鬼の末路

「おに」

 喫茶店。他席から聞こえた単語に、女子高校生がびくりと肩を跳ねさせた。


 問題集を解く手が止まり、恐る恐る周囲を見回す。

 談笑するテーブル席の方角を見やるも、彼女が恐れた話題かどうかも判別できない。特定の二文字に過剰反応して誤認したか、本当に鬼の話題だったのか。はたまた空耳。

――わたしに言われた台詞じゃないことくらい分かってるだろ。

 自意識過剰だと宥めながら、まったく勉強に集中できなくなった自身に思わずため息が漏れる。手持ち無沙汰に飲んだ珈琲牛乳の苦さに目を白黒させてしまった。

 珈琲を凍らせた氷がすっかり溶けていたらしい。牛乳の影こそ薄れたものの、カフェオレへの転身あざやかなグラスをかき混ぜながら落ち着こうと努めた。

「しーのーさん」

 紫乃が顔を上げると、エプロン姿の雨屋が笑っていた。

 何事かと見守っていれば、にこにこしながら両手を見せてくる。細い。違う――種も仕掛けもないことを確かめさせる、芝居がかった所作。

 間延びした掛け声を合図に、手のなかから、目がさめる山吹色の花が咲く。

「えっなに、手品!?」

「ふふ、勤め先のご子息様から教えていただきました。よろしければどうぞ」

 鮮やかに赤みを帯びた、黄色の花弁が八重咲にかさなる小柄な花だ。アレンジやブーケで余ったものなのかもしれない。

 雨屋のバイト先のひとつに花屋があったことを思い出しながら、紫乃は思わず頬が緩む。

「ヒメヒマワリかな。かわいい」

「向日葵なのですか? あさひさん……と、仰るお花だそうですが」

「うん、旭ってお名前のヒメヒマワリだったと思う」

 ついでに言えば、向日葵じゃなくてキクの仲間だったはず。

 植物図鑑やポケット図鑑を眺めた記憶が案外すらすら口から出てきてびっくりした。好きこそものの、とはよく言ったものだ。

――花や草木の彩りも、それを描くのも好きだった。

 あの没頭が原点だ。だから今も絵を描いている。どんな表題や画材でも、植物の可愛がりようの主張が強いとか誤魔化せてないとか言われるけど。

「おばけタンポポかと思っておりましたが、紫乃さんのお陰で学びを得ました。ありがとうございます」

「雨屋せんぱい、お花屋さんでバイトしてんだよね……?」

 とはいえ憂鬱は軽くなったから、この大人はひとを笑顔にするのがうまいなぁと思う。

 世間話を咎めたそうに眺める喫茶店主が見えて、仕事に戻ったほうがいいよと背中を押しておいた。

「店長さん、そんな怒んないでくださいって……雨屋せんぱい変なことしてない、」

「……悪い、仕込みが押してたんだ。……余裕が無かったのは謝罪する」

「……なんか顔白くないすか? 貧血?」

「……大丈夫だ。ありがとう」

 この店そんなに忙しかったけなと失礼なことを考えて、退店してから思い当たる。

 

 薄暗い裏道に面した店表まで、手毬のかたちの紙提灯が連なって揺れている。

 夏祭りの本開催を明後日に控えた夕暮は、微かに浮足立っている。風に乗って囃子練習の太鼓が聞こえ、法被姿で歩く人出が多く目につく。駅前通りからアクセスのいい喫茶店の立地なら、祭りの夜歩きで疲れた人の休憩所にもなるんだろう。


