29. 絶対温度マイナス99°

 視界を綿アメの様な真っ白い雲が覆っている。分厚くて硬そうな雲が視界の下方を水平線にまで広がっている。視線を少し上に向ければ真っ青な空、明るい青から黒に近い群青へと続くグラデーション、が広がり機体以外に視界を遮るものはない。


 有希は成層圏の最下部にいた。高高度飛行船の狭いキャビンでリクライニングシートに深く腰かけ横になっている。浦上が後ろの座席に座っているが甘い雰囲気などこにもない。有希からは幾本ものケーブルが生えており、脳波計、心電図、血圧等々の測定機につながっている。そして、隣には医師と看護師が有希の状態を監視しており、具合が悪くなった時に備えている。魔法の連続行使による低血糖に備えるため、点滴も準備されていた。


 浦上は、背後の座席に無理やり積み込んだ急ごしらえのMAAD=Magic Asist Agetn Device(魔法補助仲介装置)の本体を覗き込んで最後の調整と確認を行なっていた。

 パイロットとコパイは操縦室コックピットにいるのだろうがここからはわからない。


 彼らが搭乗しているのは、滝沢が苦労して手配した高高度遊覧飛行船(2030年代には実用化されていた)である。高高度飛行船は成層圏の下層部を安全に飛行することができる。これを使えば対流圏の活動である台風の影響を受けずに観察できると言うわけだ。


 あまり台風に近づくと魔法による影響が心配だが、離れると魔法の精度が悪くなる。そのギリギリの場所に留まり準備を進めていた。

 浦上が操作している機器は、成層圏プラットホームのドローンを経由してオペレーションルームとつながっている。オペレーションルームに集まる情報やシミュレーン結果がリアルタイムに中継され共有されていた。


 浦上は、作戦開始タイマーの残り時間を確認して有希に声をかけた。


「あと、五分で第一段階フェーズワンが開始だ。

 大丈夫だからな、俺が全て見ている。有希、君は俺が守る」


 有希はMAADのイヤーチップを耳にはめているので声は聞き取れなかった。でも、表情と口の動きで浦上が何を言ったかは伝わっていた。

 目の前にはモニタがふたつ固定されている。大きい方のモニタにはオペレーションルームの様子と皆んなの顔が写っていた。聞こえないけど言っていることは判った。


「がんばってね!」


 エールに笑顔で答えた。



 最後の確認をしながら、浦上はこの作戦のことを相談された時のことを思い出していた。


『君の冷却魔法で空気が凍るというのは本当かね』仲本の質問から始まった話の要点は以下の様だ。かつて台風やハリケーンをコントロールするためにドライアイスやヨウ化銀を台風やハリケーンに撒く実験が行われた。それらの実験の結果は芳しくなく結果的に中止になっている。それはそうだ。ドライアイスを撒いても膨大な空気の流れに対してどれほどのものか。微々たる効果しかなかった。ヨウ化銀は雨のタネになり台風の持つ湿った空気の水分が早めに雨となって降ることで勢力を削ごうというものだ。だがいくら雨を降らせても暖かい海面から供給される大量の水蒸気が台風の力となる。さらに、水蒸気が雨粒になる時の凝結熱が台風にエネルギーを与える。結局、ほとんど効果がなく計画は中断されたのだった。

 仲本は言う。海面付近の空気を、海面温度を下げなければ効果がないのだと。君の魔法、いや君たちの魔法があればそれが可能なはず。わずかでも海面温度を下げれば、供給される水蒸気は減る。そうすれば台風はエネルギーを消費して弱くなっていく道理だ。


 浦上は、シートの隙間から顔を突き出して有希の顔を覗き込んだ。有希は微笑み返しひと事告げた。


「準備OKだよ」



 ―― ◇ ◇ ◇ ――



「先輩どおしたの? ニヤニヤして気持ち悪いよ」


 機器の調整と確認を行っている浦上の横で体育座りをした有希は満足そうにコーヒーを飲んでいる。左手にはハンバーガー。この時代肉は貴重品だ。これは彼らに支給されたボーナス特別賞与だった。


