現実主義者は夢を見ない

 細かな水滴が肌を叩き、伝い流れて床を打つ。

 浴室の扉越しにくぐもる音が、薄暗がりに沈む部屋へと染み込んでいく――水回りから居間。ソファ、ローテーブルに、書籍の詰まった本棚が複数。過剰に簡素な輪郭は、モデルルームと見まがう潔癖のそれだ。

 カーテンから滲む朝日はまだ弱い。


 水音は止んでいた。

 薄くけた陽をうけて、濡れた金髪があわく光る。


 力任せに髪を拭い、男がソファへと腰を下ろした。

 洗い流したかった不快感はこびりついたままで、やり過ごすしか道がない。

 男の寝覚めは最悪だった。夢を見た気もするが定かでない。普段から夢を見ず、覚えていない質である彼は、経験則からの仮定でしかその存在を測れない。

 虚脱感が思考を鈍らせ、手足は気だるく重さを増す。

 不確かで曖昧な精神活動は、迷惑な隣人というほかなかった。正体を晒す気も無いなら黙っていればいいものを、不快感ばかり置き土産に存在を主張する。

――実体を持ちもしない癖に、僕の邪魔をするな。

 形もないのに現実に干渉しうる代物が。また、その程度のものに影響されている自身のことも、彼にとっては忌々しい。


 例えば、先祖返りというもの。

 前生の記憶を持っていると「言い張る」人間のこと。


 忘れがたい記憶の一部。過去に得た経験値の繰り越し――それが選ばれた者へのギフトで、人間の上位種だとのたまやからが実際いるから始末におえない。

 仮にあったとして。自己申告にしか拠れないものを何が保証する。仲間内でのごっこ遊び、わらべの空想遊びと差異がない。子どもの戯れならいざ知らず、大のおとなが。世の真理を自分達だけが知っているような訳知り顔すらしている。

 呆れ果てた。とてもじゃないが付き合いきれない。

 事実、異類対策中央本部が「そんなもの」を有難がって重用するのだから馬鹿げているのだ。実際。

 妄想で武装するくらいなら、この両の手で刀を振るった方が余程ましだ。


 精神疾患由来の全能感に胡坐あぐらをかいた無能が、現実に積まれた修練の前でどこまで強がっていられるか見ものじゃないかと。それなりに敵意を研いでいたのも昔の話だ。

 散々見下されてきた有象無象を足蹴にした。負けを認める言葉を強請るまでもない。勝手に音を上げて白旗を揚げる。

 この程度を相手にしていた自分が馬鹿らしかった。

――くだらない連中だ。関心を払ってやるのも煩わしい。


 もとより彼は、現実しか、見てやるつもりは無かった。

「誰」

 覚えのない番号からの着信はまず、電車の駆動音が耳についた。

 吹きつける風の音と、遠くに掠れる駅のアナウンス。しばらくの無音。

 聞こえたのは女の声だ。

『お前の知りたい情報を持っている』

 この端末は「仕事用」だ。彼が複数所有する、足のつかない連絡端末のひとつ。

 間違い電話と捉えるほど呑気のんきな頭はしていない。


『此方に来るなら教えてやろう。なつめ陽介ようすけ

 一方的に切られた通話が、かけ直される気配は無かった。



 棗が教鞭をとる大学の文化祭は、秋にまで間延びした夏季休暇が明けてから。

 残暑の日差しを引きずりながら、吹く風は容赦なく熱を奪う。移ろう季節をどっちつかずに選びかね、頭上に広がる秋空ばかりが浮ついた調子でどこまでも青い。

「げっ、先生……!? お仕事は大丈夫なんですか!?」

 演劇サークルの控室、学生会館の二階。

 悲鳴じみた叫びに釣られ、全部員の視線が棗に集まる。

 文化祭の定期公演を数時間後に控えた忙しさの中、歓迎する顔と慌てる顔が半々――長く不在だった顧問の訪問だ、妥当ではあるのだけれど――不自然に動揺した数人が目についた。