 端末で姉にメッセージを送る片手間、すれ違った女性が膝から崩れ落ちて二度見した。


 しゃがんだまま息を乱している様子だったから、意識はあることに安心する。

 触れた皮膚に違和感を感じて、よく見ようとした瞬間カーディガンで隠された。

「……ごめんなさい。触らないで」

 骨の歪曲と皮膚の硬化。ごつごつと岩のような質感で青緑色にくすんだ手のひらは、特殊メイクを施されたのかと錯覚しそうになる。

 身体の異形化、色素産生による体色変化――右手を侵食する典型的な鬼化変異は、疎い目からも判別できた。

 怯える女性が紫乃を見上げる。焦燥と諦念が混ざる瞳から、今にも涙がこぼれそうで。

「え、と……あの……お手伝いできること、ないですか?」

 過去の自分と同じ彼女を、見捨てることが出来なかった。

 手を差し伸べてくれた『誰か』に救われる奇跡を、誰よりも、知っていたから。



 女性の名前は聞かなかった。便宜的に「ハナコさん」と呼んだらぽかんとされたけれど、くすくす笑って許してくれた。ほっとした。

 異形化がわかりやすい右手を、高校の指定ジャージで隠させてもらって歩き始める。汗臭い服を着せる失礼と、彼女の安全をはかりにかけた結果だ。

 法被姿の酔っ払いとすれ違いながら、祭りに湧く賑わいを恨む。

 すみませんと横を見やると、ハナコさんは穏やかな顔で街並みを眺めていた。

「北って、賑やかでまぶしいですね。知らなかった」

「や、お祭り期間なんで盛ってますよ。ド田舎ですし。雪降ると全部埋まります」

「いいな。あまり雪を見たことないんです。少ない雪をかき集めて作った雪だるまなんか、茶色くてなんにも綺麗じゃなかった」

 彼女から依頼されたのは、北の裏街――狭間通りへの道案内だった。けれど紫乃は、裏街が「ある」ことこそ知ってはいても現地入りしたことなどない。

 たいていは色町に隣接しているという彼女の推測ありきで、治安が不安なネオン街を目指しているが。

「……逃げてきたんです。中央にいたら、殺されるから」

 鬼の巣窟、裏街が残っている地方ならどこでもよかった。

 偶然、乗った交通機関が北に向かったのだと。亡命目的を明かしながら苦笑する彼女に、紫乃は絶句してしまった。

「中央の仕組み、聞いたことありますか? 職場で急に呼び出されて、カウンセリングに行きなさいと言われるんです。……何月何日から、呪力値が鬼化警戒値に達してる疑いがあるって、異類対策本部から通知を貰うの」

「……思ったよりキツめの監視社会っすね、……その。お仕事も?」

「ああ、全然。辞めさせられたりとかは無いですよ。同僚の子も、学生のころお世話になったみたいですし。何回か精神科に通えばすぐ終わるって……終わってないからここに居るんですけど、」

 予後が芳しくなく、入院加療も強制にならないうちは断り続けた。一度施設に入ってしまうと、規定呪力値に達した時点で鬼籍に入れられ安楽死を突きつけられる。

 紫乃には別世界の話だった。いち早いケアを手厚く保証してくれるとはいえ、呪力値に改善が見られなければ人道的な処刑が待っている――鬼を排除するという目的を同じにしながら、北支部よりずっと「鬼の芽生え」を取りこぼさない仕組み。

