長い夜の夢

 北で最大規模を誇る夏祭りは、遠方からも多くの観光客が詰めかける。

 夜店が並び、山車がひしめき。囃子と燈火ともしびで宵の静かがなりを潜める――ひとびとの多くが、華やかな夏の夜長を大いに楽しむ。


 普段より客入りに恵まれた喫茶店も、夏祭り特需への対策を整えてある。

 賑やいだ店でひとり。カウンター席で、深い藍の浴衣姿の紫乃だけが浮かない顔だ。

「北支部って今日クソ忙しいんでしょ……?」

「だろうな」

 淡白な返答の店主とすれ違いに、製菓担当のバイトが忙しく現れる。左腕に載っているのは銀色の丸盆――トレンチが二枚。雨屋の足取りは視覚的なスリルのわりに軽やかで、注文の料理はどれも危なげなく客のもとへ運ばれてゆく。

 団体客と談笑するもやし男を後目に、紫乃の視線は眼前の黒服、雪平へと。

「店長さんはお祭り行かないの? ピンクさんとか、いっぱいお誘いあるんじゃないんすか。よっ色男」

「店で手一杯だ」

「うわ、お誘いあることは否定しないなコノヤロウ腹立つ」

 雪平が紫乃へ視線を返す。低い声が呟いたのは、まさに紫乃が浴衣を見せたい想い人の名前で――淡い恋心をつつかれ、紫乃はもぞもぞとカウンターに突っ伏した。

 慣れない浴衣で顔が隠しづらい。

 紅潮しきった耳ばかりは、誤魔化しようがなかった。

「休憩合間に来てくれるって、もうしわけなすぎる……」

 高校で特定のグループにこそ属さない和泉だけれど、移動や選択授業で一緒にいるのは、紫乃とは正反対の陽属性ばかり――教室で話しかけることも出来なかったから。駄目元でメッセージを送って取り付けた約束が今日だった。

 声も小さなカースト底辺の自分より、他のキラキラしい友人からの誘いがあるのではと気付いたのも、ずいぶん後の話で。

――和泉から快諾を貰えた時は、ただ純粋に、嬉しかったのだけれど。

「行くというからには、お前と一緒に回りたいんだろ。そう言われなかったか」

「……う、はい、……すんませんでした店長。これ以上は恥ずかしくて死にそうだからやめてくださいお願いします」

「おやおや紫乃さん、随分と可愛らしいお顔をされていらっしゃいますねぇ……耳まで真っ赤ですよ。ふふ」

「雨屋せんぱいはなんで追い打ちかけるの!!」

 紫乃は撃沈され、雪平は平然としたまま。雨屋は面白がりながら厨房へ姿を消す。

 まだ祭は序盤。これから次第に客が増えていくはずだ。紫乃も着付けを崩さないよう、早めに来てしまった時間を喫茶店で潰しているわけなのだが。

「……店長さん結局本命だれなんすか? あれすか女ばっか寄ってくるけど男専門だーとかいうオチっすか? ありがとうございます。つかピンクの美人さんのお名前は? わたしまだ聞いてないですー」

