黒幕

 北支部研究棟、白幡研究室前。女子高校生の制服姿はよく目立つ。

 紫乃の手には一枚のプリントが握られている。保護者宛の固い文面は、目指す進路の定まらない少数派のみに通達される紙切れだ。

 両親への提出がはばかられたそれを渡したい相手は、研究室に泊まり込みだと聞いていた。

 意を決してドアをノックする。

 中からは、舌足らずな幼女の声――

「どーもボク、ここの室長の白幡しらはたゆうです! 遊って呼んでね! ところできみどーしたの? まいご? なんかハルちゃんに似てるね! ねぇねぇだぁれ??」

――の主が飛び出し一から十まで自己紹介を済ませ、安上がりな笑顔を浮かべていた。

 ワンピース程度の長さがある白いスウェットの上衣と、薄汚れた白衣。伸び放題の白い癖毛。白単色特有の色彩の暴力と遊の人柄に圧倒されるまま、紫乃は完全に言葉を失う。

 紫乃の腹ほどしかない背丈の遊に腕を掴まれ、研究室へと引きずり込まれた。


 部屋に籠る薬品の香りは、紫乃にとって、姉の代名詞のようなものだった。

 一般人が鼻を抑えるきつさであっても。紛れもなく、安心できる場所のにおい。

「ねぇハルちゃん二号くん!」

「あっやめてくださいそれ真面目に地雷、」

 埃が舞い上がる強さでソファを叩かれる。着席を勧められていた。

 考える余裕も与えられず、叩かれていた場所に腰掛ける。

 満足げににまりと笑った幼児が周囲を大回りで走って、向かいのソファに身体ごと飛び込む。伸ばしっぱなしの白い癖毛は、背後からはさながら毛玉と似通った眺めだ。

 もぞもぞ怪しく蠢く塊は、急にぴたりと動かなくなり、


――ぐりん、と。大きな身振りで紫乃を振り向いた。


 早鐘を打ち鳴らす心臓を持て余し、ソファから転げそうになっている来客紫乃をよそに。この部屋の主は初対面の人間の観察にいそがしく表情を忘れている。

 ぼさぼさに伸びた白髪の隙間から、細かな泡を無数に含んだ水飴の青――白地に群青を重ねた瞳が、紫乃を捕らえて離さない。

 かと思えば、漫画表現じみた満面の笑み。

 無表情。

 何かを思い出そうとしているような顔。

 すこし目を離しただけで、全く別の場所に移動してすらいる。

「あの、すみません彩姉あやねえ……榛名はるな彩乃あやのさんって、どこにいますか」

「ハルちゃんならさっき、ぷりぷり怒っておやつ買いに出てっちゃったよ? どうせ最後には買いに行ってくれるんだしさ、いちいち小言なんていらないのにね? ハルちゃんたらもう、めんどくさい!」