 棗は順繰りに声をかけながら、不審な数人――衣装班に近づく。

「お疲れ様。さっき隠したのは、悪役の衣装かな」

 暗幕じみた黒一色の布を舞台映えさせるため苦心を続けた成果と、出来栄えを誇っていた彼らの喜色を、棗はよく覚えている。

 衣装班の視線が交錯した。

 突発的な衣装の破損なら、言葉に詰まる理由もない。

「……実は、配役が変更になったんです。……あんまりサイズ違うから、一から作った方が早いだろうって」

「! ……衿添えりそえ君が? ……そう。彼の舞台、楽しみにしていたから残念だよ。……姿が見えないけれど体調でも」

「先生、」

 恐怖からくる萎縮。

 その声の震えを、嫌というほど耳にしてきた。

「あいつ、稽古場で鬼化したよ。……私ら全員、見たんです」


『「有り得ないこと」など、有りはしないのだ』

 その昔、世界の見え方をわずかに傾けた世紀的論文は、この一文から始まった。

 強い感情に支配された人間が、角を持つ異形――鬼へと堕ちる。

 初めこそ世迷言よまいごとと一蹴された論が受け入れられ、織り込み済みの社会がうまく機能するようになって久しい。


 過ぎた情念はその身を呪う。

 全身に致死性の変質を招く、精神病とも形容できる疾患。妄執の結実――丸腰の人間では敵わない膂力りょりょくも、発現する異能も、人を蹂躙じゅうりんして余りある。

 異類ばけものへ対抗する掃除屋が求められるのは自然な帰結だった。

「……んなはっきり言ってやるな。あいつ、先生に懐いてたんだぞ」

「すぐ解ることだろ。先生いちおう北支部の隊員もやってるし、いま誤魔化しても変わらねぇよ。自業自得でバケモノになったってだけだろ」

「……役作りだって、この台本ホンにのめり込んでたもんね。……言えなかったけど、正直ずっと怖かったよ。監督の指示も一切きかないし、暴走しててさ」

「あー……確かに。言えてる。……なんか鬼化したのも納得っていうか、」

「……あの、……先生まだ、大学に戻って来れませんか」

 鬼と人との明確な区分。早期発見と排斥はいせき。二度と人間社会に立ち入らせない市街管理。化け物などとんと見かけない平和な社会は、そのようにして形作られる。

 鬼を社会から排する諸処理、大部分として駆除を担う組織は各地に存在する。この国も本部を中央に構え、各地方へ四支部を置いて連携を行っている。

 ここ北の地は、対策本部北支部の管轄だ。

 棗は大学で教鞭をとりながらも、北支部のある隊に副隊長として所属している。副業として扱うには珍しい職種を、棗は大学で隠していない。

「あいつの頭から角が生えてきた時、……先生がいてくれたらって、死ぬほど思ったんです…………だから、」

 それから先は途切れた。

 血なまぐささを口に含み、吐き気を無理に飲み下したのが見て取れる。他も、総意で似たようなことを考えているのだろう。

 刺さる視線が、求められている役割を露骨に解らせてくる。

――涼やかな碧眼を慈愛に緩ませ、場の空気を和らげて微笑んでみせた。

「今日の公演は心配しないで。何があっても、武装した隊員が到着するまでの時間は稼いでみせるよ」

「……、……先生。でも、死んだら嫌ですからね」

「……あんまり信用されてないみたいで結構。万が一の時は躊躇わず北支部に通報して、安全な場所に避難すること。……怖いだろうけど、頼んだよ」

 分かり切ったことだ。鬼というだけで白眼視されることが一般的なのだから。

 鬼はもちろん、対策部にも似たようなことが言えるのだけれど。



 満席御礼に賑わう体育館を眺めながら、パイプ椅子を開く。

 会場の最後列、公演を撮影する記録係の隣からは全体がよく見渡せた。開演のブザーが鳴ってもまだ、席を動く頭がちらほらうかがえる。

「ねえ先生! もしかして今日から、稽古に参加できるってことですか?」

「うーん……ごめんね。まだ暫くは、支部から戻れそうにないんだ」

「……先生もヘンな人ですよね。鬼殺しなんかしなくたって、エリート大学教授の肩書で売り込んで俳優やった方が絶対稼げますよ。超のつく美形でアクションもござれとか天が二物を与えすぎじゃないですか」