「俺の趣味はそっちじゃあない、とだけ言う」

 反撃の糸口をそのあたりに見出した紫乃が、執拗に喧嘩を売りはじめた。

 当の本人は相手にしない返答だが――店内には、独身貴族の店主の返答に耳をそばだてる、妙な静けさが満ちてゆき。

「店長の食指は女性へ向いておられますかと。そうですね……純朴な、俗に言うところの処女性に近い」

 空いた席の清掃を終えた雨屋が、無自覚に爆弾を落とした。


 雪平がカップを取り落とす。

 注目は、陶器の破壊音のためばかりではない。ひとり呑気な顔をした雨屋が、綺麗な音を立てる破片をちりとりで集めて「珍しいこともあるものですね」と笑う。

 店主の怪我を案じる雨屋のエプロンを、紫乃が思いきり引いた――薄い身体が大きく傾き、食い気味の紫乃が噛み付く。

「雨屋せんぱい本命知ってんの!?」

「正直に申し上げますと、趣味如何は当てずっぽうなのですけれど……目を逸らしていらっしゃるのが気になりますねとだけ」

「あっほんとだ死ぬほど目ぇ泳いでる」

「やめろ!!」

 声を荒らげた雪平は、自身の声で我に返ったらしかった。

 店で演じたことの無い失態に咳払いをして、誤魔化しようもないそれを(自身の中では)片付ける。

「桃色の髪の美しい方は、フリーライターをしておられる佐倉さくらゆめのさんかと。当店の常連様です。店長とも旧知の仲でいらっしゃるようで」

「雨屋」

 雪平が、雨屋の首を背後から鷲掴む。

 言葉の通じない野良猫をつまみ出す手つきだった。

「黙れ。早くそれを、捨てに行け」

「仰せのままに」


 ■


 祭りの人混みは熱気に包まれ、間をぬって移動するだけで骨が折れた。

 笛と太鼓、鉦の金属音が規則正しく鳴り響く。山車の運航路沿いは囃子の音色で盛大に満たされ、声を張らないと会話も困難なほど。

「よーし、お疲れー!! 休憩行ってくる!!」

 怒鳴りつける声量で挨拶を終え、交代の隊員と無闇に大きいハイタッチを交わした。

 頭に巻いていたタオルをずらし、風見は大粒の汗を拭う。隊服の通気性も悪くはないが、この熱量ではあまり意味をなさない。

 同じタイミングで休憩に入るはずの和泉を探し――人混みの向こうに、見慣れた黒髪の後頭部を見た。


「イズ「博己ひろき!!」

 雪崩込んできた三人の女に、意識が無理やり引きはがされる。


 風見の都合を気にする様子もない。

 三者三様、各々に言葉を積み上げる彼女らに口を閉じられなくなってから――いつもに増して声を張りあげた。

「アネキ!? なんでこんなとこ来てんだよ!!」

「は? 家族に何その口のきき方。せっかくあたし達が会いに来てやって……てかあんた汗臭っ! キモっ!! 鼻曲がるんだけど!!」

「ねぇヒロ、お姉ちゃんに奢ってよ~〜! りんご飴たべたぁい!」

「……あ、彼氏おるっぽい。あとで合流していい?」

「行ってらっしゃい」

 三女が早々に場を去った。

 長女と次女に挟まれ、風見は後ろ髪引かれながら押し黙る――小柄な和泉はすっかり人波にのまれてしまった。落ち合うにしても連絡を取った方が早い。

「お父さんが、家族そろったら良いお寿司取るって。仕事上がったら泊りに来ない?」

「アネキ達が寿司食いてーだけじゃん……」

「ヒロってば、就職してから全然帰ってこないんだもん。たまには話し相手になってよぉ」

 スキンシップの多い次女が、いつもの調子で首元に抱き着いてくる。

 のんびり甘えた声を、風見だけ聞こえる音量に落として囁く。

「みいちゃんね、ヒロはご飯食べてるかなぁって、しょっちゅうお母さんと心配してるの。お寿司もみいちゃんが取ったんだよ。……だめ? お仕事いそがしい?」

「……や、嬉しーんだけどさあ……オレ好きな子と祭りに」

「えっほんと!? お姉ちゃんそれ聞きたぁい! もしかして近くにいるかな?」

「待って姉ちゃん、ちょっと」

 今にも飛び出しそうな次女を抱えて溜息をついた。

――姉がいるのにデートなんかできっこないし。「やるなら頑張りな」と進路に口出ししなかった家族が、思ったより自分を心配していたのもわかってしまった。

「……話してもいいけど、ぜってー会おうとしないで」

「なんで? ヒロいい子だよぉっていっぱいオススメする!」

「悪気ねーのは解るけど! オレそれで何回も失恋してんの!!」

「博己。結局来るの、来ないの? お母さん達に連絡したいから早く」

「……ゴロちゃんとハルカは? アネキいなくて大丈夫かよ」

「あのねえ……ひとんち心配する余裕があるなら顔見せに来い。あんた、いつ死ぬか解んない職についてるって本気で解ってる?」

「だーいじょうぶだって。怪我はしょっちゅうだけど、殉職なんか年一あるか」

「『あり得る』のが問題でしょうが……! っとにあんた昔っから危なっかしかったのに余計危ないとこ行って、死んだらタダじゃおかないからね!!」

「ごめんて!! 帰る!! 帰ります!!」



「しつこくするならお巡りさん呼びますよ」

 紫乃に執拗な声かけを続けていた酔っ払いは、ひかえめに警告した和泉に噛みつきかけ――北支部の隊服を見るなり逃げていった。

「……いや、知ってたけどさ……武装した人が声かけるだけで対応違いすぎて涙出そう」

「ごめんね遅くなって。嫌なことされなかった?」

「ああいや、全然きにしないでイズミン。ありがた涙よ」

 ちょっとウザ絡みされただけだ。和泉が心配している様な事は何もない。

 災難ではあったけれど、何を話せばいいやらシミュレーションに次ぐシミュレーションを重ねて緊張で固まっていた気持ちが丁度よく解れたと思えば。自然に並んで歩けているから。心中で酔っ払いを許してやる気持ちも、