「うん。いや、昔のことをね。

 俺と有希の最初の共同作戦を思い出していたんだ」


 地面に転がる測定器を拾って浦上は確認する。


「台風二十四号の?」

「うん。あれも大変だったけど。今回の作戦はいよいよ地球の環境を変えようってんだからね」

「あの時は、飛行船まで影響が及んで大変だったよね」


 有希は、ウンウンと頷いている。

 浦上は取り上げた測定器を地面に掘った穴に次々と埋めている。手を止めて感慨深げに述懐した。


「でもあれで、世の中の流れが変わった。世界が魔法の持つ可能性を認識した事件だった。まあ、その後はいろんな意味で大変だったけどね」


 有希の頬がぷくっと膨れる。


「そうだよ。あの後、先輩アメリカに行っちゃうし。私は大学があるから日本に居残りだよ」

「休みの度に俺んとこ遊びに来てただろ」

「でもー、あれは半分仕事だったよ」


 横を向いて拗ねてしまった。


「仕方ないだろう。各国の政治家、軍部、科学者や魔法学者と渡り合って。もう大変だったんだからな。みんなの協力で乗り切れたけど、そうれはもう……」

「判ってる。だから今ここにいるんだもの。

 あした、頑張ろうね」

「おう。

 よし、こんなもんだろう。これで設営は完了だな」


 そのとき通信機が雑音を立てる。定時連絡だった。

 浦上は通信を切ると真上寺に話しかけた。


「ほかの連中チームも予定通り、定位置についたそうだ。

 作戦実行まであと6時間、少し仮眠を取ろう」




「ねえ、先輩。

 前から気になってたんだけど」


 寝袋に潜り込んだ有希が、隣に同じように横になった浦上に話しかけた。うっすらと掛った雲に常昼の沈まぬ太陽の光が反射して空は明るくテントを照らし、寝付けなかった。


「うん? なんだ」

「この作戦名、『絶対温度マイナス99°』ってへんじゃない。温度は絶対零度以下にはならないはずでしょ」

「ああ。それは、って。お前。自分の魔法の性質理解してないのか?」

「わかってるわよ。『多元量子宇宙ブリッジ魔法』だよ」

「おう。それで、干渉領域内の空間が量子定数の近い宇宙へアインシュタイン=ローゼンブリッジで繋がる。どこに繋がるかはパラメータ次第だがな」

「アインシュタイン=ローゼンブリッジってワームホールだよね」

「その通り、この場合には量子サイズのワームホールで繋がる。繋がった先の宇宙の真空のエネルギー値がこの宇宙より小さければ相対的に絶対零度以下になるわけだ。この宇宙の最低エネルギー=絶対零度より低いわけだからな。本当にマイナス99°てわけじゃなくて、語呂がいいからな」


「さすが、理論派の先輩。私は実技面は自信あったけど、理論は弱かったから」

「俺は、老師の指輪を使った空間遮蔽がせいぜいだった。でも、それで君を守れる。

 本番はよろしく頼むぞ」

「うん。こちらこそ、よろしくね。

 おやすみなさい」

「おやすみ」


 氷原を吹き抜ける風。テントに当たる氷の欠片のポツポツ言う音を聞いているうちに有希は眠りについていた。


 真上寺は夢を見ていた。

 自分は片手にMAAD魔法補助仲介装置を持ちディスプレイを見つめている。両耳につけたイヤホン状の装置からノイズが流れている。いや、普通の人間にとってはノイズにしか聞こえない。だが、魔法感覚のある人間がこの装置を両耳に装着すると、超音波を搬送波とした魔法式が頭の中に複雑なパターンとして浮かび上がる。そこにディスプレイを通して、視覚から流れる込むパターンをパラメータとして、施術者の無意識域に存在する魔法演算領域に入力する。目の前の空間が歪み始める。単純な魔法ならこんな面倒なことはいらない。特定のトリガーと自分の意思で自由に使える。だが、これから使おうとしている魔法は、複雑で微妙で失敗が許されないものだった。そのとき、空間に穴が開く、その向こうに虚無の冷気を感じた瞬間、穴が広がり始め全てを飲み込んだ。


 有希は悲鳴とともに飛び起きた。心臓は激しく波打ち、乾いた口が空気を求めて大きく喘いでいる。冷や汗で額が冷たい。


「有希! 真上寺!