 地区ごと委ねられた運営方針の差に口をつぐむ。武装して暴走鬼化個体を切り伏せる北と、効率よく閾値を定めてケアを続け、それでも「戻れそうにない」人間を間引く中央。

 双方とも、重い命を奪うことには変わらないけれど。

「北は裏街があるから、鬼にも優しくしてくださる方がいらっしゃるんですかね」

「……ハナコさんには悪いんですが……鬼はほんと、ご近所さんまで一瞬でウワサ回るし問答無用でぶっ殺されます」

 もし中央にいたら死んでたなと、ぞっとする。


 飲み屋が立ち並ぶ一帯だからだろう。まだ陽は落ち切っていないのに、祭りを控えて酔っ払った団体客とすれ違う。

 ロゴが掠れたビールケースに雑多な酒瓶が突っ込まれている。安っぽく煤けた色硝子に、ともりはじめた街灯の光が届いていた。

「……でも。あなたは、親身になってくださるんですね?」

「ちょっとだけ、かっこつけたい事情があるだけなんで……こっちでいいんです?」

「はい。さっき、鬼らしき子が走っていった方についていってます」

「え。いました? どこに」

「鬼化してから、なんだか周りがよく見えるんです。耳も……かな」

 バーやスナックが並ぶ通りを、客引きと視線を合わせないよう駆け足で通り抜ける。

 煌びやかな嘘を纏う、夜の世界を垣間見ながら。景色は次第とシャッター通りに変わっていった。

「……道案内してくださって、ありがとうございました。こんな場所まで連れてきてしまってごめんなさい」 

 通行人が絶えた廃墟地帯で、ハナコさんはジャージを脱ぎ、紫乃へ深く頭を下げた。

 彼女はもう、紫乃の前で変異患部を隠そうとしなかった。

 右手を覆う青緑色が肘まで侵食をすすめていて、紫乃は思わず「痛くないですか」と尋ねた。

「わたし、その。詳しくないんですけど、……鬼化が進むの、はやくないですか」

「……身体は熱いし、息苦しいけど……大丈夫。『救済の歌姫』も残ってますし」

「……歌姫?」

「新薬ですよ。中央でとくべつに開発された、初期の鬼化への特効薬ですって。……怪獣みたいになっちゃった身体は、どうにもならないみたいですけど」

 苦笑する合間にも皮膚が粟立ち――真っ赤に炎症をきたしたと思えば、ひび割れ、黒ずみ。ごつごつと隆起しながら周囲と同じ青緑色に落ち着いていく。

 明らかに異常な速度で進行する異形化に、紫乃は何も言えなかった。

 まだ人間のかたちをした左手を器用に使って、薬剤シートからカプセル剤を押し出すハナコさんを、固唾をのんで見守ることしか。

「だいじょうぶ、……だいじょうぶです。まだ、――」

 おぞましく変形していく手から、黄色いカプセル剤が転がり落ちる様を、見ていた。


 日が沈み、夜の帳が下りゆく空に、引き攣れた絶叫がのびてゆく。

 掠れた音はもう、ひとの声をしていない。

 喉が、唇が――いや。それが彼女であることを示すものは、異形の身体に引きちぎられる、衣服だった端切れしかなかった。

 頭部が傾いで、ぎょろりとした眼が紫乃を捉える。

 膨張を続ける腕が緩慢にふるえ、照準を合わせた。へたり込んで立てない紫乃に、ゆっくりと、異形の指先が迫る。

「ひとさま怪我さすんじゃねェよ……ったく新入りはよォ。狭間通りの掟も知りゃせんで」

 きつく目を閉じた彼女の背後から――焼けつく熱が、すべて薙ぎ払っていった。



 異形のみを局地的に包んだ炎が煌々とゆらぎ、辺りをひどく明るく照らしていた。

 惨状を作り上げた着流し姿の闖入者は、紫乃の隣で「こんなもんかねェ」とつぶやき平然としている。燃え上がる炎よりも赤く染まった、髪と瞳と、角。

 絶句する紫乃へ手を差し伸べた鬼は、申し訳程度に口角を上げてみせる。

「病院は行けるか? ワケアリなら、うちの医者センセんとこ連れてってやるけど」

「……ハナコさん、は。どう」

「アレか? 心配いらねェよ、もう死んでる」

「、――……」

「……いや、嬢ちゃん。鬼化ってのは死ぬ病気だろ? それも不治の。義務教育で教わんねェか?」

 そう、燃え盛る炎を顎で示す。

「鬼ってのは末期まで進みゃあ全員『ああ』だ。個人差あっても、十年も生きりゃあ大往生ってとこだろ」

 炎に巻かれた肉塊は、もう動いていない。

 脂の焦げるにおいがする。


――あれは自分の姿だと思った。

 考えないようにしていた。不可逆変化というのは一般論だと。

 過去に何があっても。今、呪力値が落ち着いているなら大丈夫だと言い聞かせてきた。けれど真実「治らない」なら。異常なのは自分の方だ。

 いちど鬼化したこの身には、きっと呪いが眠っている。

――それが目覚めてしまった時、自分も同じ末路を辿るのだ。

 吐き気にうずくまった紫乃に、缶ジュースが差し出される。

「君はもう、鬼化はしないよ。榛名紫乃さん」

 心を読んだ大人は、数人の人影を連れていた。

 得体の知れない大人の指揮で、消火活動と事態収拾が行われていく――「……だれすか?」「北支部の、上のほうにいる人」「……えらいひと、」「ちょっと物知りなだけのおじさんだよ」笑顔の胡散臭さは圧倒的に此方へ軍配が上がる。赤鬼の愛想なんか「一応やっとくか」みたいな怠惰が透けて、良くも悪くも分かりやすかった。