「浴衣、似合ってるね。藍色が大人っぽくてすごく綺麗」

――撤回したい。もう和泉の顔を見られそうもない。

「あ。……ど、ども…………」

「髪もかわいくなってる。榛名はるなさんにやってもらったの?」

「やめてくださいしんでしまいます」

「顔さわっちゃだめだよ、メイク落ちちゃう」

「ウグゥ」

 気付いてもらえるのが嬉しいんだか、和泉に釣り合わせたくて必死に下駄を履こうとした見栄を見透かされて恥ずかしいんだか分からない。たぶん両方。

 みっともないだけだと解っているのに、褒められて舞い上がってしまう自分が恨めしい。

「もういい、もういいです。お腹いっぱいです」

「あ、そっか。紫乃ちゃん先に食べてた?」

 誤解したらしい和泉は、いつになく売り切れが多い自販機から「どれにする?」と飲み物を奢ってくれた。

 出店で買わないのか――という問いは、苦笑まじりに。

「隊服で出店は回らない方がいいって。俺も、休憩時間とはいえ仕事中だし」

「……なら、わたしが買ってきて食べさせればセーフじゃね?」

「いいよいいよ、気にしないで」

「待ってな。七色に光るゲーミングわたあめ買って来ちゃろう」

「わたあめって光るの……?」

 目をぱちぱちさせた和泉は、ネオンばりに光り輝く綿菓子を見て大層はしゃいだ。

 出店通りより、祭り会場に向かう人たちが多い裏道のほうで休憩を推奨されているのは、武装隊員が見えることによる抑止力の意味もあるらしい。

「裏街から、鬼さんが紛れ込まないようにね」

 綿菓子を千切りながら零された台詞に、さっきまでとは別種の緊張がこみ上げる。

「和泉、君」

「どうしたの? 嫌なこと、あった?」

「わたし、……鬼じゃない、よね?」

「……測ってみよっか?」

 対策部の携帯備品――呪力測定器を取りだした和泉に、意を決して右手を差し出した。

 測定結果を待ちながら目を瞑ると、和泉が可笑しそうに笑いだす。

「大丈夫だよ。心配してるような事、絶対ないから」

「なんでわたしより自信あるん……?」

「俺、昔は危険値出してたよ。でも鬼にはならなかったし、今はだいぶ落ち着いてる」

「……何か、嫌な目にあったの?」

「ううん、生まれつき高い人もいるよって話。鬼子っていって……鬼化のリスクが高いから、生まれる前に堕ろされる子の方が多いみたいだけど、」

 電子音が鳴り、デジタル表記で測定結果が表示される。

「これくらいなら普通だよ。大丈夫」

 笑顔で保証してくれた和泉に、肝心な暴露をする勇気も出ず。「ありがとう」と曖昧に笑う自分を、臆病者と罵った。


――描いた花が具現化する、などと言ったら。

 それでもわたしを、人間と信じてくれるだろうか。


 ■


 喫茶店の特需も下火。最後の一組の客が席を立った。

 閑散とした店内は、雨屋にとって見慣れた景色に戻っている。祭囃子は遠く、人の声も、分厚い静寂を挟んだ向こう側の風景。

 耳を澄ませるのもそこそこに、軽い足音は慌てて入口へと駆けた。


 今日は来ないと思っていた靴音が、近づいてきていたから。

「幽霊でも来たみたいなツラやめてくれない? 菓子屋」

 祭りの趣とは無縁な細身のスリーピース。革靴の音高く詰め寄った棗は、口が空いたままの雨屋の頬をつねりあげる。

 遅れて畏まった雨屋の一礼は、何時ものそれより随分と長い。

「本当に、お久し振りです。お待ちしておりました」

 棗が暫くぶりに見た顔は、元からの困り眉を一層下げて笑っていた。

「……あの、愛人野郎は?」

「店長は配達に向かわれましたが、直ぐお戻りになられるかと。さ、お席にどうぞ」

 清掃済みの奥まったテーブル席を案内し、流れる所作で椅子を引く。

 棗は呆れを隠さない。恐らく雪平にとって不本意でしかない渾名あだなを、雨屋に伝えた覚えはなかったから。

