのか。
違和感を気にして、ぬめる血だまりに足を取られた。
体勢を崩した隙を、雨屋は見逃さず――棗はその反射を「十分に予測して」懐に入れた。
雨屋が飛び込んでくる位置に、折り畳みナイフを突き立てた。
読み違いは一点だけ。
眼球を撫でるナイフが、雨屋には何の障害とも認識されなかったこと。
ぶちゅりと。
熟れすぎた果実が潰れる感触を、じっくり味わわされる。
慣れたとばかり思っていた肉感に胃液が込み上げた。
眼球を犠牲に棗を組み敷いた雨屋は、自らの眼窩に刺さるナイフも構わず顔を近づけてくる。――生々しくも肉を裂く感触が、また。
棗は吐き気を耐えながら、声を絞り出した。
「……お前の上司、北の支部長だろ」
頸動脈を締め上げようとする細い指に、大した力も残っていない。
潰れた眼球から、よくわからない体液が垂れてきている。
「汚れ役だけ被せられて、こんなとこで
「ええ、此方にも利があった取引ですし。どの様なお仕事であれ、主体的に承った以上は私の責任で御座います」
「は? ころすぞ」
怒りが口をついていた。
多分、ずっと。黒河とのやり取りを観察している間も。
何もかも、腹立たしくて仕方なかった。
どれだけ喋らせても変わらない。
こいつがこいつのまま――僕のよく知る、赤の他人に尽くすお人好しのまま。全く同じ理屈で人を殺したという理解ばかりが深まっていく。
自分の隣にいた友人と、殺し屋は、全く同一だと。ふざけた現実を直視させられる。
「……友達ごっこも、僕の顔色うかがってやってたんだろ。死ぬ前に吐けよ」
嘘だと解った方が余程ましだった。
騙されていたと思いたかった。
悪人なら、悪人らしい顔をしろ。
「……正直、貴方と縁を持つ気は更々「あ?」そこお怒りになられます?」「当たり前だろこの僕だぞ。泣いて喜んで有難がってトントンだろうが」「自己肯定おばけ……」「横暴で結構。言ってろ」
小さくふきだす声がした。
血色の失せた顔色も、怪我も、何でもないみたいに。雨屋がふかふか笑っている。
「そういうところがすきですから。文句なんてありませんよ」
この情も、思い出も。迷いなく捨てさせてほしかった。
■
久し振りの北は、ひどく肌寒かった。
冷えた空気を吸い込んで背筋を伸ばし、和泉が改札を突っ切って駆け出す。和泉の背中に風見が続いて、冬部がかなり後ろから(無駄だとは身に染みている)注意を飛ばして息をつく。
依然として中央で事後処理が続く中、ようやく北支部に戻るシフトが巡ってきた。
嗅ぎ慣れた空気の匂いは、暫しの休息とすら思えていて。
「たいちょ、鳴ってる鳴ってる!」
首根っこを捕まえられた状態から、風見がそれを指ししめしていた。
冬部の端末に表示されたのは、本名を思い出せない職場の長。
北支部長の声がにこやかに流れる。
『やあ、急にすまないね。もう北に着いたかな?』
「ちょうど着いたところ……っおいこら風見テメェ!!」
『実はいま、君のところの副長が、反乱の意図で此処に乗り込もうとしているんだ』
「は?」
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