騎士の祈り
見渡す限り、人間の海だった。
スーツ姿の中年男性。学生服男女。年配の女性。派手なスウェット上下、男。男、女、男男、女女、男、人人、人、人人人人人人人人人人ひとひとひ――――
「
情報量と物量に追い付けない。精神的な余裕の無さが、生来の強面を更に険しくさせている。
反応のない大男に対し、
「お兄さん。中央本部までの道案内、お任せしていいかな」
「もちろんですけれど……氷崎先輩もあんまり顔色良くないですよ。座って休めるところ探してきましょうか?」
「休むよりは、早く外に出たいかな。人の量が気持ち悪いし。僕のことは気にしないで」
氷崎が冬部の腕を力ずくで引いてゆき、地図を構えた
目標は中央駅改札からの脱出、及び異類対策部中央本部への到着。
「えっと、……待っててくださいね。実は俺もほとんど来たことない駅で」
「僕達のいる路線がここだから……あの案内表示についていけばいいのかな。……地図、ほんとに預けて大丈夫?」
「だ、大丈夫です誤解です! 二階と一階間違えただけなんです!」
中央本部主導、訓練生対象に各支部紹介を兼ねた研修会。
例年ならば棗が担ってきた広告塔は、その棗の不在により同隊の彼らにお鉢が回った。棗からのマニュアルを受け取った氷崎と、冬部、和泉を加えた三人が広報に出向いている。
人選の妥当さに頷く反面、冬部は当初、氷崎の編成を渋っていた。対策部よりも学業――入学したばかりの大学の勉強を優先すべきではないのかと。
しかしながら、
『僕は不参加でも構いませんけど、棗さんのマニュアル、今からお兄さんに覚えてもらうには無茶な量だと思いますよ』
初めから、自分は頭数に入っていないと理解した冬部に異論は無かった。
高層ビルが無数に立ち並び、空を覆いつくそうと我先にひしめきあう。
どこを見ても若者と目が合う。祭りでもないのに人でごった返している。車、音、文字情報が溢れんばかりに詰め込まれた街は、景色までもが喧騒の一部だ。
整然とした区画整備、画一的で清潔な街並み。どこも似たような交差点が続く景色は、前に進んでいる感覚がまるでない。
錯覚とは解っているはずの迷宮に、頭がぐらぐら揺れる。
「……冬部さん。こっち見えてます?」
本調子でなさそうな氷崎から表情が失せている。疲れのせいか刺々しい圧力は、冬部を我に返らせるに丁度いい塩加減だった。
意識レベルを確認した氷崎が、ようやく冬部の引率をやめる。丸太のような腕を引っ張り続けるのもそれなりの重労働だ。
「謝罪はいいです。歩いてくれれば」
喉まで出かかった詫びを見透かされている。
「お兄さんの中央出張、支部長が許可したんですよね。ここ来るまで何か、危ないことありました?」
「……いや、何もねえけど」
「なら、めいっぱい普通そうな顔しててください。善良にとまでは言いませんから」
和泉は研修を中央本部で修了しており、本部への土地勘は折り紙付きだ。中央に不慣れな北の人間の案内役としてこれ以上の適任もいない――が。
当の中央本部から下っていた、和泉の殺害命令は、思い出話と笑えるほど昔のことではない。
先をゆく和泉が、いつの間に離れた二人との距離に驚いて駆けてくる。
氷崎は笑みで制止してから、冬部だけに聞こえる音量で囁いた。
「市街の監視は北より厳しいはずです。それでもここまで何もない。なら、お兄さんが対策部に捕まる理由も無い。違います?」
想像を絶する物量の人間相手、どこから現れるとも知れない脅威を警戒していた冬部の緊張は、取り越し苦労と一蹴される。
中央地区は最新鋭技術の積極的な開発運用を進め、鬼化初期個体の探知をどの地区より高精度で行っている。中央裏街が辛うじて生きていたのも昔の話だ。