「やっぱお前、大概いい根性してるよね。知ってるけど」

「……実は今日、既に一度お叱りを頂戴しておりまして……何がいけなかったのかと反省していた所なのですけれど」

「一生直んないから無駄ってことじゃない? つーか、」

 こんなやり取りをするより先に、出すものがあるだろう。

 仕立てのよいスーツに包まれた脚を組み、尊大に言い放つ棗の態度は、タチの悪い取り立て屋のそれだ。

 碧眼からの圧力に、雨屋の視線は意味なく笑う。柳に風が常のバイトには珍しい――都合の悪い事情がある際の、微妙に嘘くさい苦笑。

「畏れながら……ケーキは、完売してしまいまして……」

 シンプルな白の小皿に、一口大のチョコレートが三粒だけ。

 今ある菓子はこれしか、と。口篭る雨屋から皿を奪って、棗が事もなげに言い放つ。

「パンケーキなら焼けるだろ。それまでなら待ってやる」

 言うなり早速一粒目を口に放り込む。

 果実酒の香りが濃く、絡みつく酒気に舌が焼ける。

「棗さん、十分は掛かりますよ」

「三分」

「せめて五分ほど。良い子でお待ちになって頂けませんか」

「競りじゃねぇんだからさっさと厨房行け愚図」

 残り時間を刻むように二粒目も消える。

 それより遅いか早いか、慌てた足音が厨房へ駆け込んだ。


 祭りの中心からは遠いが、人の声は止まない。地元の人間が人混みを避け、近辺の裏道を通るのだろう。祭囃子が届くのは、駅前通りに山車が出ているためだ。

 空調が心地よく効いた店内で、いとわしい人混みにも煩わされず。

 朧気ながらも、祭りの趣のみを楽しめる。気楽な立地の喫茶店。


「遅い」

「左様ですね。お待たせ致しました」

 言葉とは裏腹に楽しげな雨屋が、銀色のトレンチを携えて一礼する。

 まだ湯気を吐き出すパンケーキが、音も立てずに配膳される。滑らかな生地の焼き目が柔らかくふるえ、添えものの桃の蜜漬けがぴかぴか光った。

 パンケーキの隣にカトラリーケースを並べて、雨屋は一歩を退いた。

「愛人野郎いつ帰ってくんの」

「そうですね、……あまり遠くもありませんから、恐らくあと十分もあれば。お時間は大丈夫ですか?」

「別に。聞いただけ」

 ナイフの切っ先がやわく沈む。

 生地の内側から甘い蒸気が立ちのぼり、バターの香りが鼻腔に満ちる。

 パンケーキを一口大に切り分け、次々と口に運んでいく。銀食器シルバーの扱いは流暢で、白馬の王子然とした端正な顔立ちと調和する上品な所作だ。

「……あ?」

 食事風景をにこにこ見守る雨屋に気付き、食事の手がぱたりと止まった。

 態とらしく眉をひそめ、パンケーキの解体をそこそこに。難癖をつける口はよく回る。

「なにニヤニヤしてんだよ菓子屋の癖に」

「お料理を眼の前で食べて頂けることって、特別に嬉しくありませんか?」

「……ほんとお前って下僕気質だよね。馬鹿なの?」

「お陰で毎日幸せに満ちております」

「白々しい」

 乾いた笑いをひとつ。しかしながら、とくべつ不機嫌という記号ではない。

 いつもどおり。通常運転。小気味よい応酬は「機嫌がよい」くらいのもの。

 パンケーキが完食されると、雨屋の喜色は一層分かりやすくなった。

「そちらの桃、勤め先の奥様から頂いたんです。お気に召していただけましたか?」

「流石は元ヒモ野郎。人をたらし込む術だけは一流って?」

「ご好意の頂き物ですよ」

「ヒモの常套句だね」

 棗が鼻を鳴らす。ぽんぽんと安売りされる挑発の大盤振る舞いはじゃれ合いのそれだ――言うまでもなく、相手にとっては傍迷惑この上ない。

 不躾ぶしつけな言葉に相対する呑気な微笑は、薄身の外見にはそぐわない、雨屋の神経の太さがよく表れている。