「買い被りすぎだよ。ほら、本番始まった」

 北支部の名前は、長期不在をてい良く繕う口実だ。棗の姿は対策部には無く、目的も、鬼とはさして関係ない。

 棗が追うのは殺し屋だ。

 目鼻や口、人としての体温を感じる肌。素顔と呼べそうなものの一切を黒布で覆った異様な外見の殺し屋――「死神」と呼ばれる存在が、長い沈黙を経て再び動きだした。棗が長年追い続けてきた標的であると同時に、初遭遇時に黒星を喫したままの怨敵である。

 猫騙しの平手打ちで逃げられた屈辱は、根が深い。

 死神の活動が小休止している現在、折よく副顧問から公演に招待を受けた。しばらく触っていなかった台本を開いた理由はその程度のものだ。

 指導や監督を副顧問に任せていたとはいえ、受け取った台本は頭に入れてある。

 舞台を注視したまま器用にペンが走る手元を、映像係がのぞきこもうとして――文量におののいたきり、一切の余所見をやめた。


 主人公と、敵対する悪役。

 魅せ場が特筆して多いことから、この脚本の主役は彼らと評して差し支えない。主人公の為の舞台装置ではなく――何かの条件が違っただけの「主人公のイフ」として立ちはだかる悪役は、ある種、主人公よりも確固たる決意を抱く存在として描かれる。

 殺陣の多い悪役に憧れるからと。演目が決まった時、目を輝かせて悪役に志願した学生がいた。

『先生、基礎から厳しく稽古つけてください。……脚本がどうでも、勝ったのはこいつの覚悟なんだって、観た客全員にそう思わせたい』

「、――……」

 人の手による縫製の衣装をまとう人影が、客席後方の通路に紛れていた。

 スポットライトと無縁の暗闇で、彼と背格好の似た、彼ではない悪役が出番を待っている。観客の意識の外にある背中を、棗は呆れ混じりに眺めた。

――客席から登場させるつもりか。

 派手好きの副顧問がやりそうな演出ことだ。

 とはいえ裁量を一任した以上、指導に携わっていない人間が口を出すことではない。通路を演出に使うなら、演者の邪魔にならないよう、観客の荷物くらい整理させておけというくらいか――


 意識を戻した先の舞台に「悪役が登場していた」。


――舞台と、客席側に。悪役が二人?