 大丈夫か。しっかりしろ」


 浦上は有希の背中に手をやり、力づけるよう静かな声で語りかけた。


「いつもの、嫌な夢を見た。魔法が失敗してあっちの宇宙にこっちが飲み込まれる」


 真剣な表情で有希の顔を覗き込んでいた浦上がにこりと笑う。


「なんだ、有希らしくない。いつもの自信はどうした」

「わたしだって。人間だよ。不安になることだってあるよ」

「そうだな……」


 浦上は、少し間をおいてボソリと話しかけた。


「俺は知ってるよ。有希がどれだけ努力してきたか。才能だけであの魔法をあの規模で使いこなせない。

 大丈夫だよ。絶対成功する」


 最後は、自分に掛けた言葉でもあった。プレッシャーがあって当たり前。自分たちの任務と責任の重さを自覚しているからだ。


「さあ、起きて準備しよう」

「わかった」


 不安を自信でねじ伏せて彼女は起き上がった。




 有希は、左手にMAADを持ち、氷原に掘られた穴から顔を出して外を覗いている。穴の中は差し渡し1.5mほど、すぐ後ろには浦上が座り込み通話機で話している。


「よし! 他の連中チームもスタンバイした。

 予定通り、さんまる・まるまるに作戦を決行する」


 そう言うや否や手に持つMAADを操作する。

 右手の薬指には老師にもらった指輪が光っている。浦上はチラと指輪に視線を落とし心の中で祈りを捧げた『老師、今度も俺たちを守ってください』。同時にカバンの奥底に眠る紺色のビロードに包まれた小箱(中に綺麗な宝石の指輪が入っている)のことが意識を掠める。『あれは全てが終わってから』そう自分に言い聞かせ、意識を全て進行中の作戦に振り向けた。


 有希の持つMAADと彼方のコントロールセンターのリンクが繋がる。センターから解除信号が送られ、MAADの起動ロックが解除される。彼女のもつMAADはこの作戦のために特別に調整されたもので、多重に安全装置が設定されていた。

 MAADが起動するタイミングに合わせて。遥か彼方の様々な地域の複数の手が解除ボタンを押し、次々にロックが解除されていく。最後に米国大統領がもつロックが解除された。


 複数のタイマーが始動する。それを確認すると浦上は意識を自分のMAADに表示されているパターン魔法式に集中した。後はミリ秒以下の誤差で自動的に魔法が発動する(はず)。


 3・2・1、最初のタイマーが0ゼロになる。途端に二人を不可視の魔法障壁シールドが包む。ひと呼吸おいてその外側をキラキラと鏡面のごとく光を反射する障壁が現れた。事象遮断魔法が発動し内側は外側の空間から物理的に遮断されたのだ。地面に埋まっているので境界はほとんど見えない。


 数秒をおいて彼らを中心に直径十キロの範囲が暗闇に包まれた。殆どが地面の下だったが地上部高度二千メータまでの空間が暗闇に包まれた。


 有希の魔法が領域の量子定数に干渉したのだ。発生した量子サイズのワームホールが領域内の光子を他の宇宙に転移する。荷電対称性に縛られない光子(輻射)だけが保存則に縛られずに他の宇宙に転移された。電子も核子も光子を放出して最低エネルーギーに落ち込んだ。物質の温度が瞬間的に絶対零度まで冷やされたのだ。まさしく絶対温度マイナス99°。三秒をおいて空間に光が戻った。魔法式に組み込まれたパラメーターが役目を果たし、厳密なタイミングで魔法を解除したのだ。同時に距離を置き五カ所ではるかに小規模ながら同じ現象が起こった。