 現位置、紫乃の右横数センチ。

 隣に寝転がったまま両肘を紫乃の太ももに立て、顎を支えている。白い頬が膨らんでつやつやしていた。

 中身の無い相槌しか出ない紫乃をどう思っているのか――しかし話の勢いが止まらないあたり、遊は気に留めていないようだ。

「あの、じゃあ」

 離れてほしい、という希望を込めて。

 皺のよったプリントを突き出され、遊はほんの少し飛び退いた。続いて、近すぎる紙面に焦点を合わせようと薄目になる。

 姉が戻ったら渡して下さい――と頼む言葉尻に被せて、遊の表情が笑顔に変わる。

「くれるの? ありがとう!」

「渡してほしいんす困ります」

「んん? ……あれ、これってお手紙? じゃあお返事欲しいよね?? ボク何か持ってたっけなぁ――……」

「いや、榛名さんが帰ってきた時に渡してくれれば」

「あっ、そーだっ!!」

 小さな握り拳を、小さな手のひらにぽんとスタンプして、

「あの、よく分かりませんけどいらな「これ、はい! お返しね!」

 白衣のポケットから出てきた紙袋を、両手で渡された。

「い――っぱい! データが欲しいんだ! ちょーどいいとこにきたから、きみにもあげるね! 飲んだ感想教えてくれたらうれしいな!」

 飲む、とは。

 そもそも食品なのか――紫乃は紙袋を眺めた。手のひらよりも少し大きいくらいの白い袋は、病院で処方薬を貰う時のそれに近い気がした。


「Salvation,……救済、とは。よく言ったものだな」

 色素の薄いブロンドの長髪がなびく。


 きりりとしたつり目と、印象のくっきりした顔立ちも相まった華やかさを、その身に纏う黒のスーツが硬質に締めている。

 突然の来客に戸惑いを隠さない紫乃へ、淡白な声音が問いかけた。

「……榛名紫乃、だったか」

「あ、えっと。……何でわたしの名前」

「私は羽住。榛名彩乃の友人だ。進路相談とやらの言伝ことづては、この命に代えても請負った」

「美人なおねーさん、そこまでしなくていいっすというか冗談ですよね?」

 でも、ありがとうございます、と。

 自身の目的は果たせたらしいと理解して、紫乃はそそくさソファを立つ。

「夜道は危ない。真っ直ぐ家に帰れ。いいな」

「はーい」


 控えめな扉の音がして、遠ざかるローファーの足音が消えていく。羽住の手には、――どさくさ紛れに紫乃から回収した「得体の知れない紙袋」。

 玩具のようなカプセル剤が、袋からざらざら零れ落ちる。原色の黄色が目に痛いほど鮮やかだ。

 黒の歌姫の研究で得られた各種データを基盤とし、その効果を歌唱に依らず、化学物質によって引き出す目的で創られた薬剤。それがこの「救済の歌姫」の正体だ。

 投与対象は、鬼化の初期もしくは手前の個体。

 表向き向精神薬と銘打たれ静かに広がったそれは――しかしながら、ほぼ百パーセント。時間経過による急性転化及び、暴走による自我喪失を引き起こした。

 今回の、中央の惨劇の原因。その元凶はけろりとしていて、

「救済? なあに? それ」

 薬の開発者は大きく首を傾げた。白い癖毛がふわふわ揺れる。

 真意を図ろうと無言の羽住に、舌足らずな声を継ぐ。

「ボクが作ったおクスリは、『pseudo diva』っていうんだよ」

 羽住の動作が停止した。


 初めから、ただの伝言ゲームだ。

 Pseudo――『シュード』、『S』.diva 


「――偽りの歌姫、」

 硬い声が零れる。

 遊がそれを肯定して、満面の笑みを浮かべた。


「そもそも、各個に特化して『やっと』鬼化に対抗しうるモノをさ? 画一化なんてしたら、なぁ――――んにも意味ないじゃんね? そういうの、気付かないのかな??」

 壁を殴る荒々しい音。

 部屋の空気が冷え、揺れる。拳に込められた剣幕に怯えているかのようだった。

 羽住の声は憤りに震え、剥き出しの感情がぎらついていた。

「初めから、失敗は織り込み済みか。……何故そんなものを民衆にばら撒いた!!」

 怯えているのは周囲だけ。当人の表情はますます輝いて、子どもらしい幼気いたいけな笑顔は溢れんばかりだ。


「だってー、『失敗の』データ、いっぱいほしいでしょ?」


 からから、と。――くすくすと。

 無邪気なこどもの澄んだ笑い声がこだまして、伸び放題の白髪が好き勝手に跳ねる。

 ソファから飛び降りた遊が小走りで駆けて、長い白衣の裾がはためいた。ひどく軽やかに、羽住の視界からいなくなる。

「……『偽りの歌姫』を創らせたのは、中央のオーダーだな」

「そうだよ? それが、どうかした?」

 黒の歌姫の持つ、初期鬼化治癒効果を欲するあまりに踏み切られた創薬研究。

 そこに中央の惨劇を願う意図は無かった。今回の事件で打撃を受けたのは言うまでもなく中央本部で――彼らは心から、ほんとうに。この薬が歌姫の代替となると期待したに違いなかった。

 もしかすると、そんな未来も有り得たかもしれない。

 結果を求めるあまり、協力を求めてはいけない人間を頼りさえしなければ。

「交換条件は『左腕』か」

「ズルいよねーアレもともとボクのなのに!」

 がたがたと、デスクを漁る音がうるさい。金属の抽斗ひきだしが大仰に閉まる。書類のファイルを抱え、中身の少ない菓子鉢片手に戻ってきた遊が、ソファに寝そべり紙面をめくる。