潔癖ともいえる理想を実現させた「中央の仕組み」――これに許容されさえすれば、名実ともに何者にも自由を侵される理由はない。
鬼を完全に排斥した人間社会、その秩序の体現。
対策部中央本部は、もう目の前にそびえていた。
「ありがとな。ここまで任せっきりにしちまって世話かけた。……大丈夫か? 水とか欲しけりゃ買ってくるぞ」
「……いや、ただの人酔いってだけですし、いいんで……」
本部内部は広く、柔らかな温度の銀と白で装われていた。よく磨かれた硝子を各所にあしらい、中央本部の隊服、騎士を思わせる純白の軍服がすっきりと馴染む。
東の青、西の黄、南の赤、北の緑、そして中央の白。市街地に紛れても目を引く隊服の彩りが、清廉な空気の満ちる中央本部内を鮮やかに色付けている。
「手伝えること、あとはねぇか?」
「大丈夫です、終わりましたよ。ありがとうございます」
中央本部へ各種申請やお遣いを済ませ、冬部がやっと北の控え室に戻る。設営は完了、請け負った資料も広報職員による監査の末ようやく完成に至った。
「あとは当日の役職だけで通して流れを見ようと思います。氷崎君と
「あー……俺も何してんのか見ときてぇんだが、邪魔しても構わねぇか?」
「あはは、真面目ですね。棗副長……は、慣れもあるでしょうけど、いつも気楽にやってらしてましたよ。ごゆっくりしててください」
各所で奔走する職員が控え室に集まるまでしばらく。
手持ち無沙汰に廊下に出た冬部を、覚えのない手が引き留めた。
「冬部隊長。すこし時間をいただけるかな」
まだ目に眩しい白い隊服。腐れ縁とよく似た顔の、曖昧な知り合い。
「北の担当官が君だと聞いて驚いた。広報は苦手分野だろうと思っていたから」
「……情けねぇけど引率だ。陽のやつも見越して、得意な隊員に投げやがったから」
「気にしなくていい、適材適所だよ。改めて、場を設けてくれてありがとう」
棗の兄だという男、晃一は、冬部の剣の師――祖父の道場へ何度か訪れていたのを子ども心に覚えている。祖父はかつて棗の父親に稽古をつけた縁があり、彼は父親のお遣いで来ているのだと。祖父は野菜泥棒の野良狸でも思い出す適当さでぼやいていた。
「さっきから何度か覗きに来てたよな。言った通り、陽は来ねぇぞ」
「率直に話すと、様子見に来てたのは安岐隊員の監視のためだよ。彼に鬼化の兆候が見えた場合、中央本部は問答無用で首を
――馬鹿言え、と。噛みつかなかった自分を褒めたい。
北の支部長も了承済だ。自分の他にも複数の副長および隊長格が動いていると語られた事実に、冬部は言葉が出ない。
穏やかな口調は猫を被った棗とよく似ている。よく知る顔が、見慣れない愛想を纏いながら、中央本部としての決定を滔々と告げていく奇妙さには慣れそうもなかったが。
言葉が決して冗談ではないことを、揺れない視線が物語る。
「万が一そうなれば、君は安岐隊員を護る気がした。余計な誤解と混乱を招くから、作戦は秘匿のうえ隠密行動との指示だったけれど……相手が君なら裏目に出かねない」
「待ってくれ、そもそも和泉が鬼化したことはねぇだろ。精密検査の結果見て、あんたらも納得した話じゃねぇのか。去年の殺処分命令だって、あれは中央が――」
「黒の歌姫。君も知ってたんだね、誤魔化さなくていいならありがたい」
和泉は過去、中央本部から密命を拝していた。
鬼を人間に戻す機構――『黒の歌姫』としての調声技術の完成を目指し、故あって頓挫した末路が廃棄処分――中央から下されていた殺害命令の正体だ。