 虚をつかれた思考に、落ち着きをなくしていく声が割り込む。

 映像係の視線は客席後方の通路に注がれていて、

「何だろ? あの人……っやだ、先生あの衣装、あいつの」

 仮面で素顔を隠した黒幕の衣装――それを着る役者など、もういないはずの。

 大仰にマントを翻し、堂々たる足取りで会場を出ていこうとする人影を、弾かれたように追いかけていた。


 忘れもしない背格好と黒ずくめ。

 こうもあからさまな記号に気付かないなんて、休暇ボケにも程がある。

――ふざけんなよ。死神がなんで、こんな場所に。

 大学構内の出店につめかけた来場者の群れを、黒い影がすり抜けていく。和装にコスプレ、半裸や着ぐるみ。祭りにかまけた喧騒では、豪奢な舞台衣装も風景と変わらない。

 人混みを分けて駆け抜けた風に白金の髪を乱され、一人の男が振り向く。

 すれ違った棗と同じ色の、柔らかな金糸を整えた。

「……いまの、陽介?」

 離れていく背中を、碧眼が射抜く。


 殺し屋『死神』の姿は、理学棟を駆け抜けて教育棟へ移った。

 文学部の展示がある二階、医学部展示の三階を一瞥いちべつもせず上へ。人の疎らな四階廊下を駆け抜け、死神の目的地を予感した。

――屋上だ。

 背中はもう見えている。

 殺し屋に続いてドアを蹴破る。投擲したナイフはマントに打ち払われ、ひるがえる黒の隙間からさらさら零れ落ちた。無力な金属音がこだまする。

 死神は、駆け抜ける速度そのままフェンスを越えた。

 外壁に固定された排水管、二階の屋上、雨よけ程度の屋根。飛び石に足場を伝い、ほんの数瞬で喧騒のただ中へと舞い戻る。

 野良猫じみた身軽さだ。

 好奇で集まる観衆も、驚き立ち止まる通行人も。躱し、飛び越え、全く減速しない。

 舌打ちしながら、棗もあとを続いてフェンスを越えた。身体能力フィジカル任せの手荒な着地で痛む脚に歯を食いしばり、離された距離を強引に詰める。

 重量のある外扉を癇癪任せに蹴破り、階段に消えようとする黒を追う。

――悪目立ちする黒ずくめは、視界にあるうちなら問題ない。

 階段を段飛ばしに駆け上がり、殺意でめつけた、直後。

 目前で閉じた扉に視線を切られた。


 内からの施錠と、ドアノブを回すのとは同時だった。

 がちゃがちゃと乱暴な音ばかりが無慈悲に響き、棗は即断で階段を駆けおり外へ向かう。

 あの部屋には窓がある。三階なら、死神は容易く飛び降りる高さだ。

 また逃げられる――焦りに背を押された。


 現代の白昼。死神の装束や舞台衣装も同様、黒ずくめは隠密性に著しく欠ける。

 ただし理解もしていた。欠点が反転しうる特性を、たった一つだけ。


 その記号さえ脱ぎ捨てれば、死神が死神であると、誰ひとり認識できなくなる。


 件の窓の下に死神はおらず、かといって部屋に気配もなかった。痕跡を残すことを嫌う殺し屋だ。衣装を持ち歩いている可能性は高い。

 まだ近くにいると囁く直感が、一人の男を捉えた。

 不自然なほど大きな紙袋を抱える腕を捕らえようとはやる足音が、

「久しぶり、陽介」

 見知った顔に、ひたと止まった。


 驚きに見開かれた棗の碧眼が、みるみる鋭利に嫌悪を滲ませる。

 露骨な拒絶をものともしない男は、棗と似通う涼やかな目鼻を親愛に細めた。

「誰か追っていたようだけど……その反応はかれた?」

「自分のせいだとは毛ほども思い至らない厚顔は流石ですね、お兄様」

「そうだね、邪魔をしたのはすまなかった。俺も手伝うよ。逃げ足の速さは厄介だけど、武人ふたりの敵じゃあない」

 そう微笑み、棗と同じ白金の短髪を揺らす。折り畳みの警棒をすらりと伸ばしてから「投げっぱなしは良くないよ」と、拾い集めたナイフを棗に返した。

「『棗』を敵に回すなんて、元気のいい賊だね。うれしいな」

 武家の血統「棗」の長兄、次期当主。なつめ晃一こういちの浮き立つ喜色は、弟からの凍る殺気に打ち消された。

「あれは僕の獲物だ。知った素振りで手え出すな」

「陽介は好きに追っていいよ。邪魔にならないよう援護する」

「頼んでないし目障りだって言ってんだけど。あんたの手を借りなくても首級くびくらい奪れる。すっこんでろ」

 目をつけた容疑者は立ち話をしている。呑気なものだ――

「陽介。俺があの家を変えたら、中央に帰ってきてくれますか」

「は? 無理」

 予測はしていた拒絶に、晃一は苦笑を隠さない。

 彼は今までも、自らの意思で家と縁を切った弟を呼び戻すため、どれほど無下にあしらわれようと接触を続けてきた。

 今日も同様。大学構内が一般解放されるイベントを幸いと北を訪れていた。

「俺はやっと、陽介が『家』を嫌う理由に気づけたよ。……お前はとても聡明で、優しい。……陽介もあきらも、旧い武家の体質に不遇を強いられている。俺自身、今のままではいけないと思っているんだ」

「へー、はいはいご立派。古きよき男尊女卑に長子至上主義、血統が絶対のお武家様がなんか変わんの? あんたがキャンキャン吠えれば?」

「変えていくさ。次期当主の俺が先導しないと何も変わらない。長子至上主義、血統が絶対。全くその通りだ。……なら。当主はどんな無茶も通せると思わないか?」

 忌々しい体質だろうと、使えるものは何でも使ってみせると笑う。

 その泥臭さは確かに、棗の知らない「兄」の顔だ――持つものの傲慢に反吐が出るのは変わらないが。

「父上と協議しながら、改革のための地盤から整えているんだ。陽介と暁が生きやすい家は、今よりも多くの人から支持される形だと思ってる。……そう変われたあかつきには、この家の為に、お前の力を貸してほしい」

