カコミルウォッチ

『――それでは改めて、ワタクシの説明をさせて頂きます』


 腕時計の姿をしたソレ・・は、自らを身に付けた青年にそう告げた。


『ワタクシ……ウォッチ型自律式レンタルタイムマシン『カコミルウォッチ』は、過去の往復専用のタイムマシンです。ワタクシを起動する事で、たった一度、十分間だけアナタを過去に送る事が出来ます』


 その説明を、青年は黙って聞いている。どこか生気のない、やつれた感じの青年だった。


『アナタが過去に行って行った事は、ワタクシを通して総て記録されます。過去に行って十分が経過すると、自動的に元のこの時代に戻ります』

「その間にやった事が原因で、過去が変わってしまったら?」

『過去の改編が行われた場合、その時間軸は改編された過去のまま進んでいきますが、我々が戻る未来は改編前の今の未来となります。つまり、今が変わってしまう事はありません』

「僕自身は何の影響も受けないって事だね」

『はい。もっとも過去改編を行った者は、その場でワタクシが流す猛毒により処分される決まりですが』


 青年の喉が、微かに鳴った気がした。それを意に介さず、ソレ・・は淡々と続ける。


『もしも過去を改編したり、そうでなくても何かのアクシデントで過去にいる間に死亡した場合は、十分を待たずその場でこの時代に戻されます。ここまでで何かご質問は?』

「……どんな行動が、過去を改編したとみなされるのかな」

『過去の人物との接触、及び過去の物質の移動。そんなところでしょうか』

「本当に、『過去を見る』だけなんだね」

『名は体を表すと言うでしょう?』


 そう言ったソレ・・に、青年はクスリと笑った。それは、青年がソレ・・に初めて見せた笑顔だった。


「ああ、そうだ。君の事は何て呼んだらいいのかな?」

『決まった名は設定されていません。好きな名前でお呼び下さい』

「それじゃあ……ウォッチさんでいいかな。短い間だけどよろしくね、ウォッチさん」

『はい。ではそろそろアナタを過去にお送りします。準備はよろしいですか?』

「ああ、頼むよ。行き先は今から十五年前、二〇一九年十月一日の午後四時だ」

『畏まりました』


 ソレ・・――ウォッチさんの言葉と共に青年の周囲の空間は歪み始め、やがて彼がいた深夜の歩道橋の上からその姿を掻き消した。



 青年が気が付いた時、彼は歩道橋の上に立っていた。だがそれが今まで立っていた歩道橋ではない事は、青年にはすぐに解った。

 まず、深夜だった筈の周りは明るい昼下がりへと変わっていた。そして最近改修され、新しくなっていた筈の歩道橋が改修前の古いものに戻っていた。


「……本当に戻ってきたんだ」


 歩道橋の下の車の流れを眺めながら、青年が呟く。少しだけ傾いた陽が、そんな青年を優しく照らす。

 ふと青年が歩道へと視線を移すと、一組の母子連れが歩道橋の階段を上るところだった。母親のお腹は大きく、中に新たな命を宿している事が見て取れる。


「……あれは僕の母と僕、それから弟だよ、ウォッチさん」


 それを懐かしむように見ながら、青年は言った。


「いつもこの歩道橋を通って、僕らは買い物に行った。今となっては本当に……本当に幸せな時間だったよ」


 そう言うと青年もまた、階段へと歩いていく。そして母親が歩道橋の一番上に足をかけた、その時。


 青年の手が、母親の体を強く突き飛ばした。


 呆気なく、あまりにも呆気なく母親は宙を浮き、階段を転げ落ちていく。隣にいた子供が、呆然とその姿を見つめる。

 階段の一番下で、やっと母親の動きは止まった。その頭と下腹部から見る間に血が滲み出し、母親を血の海に沈めていく。


「……弟は、生まれつき難病だったんだ」


 青年が、ぽつりと呟いた。その顔からは、何の感情も読み取れない。


「そのせいで父さんと母さんは喧嘩ばかりになって、やがて離婚した。母さんは一人で弟の治療費を工面しなくちゃいけなくなって、どんなに働いても足りなかったから、色んなところから借金をした。僕らは毎日、取り立て屋に怯えてた」


 異変に気付き、道行く人々が母親の側に集まり始める。中には面白がって、動画を撮る者もいた。


「僕は中学を卒業してすぐ働き始めた。家族を助けたかったからね。それでも遂に治療費を払えなくなって、弟は家で苦しみながら息絶えた。それからすぐ、母さんは自殺した」


 子供――過去の青年は、未だに泣きもせずただその場に棒立ちになっている。恐らくは、目の前の現実を受け止めきれていないのだろう。


「弟は最期にこう言ったよ。『皆の人生をメチャクチャにする為だけに生まれたのなら、最初から生まれてこなければ良かった』。だから僕はここに来た。弟の体も、心も、苦しむ事のない未来を創る為に」

『……何故、それを、ワタクシに聞かせたのです?』


 それまで黙っていたウォッチさんが、静かに言った。咎めるでも同情するでもない、無機質な機械音声。


「さぁ……ただ誰かに聞かせたかっただけかもしれないし、赦しを得たかったのかもしれない。そもそも弟の為なんて方便で、自分の人生をメチャクチャにされた復讐がしたかったのかもしれない。僕にはもう、何も解らないよ。解るのは、罪を犯した僕は罰を受けるという事だけだ」

『……そうですね。では……永遠に、さようなら』


 ウォッチさんがそう言うと、青年はまるで糸が切れたようにその場に倒れた。直後に辺りの空間が歪み、青年の姿はその場から消えた。

 後には、ただ、立ち竦む過去の青年だけが残された。

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