「お店にいらっしゃらなかったのは棗さんではありませんか。食べていただきたかった試作品、沢山あったんですよ」

「僕はヒモのご身分と違って多忙なんだっての。そんなに僕に食べて欲しかったんなら家まで持って来いよ。気がきかねー奴」

「ヒモはとっくに辞めております。そんな事お分かりでしょうに。意地悪なひと」

「はぁ? 何か言ったかよ」

「ええ。申し上げましたね」

 くすくすと楽しげな雨屋に、悪びれる様子はない。

「……弁解、今なら聞いてやるけど」

「ある筈も御座いません。お気持ちだけ頂戴致します」

 街を浮かせた祭りの熱は徐々に覚め。訪れた「ひと」の内へと微かに点る、仄かな灯に変わり始める。

 聞こえていた筈の祭囃子は、もう、遥か遠く。


「死神は、お前だな。雨屋あめや浩太こうた

――現実へと、戻らなければならない刻限。


 あまりに静かだった。店の内装ひとつ、揺れもしない。

 細身の身体を強引に引き倒し、馬乗りになって動きを封じた。雨屋の携えていた銀のトレンチだけが床に落ちて、金属音を立てながらぐらぐらと回る。

 粗い手つきでエプロンを捲り、雨屋の腹部を強く押す。抉るように何度も押す。

 身体の薄さのため余りがちな白のワイシャツに、赤がじわりと滲んできた。

「あれだけ痛めつけてやれば流石に残ると思ったけど、予想以上の治りで若干引いたっつの。……まさか、この怪我で言い逃れしようとか出来るとか思ってねえよな」

「あはは、イチゴソースでしょうかねぇ」

「お前の脳味噌はババロアだろうなそんなに死にたい?」

 片手で足りそうなほど細い首だ。薄い皮膚を通して、骨の感触がありありと解る。血液が巡り、脈が打って、これが生き物であることを主張している。

――『死神』なんて都市伝説はまやかしだ。生きた人間で、殺し屋。

「……いつまでその大根芝居続けるつもりか知らねぇけど。僕をどこまでおちょくりゃ気が済むわけ」

「私の貧弱を差引きましても……棗さん相手に命を拾おうなんて、無謀では?」

「笑って誤魔化そうとしてんじゃねぇぞ」

 圧をかけただけ、骨がたわむ。

 気道が圧迫されているにも関わらず――腹の傷をこじ開けた時と同じだ。笑顔は穏やかで、苦しげな色ひとつ浮かばない。

「答えろ。お前は、死神か」

 トレンチの回転が止んでいく。

 かたかたと震える金属音がひとつに収束し、完全な無音とともに。

「全く、貴方の仰る通りです」

 棗の身体が大きく傾いた。


 意識を失って倒れ込む棗を、雨屋が受け止める。

 自身の血で汚さないよう抱えて、元いた席に座らせた。うまく椅子に凭れかかるよう慎重に調整を終えてから、落としていたトレンチを拾う。

 棗の食べ終えた皿を下げる。流しに残していた食器を洗い終える。全ての席を、客を迎え入れられる状態に整える。仕上げにカウンターを拭きあげて、その布巾も何時も通りに使えるよう、洗って仕舞った。

 此処で行うべき仕事は、無くなった。


 エプロンを脱いで畳み、眠る棗の腹にのせる。

 ぐるりと眺めて見落としを確認しながら、私物の詰まった薄い鞄を肩にかけた。

「お帰りなさいませ、店長」

 無事外出から戻った、店の主を迎えるに相応しく。雨屋は笑って頭を垂れる。

 それに応じる主人は、その温度にほだされる気配など欠片も無さそうだが。

「……お前やっぱり、狭間通りに行ってたな」

 逃げを許さない視線が、顔色を変えない雨屋と、腹に滲む血を射抜く。初めこそシミ程度だった赤は、てらてらとした艶を纏い、シャツ全体を染め上げようとしていた。

 いつもの歩調が、雪平の横を通り過ぎていく。

「お世話になりました」

 声だけを残して、雨屋の姿は消えていた。

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