反旗・中

 薬と血の匂いがする。

 背負った身体には所々、硬質な感触が混ざっている。右腕を固められ、それ以外も添え木だらけの怪我人をそのまま背負うのも躊躇われたが、担架を扱う人手もない。

 とはいえ不思議と痛がる様子がない。普通に歩いて声掛けてきたくらいだ、大丈夫と信じるしかないと――背負った雨屋に問いかけた。

「その怪我、何やった」

「無茶な喧嘩をしてしまいました」

 左目潰す喧嘩って何だとも聞けず。

 冬部の肩を叩いた時と同じ、人畜無害な笑顔が脳裏を過ぎていく。


 行きつけの喫茶店のアルバイト店員。穏やかな昼行灯。

 平和な日常の象徴みたいな青年が、北支部の非常事態、味方と分断された危機的状況――非日常の舞台に立っていた。しかも、状況からみて敵とみた方が賢明。

『……封鎖してる場所、開けてくれねぇか。手荒な真似はしたくねえ』

 たとえ一般人でも、刃物をめちゃくちゃに振り回されれば脅威。どこに当たるかわからない拳銃も同様。

 敵(仮)が身構える様子はなかった。現状、手の内が見えないことが最も怖い。

 冬部なりに最大限の警戒をもって発した言葉は、

『畏まりました。確認してみますね』

 ニコニコ了承され、電話からさほど掛からず防火シャッターも開いた。

『許可を頂けた所に限りますから、行き止まりもあると思われますが』

『、……雨屋。お前、陽の側だよな?』

『はい。冬部さんの敵です』

 まったく分からんので背負いながら探索を続けている。

 敵とはいえ、怪我人を歩かせたくなかった。


 管理棟へ行けそうな道は封鎖されていた。

 敵と同伴で合流を目指していいものか迷うが、風見も和泉も見当たらない。なら元凶かと、駄目元で雨屋に居場所を聞いた。なんかうっかり答えそうな気がした。

 冬部の背中で身じろいだ雨屋が、すこし背筋を伸ばす。考える間が空いて、

「さっきの角の、ちょうど真上にいらっしゃいましたかと」

 道案内の『上』って何だ。天井ぶち抜けって話か。

 からかわれてるんだか引っ掻き回したいんだか判然としない。とりあえず、信用していいのか分からない相手に道を聞くのはやめた。

「……何に手え貸してんのか分かってんのか?」

「私達は、支部長様と『お話』がしたいだけですよ」

「普通にアポ取ればいいだろ。真っ当な話するんなら堂々としてろ、本題じゃねえとこでケチつくような真似すんな」

「真っ当でないものですから。いちおう宣戦布告はしてあると伺っております」

――陽に付き合わされてんのかと思ってたが、そうでもねえのか。

 部外者の物言いではない。ならこの事案に関与する縁が雨屋の何にあるのかと尋ね、

「私が裏街で承っておりました代行殺人業につきましても、多少お話に絡むもので」

 棗。裏街。殺し屋――死神、

「……つくならもっとマシな嘘つけ。縁起でもねえ」

「ほんとですよ~〜」

「お前わざとふざけてんだろ」

「構いませんよ。私のことは大して重要じゃありません」

「……話し合えねえのか」

「話し合いのつもりですよ。私達といたしましても」


「止めねえのか。陽のこと」


 止めてやりたかった。

 二日酔いと夏風邪にうなされながら、ずっと何かを考え込む棗を見ていた。

 踏み込むことをしなかったのは自分だ。後悔はあるが結果論でしかない。そもそも相手が相手だろう、聞いたところで正直に話すかも分からない天邪鬼あまのじゃく――猫かぶりと嘘に慣れ過ぎて、時おり本音と建て前すら取り違える。器用すぎて生きづらそうな奴。