「計画の末期、安岐隊員は中央と完全に袂を分かった。歌姫の能力を無辜の隊員達に行使し、多くを心神喪失に誘う事態を起こしている。……当時の呪力値を鑑みても、彼という『脅威』は鬼と同等、若しくはそれ以上と解釈して差し支えなかった」
「……中央本部が和泉を騙して利用してたって話は聞こえてねぇのか。研究員でもねぇあんたが計画の中心に居たとは思わねぇけど、年端もいかねぇガキいいように搾取しといてテメェらだけ被害者ヅラするつもりじゃねぇだろうな」
「どちらが悪い、という話をする気は無いよ。冬部隊長に納得していただきたいのは、いま現在、どうして俺たちが安岐隊員を監視する必要があるかという点だけ」
彼の言葉は感情を排している。
そうである以上は冬部も耐え忍び、拳の力みを解くことに専念するほかなかった。
中央は、鬼化の早期発見に重きを置いている。
脅威が育たないうちに――人間とそう変わらないうちに芽を摘むこと。その仕組み上、初期個体の駆除がほとんどで、異形個体は見ることもまれ。もし遭遇したとすれば、中央の監視が行き届いていないというシステム上の欠陥で、監視の網を見直す必要性があるという意味のエラーだ。
中央の莫大な人口と中枢機能を最小被害で守り、維持するための方針である――街の探知機が暴走個体への警戒に的を絞り「裏街から市街に出てこないよう」監視する役割を担い、多くの鬼化個体は角の表出段階で発見、裏街に逃げ延びることも珍しくない北とは大きくやり方が異なった。
「俺たち中央の方針は、疑わしきはまず隔離、精査は後から。呪力値が閾値以下ならカウンセリングを案内して、そうでなければ殺害対象として対処する」
裏街を排し、現在は事実上の清浄地区になった中央は『危険分子を野放しにしない仕組み』で成り立っている。
冬部にも理解は追いついてきた。和泉という人間が内包する危険は、中央の方針に照らせば放っておいてはいけない類のものだ。
「安岐隊員の呪力値は落ち着いているけれど、中央の警戒閾値はゆうに越えている。肉体変化が無くても、本来なら即隔離する対象だ。経過を考慮すれば処分でも疑問はない。……このような体制を敷いたこと、ご理解頂けないだろうか」
「……中央を守ってんのはあんた達だ。何も知らねぇ他所の土地に来てる身で、あんたらのやり方に口は挟まねえよ。こっちこそ、食ってかかって悪かった」
地方ごと置かれた状況が異なるように、中央は中央の仕組みで動いている。
郷に入りては従うべきだと。かつて北を訪れた本部の人間に吐いた台詞を曲げるような振舞いは、筋が通っていない。
「和泉が鬼化するようなら、俺も庇い立てはしねぇ。それは元から決めてることだ。隊長として、責任もってあいつを斬る」
晃一は少し驚いて、「頼もしいよ」と笑う。
感謝を短く述べてから、事務的な表情をやっと崩した。
「……個人的な感傷を挟んでいいなら、安岐隊員には同情する」
一切の皮肉なく、純粋な哀れみから瞳を伏せる仕草に、冬部は彼が棗とはまったく別人であることを再確認する。
「肉親を餌にしたやり方は悪質だ。死亡の事実を隠されて、希望を捨てられなかった気持ちも……ひとりの兄としては、
「……陽のやつとうまくいってねぇのか?」
思わず零れてしまってから、失言だったと口を閉ざした。
家族嫌いというより、「縁は切った」「他人だ」と、棗はなんの感情も含めず言うだけだ。幼馴染とはいえ家庭事情に突っ込む気もなかった。情に薄く、厳しい家なのかもしれないと――今までは想像に頼るしかなく。
「……
「ああ、いや。友達? ……俺も知ってる奴は何人か」
「ほんと? 良かった。弟がお世話になってますってご挨拶したいところだけど、陽介に怒られそうだしなあ」
安堵を隠さない「兄」の顔は、冬部の想像よりマトモそうだった。