「お兄様がたは中央に居る気なんでしょ。やる気ある人達で勝手にやって」

「優秀な弟達に恵まれた幸運を諦める気はないよ。それに、……暁にいい顔をしない臣は少なくない。身体の面で不利を被ることも多いから」

「当のお兄様が僕を忌み嫌ってんだろ。僕はあんなのどうでもいいけど、逆賊だなんだと謂れのない癇癪ぶつけてくる精神病患者に関心割けとか冗談でしょ」

 棗が吐き捨て、思い出してますます表情を歪める。

 自身を誇り高き騎士の生まれ変わりだと喧伝し、なつめを賊と罵る感情的な子供の声は、生理的に不快な部類だった。病気と片付け視界に入れないよう立ち振る舞ううち無関心な雑音とまで諦めがついたので今は穏やかでいられるが。

「……俺も止められなかった。すまない」「謝罪は要らない。誰とも知らない奴の暴言で傷ついてあげる心なんて持ち合わせないから」「本気で言ってるなら、俺は怒る」「赤の他人に構う暇があるとか、棗のご当主様は優雅でいいね」「……陽介、」

 先祖返りだ前生だと、訳の分からない理屈で動く「家」が理解できなかった。矮小な社会に嫌気がさし、相容れないから外に出たのだ。

 考える頭も手足もあるのだから。考えて選択し、この足で好きな場所へ行けばいい。その自由を選択できた初期環境には相応に感謝している。棗の姓を名乗り続け、家名に恥じない振舞いをすることは、不適合者なりの礼節のつもりでいた。

 ただ、それだけだ。最低限の折合いをつけたに過ぎない。

「僕は僕で好きにやってて不満は無いし、職も人間関係も北にある。それ全部捨てさせたうえ手前勝手な理想に付き合わすとかいう傲慢、言われないと解んない?」

 血縁に対して情は無かった。

 選びとった環境と、望んで得てきた立場と職務。腐れ縁に友人、部下、教え子たち。それらのほうがよほど価値がある。

「……暁のことを、迷いなく『兄』と呼んでくれる陽介だからこそ、一緒に居たいと思ってるんだよ。俺は」

 兄はもう、弟を引き留めはしなかった。

 また来るよと笑った声をかき消す早足で、棗の意識は容疑者の尾行と監視に移ってしまっている。


「たまには顔を見せてほしい。父様も母様も、心配してる」

 秋風が吹きつけ、寂しげな声を攫っていった。


 ■


 姉、榛名はるな彩乃あやのからのお使いを済ませた紫乃しのは、大学構内のお祭り騒ぎに圧倒されていた。

 正門から溢れる人の量におののき、外を歩けば十字架を背負った聖人が歩いている。道行く着ぐるみから貰った飴玉を口で転がしながら、廊下ですれ違った和装の女性を目で追いかけてしまう。アクション映画顔負けのゲリラスタントショーをやっているとの噂も聞こえた。

 自由すぎやしないか。

 来年には高校三年生。進路を考え始める身としては、呑気に文化祭を楽しんでばかりではいられない。きょう一日に垣間見えるものがよそゆきに飾られた一面だとしても、大学生活の華やかさには心が浮き立った。

 その度、罪悪感にずぶずぶと自分を沈めている。

 母は専業主婦、父は定年間近という現在、榛名家の資金的な柱は姉だ。四年制大学に通って学びたいことも、取りたい資格も見つからない状態で、負担を掛けると解りきった進路を選ぶことはできない。

 やりたいことすら分からない半端者だ。

 高卒の働き口も探せないわけではない。事実、就職に進路を決めるクラスメイトは少なくないのだ。資金面を憂うなら専門学校という選択肢もあるにせよ、肝心かなめの将来設計が白紙であるからお手上げだ。