「借りたものは返しましょうって、コドモでも分かるでしょ? それを勝手に持ってってさぁ、『返してやろう』なんて呆れちゃうけど……ボクは皆よりたくさんオトナだから許してあげるの。あーあ、はやくとどかないかな!」

 上機嫌ついでに、菓子鉢からチョコレートの袋を取り出す。

 赤、青、黄、ピンク。クレヨンの欠片を詰め込んだような色鮮やかな菓子は、瞬きの間に遊の口へ放り込まれてしまう。

「……貴様の手に『左腕』が届くことはない」

「えー? なんかいった?」

 遊がソファに寝転んだまま、ほぼ筋肉のついていない脚をばたつかせた。

 資料から目を離さず菓子鉢へ手を伸ばし――空を切る。

「正確を期して付け加えれば、『左腕』の所有者は人喰ひとくいだ。ゆめ忘れるな。耄碌もうろくじじい

 菓子鉢を持ち上げ、遊を覗き込みながら告げる羽住の声は、対極の冷気をはらんでいた。


 ■


 一面の血の海に立っていた。

 意味もなく後ずさった足が、見知らぬ誰かの臓腑を踏む。生臭い脂の匂いと排泄物が混ざった悪臭に耐えきれなくなり和泉は吐いた。

 背をさすってくれる、暖かい手があった。

 口の周りを拭ってくれたそのひとが、別の清潔なハンカチで鼻を押さえてくれる。やわらかい柔軟剤の匂いがした。

 嫌なにおいが遠ざかって安心した和泉を背負って、彼女は凄惨な景色の中を歩き始めた。

 大好きな体温。ぎゅっとしがみつく――

「起きたか、少年」

 聞こえた声が、和泉の意識を現実に戻した。

 背負われたまま見回した景色は驚くほど暗い。最低限の照明に絞られた歓楽街はひどく不気味だが、視界の不明瞭に安心もする。

「血に不慣れなことを責めはしない。だが、そのような隊員は前線に出るべきではない。此処は戦場なのだから」

 暁が歩く度、雨上がりのような足音が響く。

 アスファルトが吸いこみきれなくなった、いきものの体液だと解ってしまう――水っぽくやわらかい障害物を足で避ける音を、いやに生々しく聞き取った。

「……すみません。自分の限界がわかっていませんでした」

「うむ、素直な反省は良いことだ」

 そこかしこで遺体の腐敗が始まっているのだろう。慣れたとばかり思っていた鼻が、また痛む。

――あの時のにおいと、そっくりだ。

 フラッシュバックに納得しながら、暁に「自分で歩きます」と申告した。「気にするな。休んでいろ」「体調不良で倒れたわけじゃないんです。大丈夫ですから」「持つものの義務というやつだ。おれのためにしていることさ」