職務上の会話から私的な詮索への移行を感じながら、個人面談のような質問の数々に答えてもいいものか戸惑いが勝る。
「今年の担当官の変更、初めは陽介から避けられたかと思ったんだ。そうでないなら安心した」
「陽のやつ、裏街に出る殺し屋を追っ掛けてんだ。あんま連絡つかねぇ状態でよ、親御さんにも心配掛けてんならすまねぇ」
「……悲しいけれど、連絡が無いのは元からだよ。手紙を送っても返事がない」
「…………あの馬鹿野郎、」
便りがないのを心配してくれる家族がいる事実は、ほっとした。
北支部の広報職員が冬部を探しに現れ、白い隊服姿の晃一をみとめて目をこする。棗と似ているから戸惑ったのだろう。
冬部への集合指示と、和泉がまだ戻らないことを伝えて戻っていった。
「安岐隊員のことは気に掛けてあげてほしい。先祖返りの隊員は、彼をよく思っていない」
不安をほのめかした晃一を、冬部が訝る。
「あいつが敵作るようには見えねぇけど、……そうなのか?」
「……はは、うん。俺も分からなくはないのが嫌なところで……記憶持ちの人間がわざわざ北支部に志願するのは、過去の罪人に与することと同じに見える」
「…………あ?」
北支部。罪人。『過去』に――誰が?
「北の支部長、
隊員らを焚き付け面白がるばかりの好々爺と、咄嗟に符号が一致しない。
「……大事な弟を唆した
あくまで平静に付け加える。
北の控え室まで冬部を送り、和泉の不在については「監視担当に確認する」と、端末を取り出した。
「黒の歌姫の脅威も鑑みて、安岐隊員には接触しないよう通達しているけれど……機密を明かされていない若手の隊員が少し怖い。もしかすると」
彼の危惧は現実となり、――そして先ほど終わったところだった。
白い軍服姿の少年が、和泉の目の前で意識を失っている。
同様に中央の隊服を纏う、静寂そのもののような男――が、少年をしばき、昏倒させ、ほんの数瞬で場を支配した。
「……え、と」
深い墨色をした短髪と瞳が、白の隊服と対照的だ。
男は無言のまま、足元で動かない少年を見下ろしている。身動ぎもせず観察を終えたのか、しばらく経ってから肩へ担いだ。
男自身は、担いでいる荷物より小柄で華奢だ。体格に恵まれない和泉と同じくらい身体が薄く、身の丈も変わらない。
男の意識が和泉に留まった。唇が微かに動く。
「……貴方は、」
視線が水平に絡む。
眠たげに凪いだ眼差しに、和泉はどきりとした。
「助けてくれて、ありがとうございま――」
端末の電子音が響いた。男のものだった。
和泉は身振りで着信を優先するよう伝える。男が深く一礼し、先ほどまでの無口が信じられない滑らかさで報告事項を列挙しだした。
「口論はありましたが両名無事。能力の行使、鬼化兆候ともに見られず。接触を図った違反者の身元と所属部隊は後ほど報告致します。動機は……ええ、確認は行いますが」
説明会へ向けた準備の最中、中央本部隊員のひとりに声を掛けられたのが始まりだった。少年は和泉が中央地区に居ることを快く思っておらず、処分対象だと主張する。
和泉を擁する北支部を「鬼を匿う逆賊」と罵り、口論になった。
『中立かつ公平たる中央本部の意思こそが最上位の決定と呼べる以上、正義の在り処は自明なこと。その『正義』が殺害命令を下した脅威を見過ごせる訳が無い』
『中央は全支部の絶対的な模範であり、正義と呼びうる規律の体現だ。なればこそ、間違いは『貴様らに在るのが当然の帰結だろう』。違うか?』
『先祖返りの癖に中央から離反し、悪に与する裏切り者が――』
「度重なる非礼と暴言、代わってお詫びいたします」
外見同様に特徴のない声は、少年の言動を丁寧に詫びた。