 自問する声が堂々巡りする。隈が濃く残る姉の顔ばかり、ぼんやりと思い出す。

 足元ばかり見ていて、人とぶつかったことに気付くのが遅れた。

 革靴は男物と思われる、

「あ、えっとすいませ……、……」

 薄手のトレンチコートにマフラー、黒のスラックス。大きな紙袋を幾つか提げるその男が、知った顔だと気づくのにだいぶ掛かった。

 彼――雪平ゆきひらの表情からも、起伏が少ないなりに驚きがうかがえる。

 黒のベストと腰巻のエプロン。喫茶店主としての姿しか知らない大人が、急に一個の人間として現れたことに動揺する。混乱の隙間から本音が漏れた。「……え。なんでここに?」「店の配達帰りだ」

 普段から喫茶店主と客でしかない間柄だ。出先でばったり会ったとて、話しこむような親しさでもない。

 偶然ですね、ごきげんよう――と。すれ違おうとしたが、遅かった。

「いきなりの話で悪いんだが……いま帰るところなら、正門まで付き合って貰っても構わないか?」

「……は、え。あの…………なんでです?」

「……どちらかというと俺が聞きたい。やたら殺気が刺さるんだ……大学の外までは追ってこないと踏んではいるが、」

――それはあなたが白昼堂々コソコソと見せつけてたことに対する妬みとかじゃないすかね。

 紫乃が雪平を見かけたのは今が初めてではない。自分には縁のない風景だと白い目で流し見ること計三回。すべて違う女性と二人きり、うち二人とは人気のない建物の陰でそれなりに濃密なやつをしていた。