 和泉よりも戦いとおしているはずなのに、暁の足取りに無理は感じられない。和泉は情けなくて閉口した。


 すべて忘れて。今さら思い出して。

 あの子を二度と泣かせないと決めていたのに、

「少年。鬼を殺せないのなら、北の気風は合わないだろう。……中央に来てはどうだ。今が異常なだけで、野蛮な討伐作戦を組まれる隙などほとんど無い、清浄な街だ」

「……ありがとうございます。……でも。それは、きっと大丈夫になります」

――鬼を刺す感触をおもいだした。

 自分はとうに一線を越えていた。だから、とは。言わないけれど――蠅のたかる死体が、以前ほど怖くない。

 思い出したくなくて、無意識に、必要以上に血を忌避していたのかもしれない。

 記憶を戻した今は、恐れずに向かえるはずだ。それに。

「中央に見放された俺を助けてくれたのは、あの人たちだけでした。だから俺は、北にいます」

 暁が内情を把握しているかわからず、そういう言い方をした。


 しばらく返事は無かった。

 控えめに尋ねられた問いの真意を、捉えきれてはいなかったけれど。

「北には、正義があるか」

「会ったばかりの子どもを、命がけで助けてくれる人がいます。……道を踏み外した俺を、叱りながらも迎えてくれた。優しさを貫ける強さを持った、格好いい人達ばかりです」

「……中央への復讐など、企んではいないのか」

「わだかまりがある俺の言葉で、信じてもらえるか分かりませんが……中央を心から憎んでる人なんて、北にはいないと思います。確かに仲はよくないですけど……」

「…………そうだな、仲は良くない。由々しきことだ」

 次第に、周囲が明るくひらけてきた。


 突貫で設営された拠点には、白と緑の隊服姿が入りみだれていた。

 中央は「北の手など借りん」、北は北で「頼まれたから来てんのにふざけてんのか」と。最初こそ一触即発の雰囲気だった両者は、次々と襲い来る不測の事態にいがみ合いも放りだしたらしい。

 中央と北の面子が顔つき合わせて議論を重ねる景色を眺め、暁はぽつりと呟いた。

「素直に、対話が出来たらよかったな」

 救護班のもとに和泉を届け、颯爽と戻ろうとしたところを看護師に羽交い絞めにされていた。



 隔離区画での救助を続ける隊員達の動きは、地区の再閉鎖を見据えた最終捜索に移行しつつある。

 想定以上の鬼の量に、一終日を予定されていた計画は延長と再編を余儀なくされた。しかしながら増援により事態収拾が為されている現状と、隔離地区外でも無秩序鬼化変性への対処が円滑に回り始めたことにより、最初期の恐慌状態は既に無い。

 とはいえ北の為すべきことは変わらない。

 粛々と、言葉の通じない化物を殲滅するだけ。

「たいちょ、あっちの方がいっぱい居る! 早く!」

「あんま離れんな!!」

 風見に引きずられ駆けずり回された冬部が、珍しく呼吸を乱している。連携部隊の副長を振り返れば「いいよ~〜気にせんで」と手を振られた。

 北の保安上のシフト都合が噛み合わず、この隊には近接の攻撃手が不在らしい。そのあたりの事情もあり、元から少人数かつ欠員の出た冬部隊と合流していたのだけれど。

 周囲に頭を下げた冬部は、化生の悲鳴が響いた方角を睨む。

 道端に膨大な数の鬼の遺骸がひとかたまりに折り重なり、体液と脂がてらてら光る。粘っこい刺激臭の濃い方へと。ひとを射殺す強面をますます凶悪にしながら先を急いだ。


 視界の端で銀がひらめく。

 間髪入れず襲いくる「敵」の瞳は爛々と、興奮を顕わに瞳孔を開けている――殺気に似合わず呑気な声が漏れた。


「……あ、コレたいちょか。ミスった」

「……敵味方も見分けつかねえようなら下げる」

「見逃して。楽しくなってきたとこじゃん」

 返り血を浴びて口角を上げる風見の背後に、うずたかい死肉の山が見える。

 小さな物音を耳ざとく拾った風見を追いかけ、半端に息の残る鬼の首を落としつつ。あっという間に鬼を蹴散らし突破していく背中に「もう直ぐ撤収だぞ」と声は掛けるが返事が無い。

 氷崎か棗がいればと考えはするが無いものねだりだ。

 最悪殴って止める腹を決め、より敵の多い方へ誘われていくスリルジャンキーの援護に回った。野良喧嘩に近い動きが、的確に、冷酷に鬼を仕留める動きへ洗練されつつあることにぞっとする。

 発砲音まで聞こえて冬部は目を見張った。

――銃持たせたの誰だ、俺か!!

 入隊試験時から満遍ない適性を見せた器用に甘えてきたこともあり、備えて悪いこともないと許可してしまっていた。安直な決断を今さら後悔している。

 刀なら止めようがあるが、万が一にも要救助者を誤射しようものなら。

 頭が冷えた瞬間、耳すれすれを弾丸が掠った。

「たいちょってば危ねーじゃん。後ろ来てたぜ」

「……風見、銃は仕舞え。命令だ」

「だいじょーぶ。今日マジで当たる日なんだってオレ」

「ギャンブル感覚で武器扱ってんなら本気で叱るぞテメエ」

「ちょ待って、今ここで説教することある!?」

 ぞわ、と。闇の中から鬼が這い出る。

 中央歓楽街にどれほどの人口が密集していたのか、想像したくない。

「……区切りついたら戻るぞ。いいな」

「えー、……ハイ」

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