送る、と言いたげに視線を寄越し、男は帰路を先導し始めた。
白い軍服の背を早足で追い掛けながらも、廊下に響くのは和泉の靴音ひとつきり。
男の所作は、奇妙なほどに音がない。
「母や俺たちの歌のこと、知ってる人ですか」
男が立ち止まり振り向く。
沈黙の圧すら漂わす真顔に怯むことなく、和泉は苦笑いで明かした。
「俺、なんにも知らなくて……先祖返りの隊員さんってほとんど武人さんで、俺みたいな歌うたいは一人もいません。『芸事なんて』って呆れた顔をされるのが普通なんです。いつも」
男が口にした謝罪は、今まで中央で触れてきた感情のどれとも違った。
奇妙に読みづらい声を――それでも、悪いものではないと感じている。
「どうして貴方は、その尊い歌を、他者へ委ねることをなさった」
冷静に問う男の声から、感情の揺らぎは読み取れない。
「……黒の歌姫のこと、知って」
「私は、計画の末端におりましたから」
鬼化の初期にある存在を、――鬼化の誘因、強烈な感情を摘むことで――人間に戻す。精神操作の技術を基にした対鬼用の洗脳装置。それが、和泉が成ろうとしていた「歌姫」の本質だ。
「奏でるか否かの意思、伝える言葉も、他者からの介入を許容すべきではなかった。利用価値の高い技術としてのみ理解し、私欲で歪めることを厭わない人間に、魔法を与えてはいけなかった」
黒々とした瞳。敵意は無いが好意とも違う中味を、読み取ることができない。
掴めない声は尚も続ける。
「中央本部の失態は、貴方という奏者とその聞き耳を、心から侮ったことでありましょう。『歌姫』の調律が脅威たり得ることを、貴方は無意識に理解していたのに」
和泉は明確に人を害した。能力を刃として行使した。
本部がその信頼をなげうつ覚悟で――鬼という『正当性』を偽ってでも和泉を排除したがった理由は、能力の危険性を鑑みた措置でもある。
「……何をおいても引渡すべきではなかった。歌は、貴方の」
「俺の何を手放しても、会いに行くって決めてたから」
男が微かに反応した。
口を開いたが、声にはならない。
「あの人たちは俺を殺すために、相良を人質に取ろうと傷付けた。……俺は兄です。誇りだろうと、心だろうと。妹を護るためなら何だろうと武器にします」
双子なのに、兄だという。
その役職にしがみついているのは、自分なのかもわからない。
言葉少なな妹だった。我儘も甘えも、ほとんど口にしてはくれなかった。
それでも、困っている時は解ったから――微かな違和に、自分だけが気付けたから。いつも自分を落ち着かせてくれる片割れが抱え込んだ不安を、消してしまえるようになりたかった。
表情を変えない彼女のサインに敏くなるうち、周囲の顔も、よく見えるようになった。
「……俺は、今の俺になれて良かったと思うし、俺が受継いだ魔法の在り方も誇りに思います。色んな人の気持ちに気付きやすくなれた。そういう俺を作ってくれたのは、母さんや相良です」
誰かが隠した寂しさを、見付けられる人間であるように。
母のくれた魔法も、そういう類のものだった。和泉自身その魔法は自分の本質に即したものだと思っていたし、黒の歌姫の調律よりも手足のように馴染んでいる。
「俺を俺にしてくれた。俺で居させてくれたのは、愛しい家族との縁です。その愛情に報いる機会が貰えたなら、俺はできる限りのことをします」
そう。――「俺」を守ってくれた、愛しい彼女に。
男の担いでいた
今にも頭から着地しかけていて、和泉は慌ててその身を支えた。ただ、少年の身体は予想より重く、加速度を和らげる程度の助力が精一杯だ。
派手にごつんといったのは、廊下が静かなせいだと思いたい。