 あの腐れ縁は昔から、冬部をこの手の悪巧みに巻き込むことをしない。

 隠れて要領よく立ち回っては、気まぐれに、トラブルの渦中かちゅうから冬部を引っぱり上げてくれたりする。善人ではないけれど悪人でもない。そういう面倒くさい幼馴染だ。

「お前はあいつが何するか分かってんだろ。諭してやるのが人情じゃねぇのか」

「無責任なことは申し上げられません。私は狭量なものですから、性善説で他人様を推し量る寛容に欠けておりまして」

「……何の話だ?」

 また、遠くでシャッターの作動音が聞こえた。

 少しずつ道が切り替わっている。それが棗の仕込みであるのか、誘導かは分からない。

「棗さんが、支部長様に不都合な証拠ごと消されるとも限らない以上、それを抑止する方針に賛成ないし協力しますよ」

 さらりと流しかけた言葉が、存外不穏なことに気づく。

「……――消され、」

「たとえばのお話ですよ。ありませんって。支部長様、北の皆様方を大変おもしろ……我が子のように見守りながら可愛がっていらっしゃいますから。ご存知でしょう?」


『北の支部長、多々良たたらうしおは先祖返りだ。彼に今も野心があるかは分からないけれど、気を付けてほしい』

 春先、晃一から耳に入れられた注意喚起がよみがえる。

 それを今も受け入れきれないのは――恐らく、冬部以外の隊員たちにとっても。見慣れた支部長の顔は『そういうもの』ではないから。


 他支部よりも遥かに若く着任しながら、北支部隊員の殉職率を大幅に下げた辣腕らつわん。豪胆な前評判からイメージしていた人物像は、いい意味で裏切られたのだと思う。

 旧知の間柄に接するような親しみを、誰にも等しく向けていた。

『また会えて嬉しいよ。冬部くん』


――初対面で向けられた『また』は言い間違えとばかり、


 頭に微かなもやがかかる。手足に力が入りづらい気がした。変な汗が止まらないのは「先祖返り」とかいう存在が、急に実体を確かにしたせいなのか。

 荷すら背負っていられなくなって、ゆっくり膝をつく。

 雨屋が降りたと確かめた途端、張っていた糸が切れた。


 脱力したまま顔面を廊下に強打しなかったのは、誰かに抱きとめられたからだ。

 思考にかかる霧はいっそう密度を増して、それが誰なのかすら分からなくする。

「屈折してるのに真っ直ぐで、よくわかりませんよね。……動機が意地でも、手段が荒療治でも……どうしてか正道に辿りつくひとですから。信じてください」

 おやすみなさい、と。

 すこし荒れた指先が、目の前を黒く覆い隠した。



 棗の足は、北支部の通路の一角に辿りついた。

 ソファや自販機が並び、職員達の休憩所の役割も兼ねる共用スペース。三人掛けの長椅子に冬部の身体を横たえて、雨屋が手を振る。

 幅のある長椅子にもかかわらず、膝から下肢がはみ出ている。

 ぐうすか寝こけている大男を確認してから、棗の視線は雨屋に移った。

「御安心ください。依存性のない合法薬物です」

 物言いたげな視線を読んで、雨屋の注釈が続く。

 ギプスで固められた右腕を探り、薬液入りの注射器を取り出してみせた。

「三本目の投与は中毒域になるかもという話でしたから。効いてくれて安心しました」

「……あの猛獣にクスリ? んな隙ないでしょ」

「私の怪我を気になさって、ずっとおぶってくださりましたから」

 棗がふたたび冬部を見た。ひどく呆れながら寝顔を覗き込む。

 そのままたわむれに鼻をつままれた冬部が「ふが」と不格好な声を漏らす。眉間に皺を寄せはしたものの、相変わらずしっかり眠り込んでいる。

「……敵のケガ気遣うとか馬鹿だねー…………」

「でも棗さん、こういう御方だから大好きなんですよね?」

「歯ァ食いしばれ菓子屋」

 雨屋を片手間に張り飛ばした棗が、端末から番号を呼び出す。


 北支部訓練棟管理室で、着信音が鳴った。

 通話口から聞こえた声が、名乗りもせず用件だけを押し付けてくる。

『薬物の成分』

「……主要なものだけでいいなら」

 ため息をついた氷崎が、操作中のディスプレイから目を逸らした。

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