 初回こそ目を疑えど、所詮は覗きと変わりない。忘れてしまおうと即断していた。知らない他人ならまだしも、知った大人の所行だ。

「……何だ。じろじろと」

 珈琲色の暗い茶髪、崩した所のない落ち着いた衣服と。浮ついたところのない見た目になんとなく誤魔化されていた。つまるところ先入観でしかなかったのだが。

 寡黙で私生活を見せない大人の後ろ暗い部分を(わざとではないにせよ)覗き見てしまった気が

「見たのか」

――――、

「っいいえわたしはなんにも!! ……あ」

「……成程な。よくわかった」

 全身の血の気が引いた。

 偶然で事故だ。嗅ぎまわったわけでもなし、萎縮する必要があるかといえば無い。何を恐れているというなら――無遠慮に、他人の秘密に踏み込んでしまったことが怖かった。

 革靴が半歩、距離を置いた。紙袋が床に擦れる。

 しゃがみ込んだのだろう、声が近づいた。

「普通、気まずくなるのは俺だろう。……どうした。もしかして、気分でも悪いか」

 落ち着いた低音からは、純粋な心配がうかがえた。

「……えー、あの。気まずいんすか、やっぱ」

「いや。とくべつ見られて困るようなことじゃあない。……事故とはいえ、見せたことは謝っておく」

「、……浮気現場とかでもなく? わたしフツーに証人になっちゃいますよ」

「しない。それと俺に恋人はいない。昔の付き合いだ、今はどうもしない」

 あっさりした物言いに拍子抜ける。

 自分が怯えなくていいということは解った。罪悪感も多少は軽くなったが――それはそれで平然とし過ぎていて、会話が噛み合っているのか怪しくなってきた。

 そこはかとなく感じる温度差の正体は何だ。

「付きまとわれそうな気がしたからあしらっただけだ」


――あ、これは、ホンモノの慣れてる人か。うっわ初めて見た。


 好きな人に気持ちを伝える勇気すらない人間とは、何階層か違う文化で生きている人種だ。多分、そう。

 強く頭を殴られた痺れと、ぼんやりした諦めに近い納得が、紫乃の動揺を急速に鎮めていく。気負わずに上げた視線がぶつかった。

 まあ、――中年間近とか聞くわりには、未亡人みたいな色気あるとは思ってたけど。

「……分かりました。たいへん参考にさせていただきます……あ、正門でしたっけね。行きましょか店長さん」

「? ああ、……その切り替えの早さは、聞いてもいいのか」

「ええまあ全然。なんか別世界過ぎて、今んとこ一周回って気楽っす。ちなみに恋愛相談とか受け付けてくれます?」

「客のいない時間帯なら考える」

「あざまぁす」

 紫乃の乾いた笑いが、階段に満ちる喧騒に紛れた。

「ネ、……えっとー、恋する乙女的に参考にしたいので昔の武勇伝とかよろしくお願いします」

「断る」

「あっはい、無いわけではないと。……店長さん嘘つけないってホントなんすね。どうやって女の子転がしてたんすか?」

「……雨屋あめやだな。…………しょうもない出まかせしか言えないのかあれは」

「店長さんが分かりやすいだけなんで安心してください。なんかおもしろ……ああいや。なんにも」

「………………」

「もしかしてアレですか。配達先でインスタントにストーカーでもできちゃいました? その辺くわしく教えてくださーい」

「……面倒そうなのに見つかっただけだ。何もない」

「そっすかー」

 目的の正門に辿りついてから、別れの挨拶に余計なことを付け加えて意地悪くニヤつく。

「本命は、店長さんがパフェとドリンク奢ってた、ピンクの美人なおねーさんですか?」

「そこまで見、……頼むからそれだけはやめてくれ。頼む」



 棗の溜息が白く染まった。

――調査を続けているにもかかわらず、いまだ尻尾は掴めていない。

 喫茶店のドアを後ろ手に閉め、人を飲み込めそうな雪深い道を黙々と踏み分けていく。

 雲の無い夕暮れ時、冬の澄んだ冷気は無数の針に似て刺々しい。

 深い雪に残る足跡は、急いて顔を出した夜の色を、影のうちに淡くうつしていた。


 雪平の素性に綻びは無かった。

 ただの自営業の、婚期を逃しそうなだけの一般男性。調べるほどに裏付ける証拠が見つかるだけだ。それでも、――棗の直感が、安直な結論に納得することを許さない。

 街灯が照らせない暗がりに足を踏み入れた、その歩みが止まる。

「無駄だ。あの店主は『死神』ではない」

 以前あった、不審電話の声。

 棗の進行方向に立ち塞がる女は、雪の中に直立不動だ。コートの隙間から漏れる白い息だけが、彼女が生きた人間であるらしい事実を表して、肌を刺す冷気に溶けていく。

 初対面である彼女に、棗は言葉を迷わなかった。

「君の出番はもう終わったろ? さっさとおうちに帰りなよ、東の女狐」

「……やはり貴様、すべて理解したうえで、傍観していたか」

「傍観? 僕はあいつが発狂しようと殺されようと鬼化しようと中央に騙されたまま飼い殺されようと心底どうだっていいね。むしろ死んで欲しいくらい」

 表現は不適切だ、と。嫌悪一色の視線を浴び、彼女は口をつぐむ。

 不機嫌な声はなおも畳みかけた。

「黙ってて下さって有難うございます、だろ。羽住はすみとかいった? 君が化けて成り代わった、研究員の名前」

 指摘に対し、動揺の気配すら窺えない。

 羽住の声は未だ、ごく事務的に発されていた。

「私の名は現在も羽住だ。ただし貴様の言う通り、中央の、ではない」

「あっそ。まあ、どんな説明したか知らないけど、ヒグマ相手に『黒の歌姫』理解させた実力には恐れ入ったよ。スパイより教育者の方が向いてるんじゃない。……ああ、猛獣の調教師の間違いか」

溝鼠ドブネズミに余計な知恵を付けたのも貴様だな」

「過ぎたこといちいち気にすんのやめたら? 禿げるよ? ていうか君んとこは、そんなのどっちだってよかったんじゃないの」

 そして棗にとっても。真実「そんなの」に興味はない。

「情報があるとか言ってたね。この僕にお願い事があるなら、相応の礼儀ってものがあるんじゃない?」


 雪に落ちる影が、夜の色味を増していた。

 街灯の橙色がほんの微かに映りこみ、藍はいっそう深く際立つ。

「……確かにあの鼠より、貴様のほうが適任か」

 羽住の呟きが白く凍る。吐息の霞が解ける前に、次の句は発された。

「中央第二研究室室長代理、改め。

――不死者及び第一級危険特別犯罪対策組織、所属。羽住だ」

 懐から取り出したのは、金色の記章。

「我々の組織に、貴様を勧誘に来た」

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