男は俯いたまま動かなくなっていた。震える声は――狼狽、だろうか。
「……彼女、は……貴方の、一部だったのですね」
がらんどうに静かで、消え入りそうな、夜明けの薄藍のような声だった。
遠くに事務連絡のアナウンスが流れていた。
少年の安否を確認した和泉が、一礼の後に踵を返す。
「……今の中央は、貴方に対して強く出られない立場にある」
男の声だった。
和泉には、その表情の意味が分からなかった。今まで出逢った感情、培ってきた全てを集めたとしても、男の眼差しに含まれる影を描くことは叶わない気がした。
「中央は、貴方の歌に精神操作の可能性を見出した。それを能力として育て上げた責任から決して逃れられない立場だ。黒の歌姫事件における真相、貴方の能力の存在が明るみになった時、糾弾されるのは中央本部でしょう」
「……、」
「なればこそ、事件の真相と貴方の存在。その稀有な能力を、見なかったことにすることにした。……貴方が咎めも無く北にいられるのは、そういった交渉を経た中央が、ようやく一時的にも貴方を諦めたということだ」
ぼろぼろと沢山の言葉を取り落としかけながらも、和泉の耳は、男の感情を形容するに相応しい答えを探していた。
両肩を掴まれ、和泉が顔を上げる。
「――だから貴方は、お逃げなさい」
和泉の身を案じる、真剣そのものの眼差しだった。
「能力のことなど知らない顔をして生きてください。情報の開示もおやめになった方がいい。貴方に隙がうまれたとき、中央がそこに付け込まない保証は何処にもないのです」
「え、っと、…………」
「……無礼は承知。これは、不審な男の戯言です。なれども、どうか、……届いて欲しいとも、願っている。私は、言葉を尽さずにはいられない」
肩を掴む力は痛いほど。
足元で身じろいだ
「中央のひとが、どうして俺に、そういうことを言ってくれるのかは分からない、けれど……ありがとう、ございます」
そう、解いた警戒が、男の手から力を抜かせたらしい。
痛みが和らいでやっと、和泉は、男の表情を確かめる余裕を取り戻す。
――男の表情筋が微かに和らいだ「ような気がした」。
和泉が目を擦るともう分からなくなった変化は、見間違いかもしれない。
その間に男が、和泉の手を
騎士然と
手の甲へ口付ける素振りは「尊敬」――相手へ最上の敬意を表するための記号。
「貴方の
無表情の彼を見るに、動揺する方が変なのか。
和泉はしばらく自分の常識と格闘しながら、頬の熱を冷まそうとしていた。
■
「おっさん、運が良かったな。俺がいなきゃ今頃、対策部に即通報でお陀仏だ」
中央歓楽街のネオンに照らされた男が放り投げたのは、カプセル剤の並んだシート。
スーツ姿の中年男性が、恐る恐るという様子でそれを拾い上げた。原色の黄色が鮮やかなカプセル剤は、玩具か輸入菓子のようにも見える。
「鬼化が薬で治るなんて、そんな馬鹿な」
「初期のうちだけな? 最近できたばっかの薬だから、ラッキーだったなって話。一時的に抑えるだけらしいけど……人間でいられるうちに、ほれ。ストレスの元どうにかする猶予はできたろ」
生き証人を自称する若者は、小さな石のようなものをポケットから取り出した。生えかけていた角が抜け落ちた欠片だと説明する。
半信半疑だったスーツの男の顔色が一変し、震える手で、薬のシートを握り締めた。
「S. diva ――『救済の歌姫』。理由は知らねえけど、そういう名前の薬だって話。口コミよろしくな」
鬼の存在が許されない社会において、それは事実、縋る藁の一掴みであった。
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