 これが最も効率よく世界を冷やす方法だった。


「作戦、第一段階終了」


 有希が報告し、浦上が頷く。

 二秒をおいて浦上の空間遮断魔法が解除された。途端、物理空間の断絶が回復する。有り体に言えば視界が回復した。ここまでは予定通りだ。


 常昼の極地の太陽の光が目を刺す。あたりの風景は全く違っていた。一面水色の雪に覆われている。さらに水色の雪が降り注いでいた。


「わあ、綺麗」


 有希が思わず声をあげる。


「有希。厄介ごとはこれからだ。地面に張り付いて衝撃に備えろ!」


 まだ、球殻状の魔法シールドは保持したままだ。外側への反発と内側への吸引をミリ以下のサイズで何重にも重ね物理的シールドとしている。

 彼女が伏せるのを目の端で確認し、浦上が顔を引き締める。MAADから流れ込む魔法式に意識を集中する。指輪に蓄積した魔力が浦上に流れ込み続けて、魔法シールドを維持している。魔法感受性のある人間には彼は光に包まれているように見えたことだろう。


 彼方から白い壁が音速で近づいてくる。見る間にこの場所に到達しあたりは白煙の嵐に包まれた。と同時に耳をつんざく轟音と衝撃に襲われる。激しい衝撃が浦上の魔法シールドを揺さぶる。

 衝撃が浦上の事象改変力を越えればシールドが破れてしまう。このために二年間を訓練に費やした。自分の魔法に自信はあったが、余裕は無かった。

 有希は、地面に伏せていたがそれでも振り回された。地面に座り込んでいる浦上から離れないように彼のそばに止まろうと踏ん張っていた。浦上は額に玉の汗を浮かべシールドを維持している。嵐は歴史上、いや地球史上最大のものだった。それを浦上の魔法が防いでいる。少しでもシールドが破れれば…… 。結果は想像もしたくない。


 嵐は十五分も吹き荒れただろうか、原因は有希の魔法だ。冷却に成功し、あたりはほぼ絶対〇度まで温度が下がった。つまり、空気も結晶し雪として降り注いだのだ。結果真空となり、それを埋めるように周辺の空気が音速で流れ込んできたのだ。


 30分もするとだいぶ落ち着いてきて、浦上はシールドを解除することができた。それでやっと有希は胸をなでおろした。彼女は、精も根も尽き果て地面にへたり込んだ浦上に思わず抱きついた。

「先輩、守ってくれてありがとう。そして作戦成功おめでとう」

 彼女は自分の行動に呆れ、照れ隠しと純粋な喜びから成功を祝った。この成果はリーダーの彼が受けるべき名誉なのだ。


 まだ強い風が吹いているが立っていられないほどではなくなってきていた。吹き込んできた空気によって水色の雪は揮発していた。あたりは水蒸気が凝結した濃い霧に包まれたままだ。


「おう、有希もお疲れ様。この成果はお前の魔法があってこそだからな。

 まだ、油断はできないが。まずは成功だな」


 大きく頷く。


「あとは設置したうめた機器による経過観察の結果次第だ」


 浦上は、通信機で基地に報告を入れたあと有希を振り返った。


「あと三時間ほどでヘリが迎えに来てくれる。他のチームも大きな被害を受けたものはいなかったようだ」

「えー、ヘリで来れるんじゃない。ここまでの苦行はなんだったの」

「帰りはロープで釣り上げられるからな。なんとでもなる。

 しかし来るときは機材もあるし、足場が悪すぎて降下では無理だったんだよ。

 それより、基地に戻って次の作戦に向けて待機だ。

 『絶対温度マイナス99°』作戦は始まったばかりだ」


「えー、分かってたけど。人使いが荒いよー」


 彼女の声は、二十年ぶりの雪原に響き渡った。

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