「誰か、彼女を明るいところまで送ってあげてもらえるかな」

「おー……エリー、お前さん護衛やんなァ。いちばん道わかるだろ」

「……何でだよ。あんたのが古参だろ」

「そこは新入りだろォ? 表の地理わからねえのに連れてけるかよ」


 鎮火が終わった廃墟地帯は、すっかり夜に沈んでいる。

 作業を続けるひとたち(鬼たち?)の邪魔にならない程度に、彼女の遺体があった場所まで近づいた。

 夜目のきかない紫乃には、周囲の闇に増して色濃く残る焦げ跡が、彼女の痕跡のすべてだ。

――『くるしい』と、言っていた気がした。

 貰ったお花を使わせてくださいと許可を求める。紫乃の知っている雨屋は、笑って許してくれると思った。

 鞄に仕舞っていたヒメヒマワリを地面に置いて、しばらくの間、手を合わせていた。


「……あの鬼、あんたの友達だった?」

 裏街を出るところまで紫乃を護衛した鬼は、別れ際にぽつりと尋ねた。

「いや、……やっぱいい。なんでも」

「きょう、会ったばっかりのひとです。けど」

「、……その程度のうっすい相手に肩入れすんなよな……いつか起こることが、たまたまあんたの目の前で起きただけだよ。災難だったな」

「でも。だって」

 誰も悪くなかったと――言っても仕方のないこととばかり思い知らされて。

 勝手に溢れてしまった涙を、人間となんら変わらない指先が拭っていく。

「……弔ってくれて、ありがと。もう来るなよ」

 街灯あかるい大通りに紫乃を押し出して、その鬼は、路地の闇に紛れていった。


 ■


「……やっぱり、この薬か」

 裏街でカプセル剤を拾い上げた多々良の足元に、一匹の成猫がすり寄った。

 毛がつくのも構わず身体をこすりつけ、小さく「みあ」と三度鳴く。撫でようと手を伸ばすと、やわらかい獣はするんと逃げた。

 首輪についた鈴が、りん、りんと鳴って、止まる。

「……へえ、そう。ご苦労様」

 三毛猫を抱き上げた男が、多々良を見据えて薄く笑った。

 多々良は微かに目を見張ったものの、落ち着いて薬剤を袋へ仕舞い、男へ柔和に微笑んでみせる。

「君が猫好きとは知らなかったな。棗くん」

「別に。寄ってくるなら撫でてやってもいい程度だけど……愛玩動物と同列扱いは感心しないね。痛い目見ても知らないよ」

 この借り猫は、情報屋から借りた有能な助手だ。

「帰っていいよ」と囁くとすぐ、棗の腕を蹴飛ばして地面に下り立つ。短い返事を残して、鈴の音はすみやかに遠ざかっていった。

「あの猫には、死神の血の匂いを覚えてもらった。匂いがしたら報せてくれる」

 長く一度鳴けば死神本人。

 短く三度鳴いた時は、死神の匂いがついているという合図。

「おや、それはすごいね。死神は見つかったかい?」

 殺し屋との繋がりが暴かれてなお、北支部長――多々良は、泰然として問いかけた。


 多々良の余裕は鼻で笑って。棗は譲らず尋問を続ける。

「中央から睨まれてるあんたが北の支部長って、疑問ではあったんだよね。厄介払いと監視込みのセンも考えてはいて……だから、あんたが鬼を保護してても『大人しくさせておくための取引』としか思ってなかった。……ただ、改めて調べてみたらさ。

 あんたの支部長就任に邪魔になりそうな面子が軒並み、あんたに都合よく失脚ないし消えてるよね?」

 都合のいい「幸運」に後押しされて得た椅子。

 一切の証拠を残さず、その偶然を作り上げてみせる技術者を、棗はよく知っている。

「消したろ? 死神にやらせて、さ」

 外から殺し屋を引き入れたのか。汚れ役を任せた人間が狂っていったか。

 その成因は本人に聞くとしても――死神と呼ばれる殺し屋の成立過程に深く関与するのが多々良だという事実は、もはや揺るがない。

「当の殺し屋はやることやってるみたいだけど、市民を守る立場としてどう思ってるのか聞かせてほしいな。飼い犬の躾も満足に出来ないの?」

 多々良が狼狽える様子はない。

 飼い犬、と。そう嘲笑った所だけ、微かに眉が動いたかもしれないが。

「無為に払った犠牲ではないつもりだ。覚悟もしている」

「覚悟決めてりゃ何してもいいのかよ。んな訳ねぇだろボケ」

「ふふ、手厳しいな」

「……あんたが説明責任を果たす事柄は山ほどあるからな。忙しい僕を煩わせないよう準備しておけよ」

――猫を帰しに行くだけの道で、思わぬ拾い物をした。

 けれど本命は別にある。順序を違えるつもりは無い。

「悪いけど後で聞くよ。あいにく先約があるから」

「――……まさか、」

 多々良の余裕が薄れた気配に口角が上がる。

 勝手に漏れ出た笑い声は、きっと、ひどく悪役じみていた。

「心配しなくとも、直ぐあんたの順番にしてやるよ」

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