6
初めて降り立った日本の大地は、意外なほど綺麗だった。綺麗だと感じた、と言った方が正しい。そしてそれは僕に日本人の血が流れているから、この国の雰囲気がどうしようもなく肌に合うのかもしれないなと思った。
異国や異文化に触れた時、人はどうしても違和感を感じる。そこで暮らす自分がどうしても想像できない。そしてその感覚は突き詰めれば汚さと同じように感じるのだ。その物体を物理的に触ることができない。穢れを感じて避けてしまう。
ここにはそれがなかった。故郷に帰ってきたという感覚を、僕は生まれて初めて味わっているのかもしれない。
日本には人工筋肉の研究所と工場がある。管轄はWHOと、西澤グループで、その存在は限られた人物しか知らされていなかったみたいで、フラメルさんも知らなかった。そして人工筋肉の工場というと、つまり実態はゾンビの生産場であった。
ゾンビとは、パンデミックの時代の、ある特定のウィルスに感染した人物を指す俗称である。知能を大幅に低下させ、運動能力を大幅に上昇させる。非感染者は感染者の唾液や血液を経由して新たに感染者となる。
人工筋肉の原料となるのは、この感染者の筋肉だった。WHOは死んだ人間の肉体を日本に集め、ウィルスを投与し、感染者へと変容させ、その肉を収穫した。
わざわざそんなことを行なったのには主に2つの理由がある。1つはその筋肉の強靭さである。感染者となった人は、暴走に近い運動をし続け、食欲に従い、健常な人間を襲う。その膨大な運動量に耐えるために、その筋肉はしなやかに、そして強いものに変化する。その強さこそが素材として感染者の筋肉を使う理由だ。
もう1つは、サイコドライバーに関することだ。
人類はパンデミックに陥りながらも、感染者の研究を進めていた。そしてその結果、ある特定の波長をもつ音を聞かせることで、感染者に簡単な命令を下すことができることを解明した。その特殊な波長はコードと呼ばれた。
コードはパンデミックの収束後もさらなる研究が続けられた。音ではなく、脳に直接、特定の電気信号、すなわち脳波を流すことで感染者をより詳細に操ることが出来ることがわかった。研究はさらに続き、おおよそ人間という枠を超えるような変形を感染者の肉体に与えることができるまでになった。その変形性こそが人工筋肉の礎であった。
研究の進捗に呼応するように人間も進化してきた。それは感染者なのかナノマシンの普及が理由なのかはわからないが、人間は微弱な電気信号を送れるという能力を手に入れた。そしてその中でも、コードに相当する波長の電気信号を発することができる人間をサイコドライバーと呼ぶようになった。
「幻滅しましたか?」
僕の眼前に座っている、スティーブン博士がそう尋ねてきた。彼はここ日本の研究所で働いており、僕らを出迎え、ここまで案内し、今は応接室でお茶を飲みながら感染者について教えてくれているところだ。
彼はサイコドライバーの教育にも携わっており、ハイスクールのカリキュラムを組むことにも関わっていた。つまり僕は彼の教えに従って育ったとも言える。
「幻滅、というと、何に対してですか」
「職場と、アメリカに対してです。多くの情報を隠してきたわけですから。裏切り者と言われてもおかしくないですよね」
その言い方だと、彼自身も裏切り者になる。
「どうですかね…ナノマシン社会の継続を選んだ時点で、僕たちは自分自身の生殺与奪権を国に委ねたようなもんですから。今更そんなこと言うのもアレですし、生まれた時にはもうそんな社会だった僕が言うのも尚更のことでしょう」
「そうですか。変わった方ですね。あなたも。お若いのに落ち着いていらっしゃる」
そうやって責めて欲しかったんじゃないか、本当は。変わってるのはそっちもだし、やっぱり僕は大人なんかじゃない。
「さっきの話について、1つ質問いいですか。その言い方だと、人間はみんな電気信号を出せるっていうことですか。俺はそんなことできないし、やろうと思ったこともないですけど」
ウィーランドが割って入ってくる。博士はお茶を1口啜ってから答えた。
「そうです。ちゃんと訓練すればできるでしょうし、なろうと思えばサイコドライバーにもなれるはずです」
「本当ですか。なんで訓練させてくれないんですかね。」
「単純に費用対効果があってないんですよ。サイコドライバーになれるといっても、本当になれるだけで、ものすごく簡単な構造のものを、簡単な変形だけさせられる、といったことしか一般人はできないんです。義体を動かすとかになると、結局ほんの一握りの人だけになる。」
「へえ、そうなんですね。ところで博士、聞いといてなんですが、良いんですか、そんなことまで喋って。機密情報でしょう。さっきの人工筋肉のことも」
博士は少し自嘲気味に笑った。先程から彼はどことなく他人事のように喋っているように思えた。
「わざわざここまでお越し頂いたわけですから。これくらいの情報は喜んで話しますよ。救ってくれるんでしょう?あなた方が世界を」
スティーブン博士は白衣のポケットから小さな箱を取り出して、中身が見えるようこちらに差し出した。
「あなた方も吸いますか?」
「タバコ、ですか」
「大丈夫ですよ。このあたりは人工衛星の目が来てないんです。機密保持の理由でね。回線もオフラインでしょう。バレることはありませんよ」
「いや、そういうことじゃ…」
「ああ、初めてですか。大丈夫ですよ。大したもんじゃありません。自作の手巻きですが、そんなに重くはないですし、体験しとくべきです」
言われるがままに僕らはタバコを咥えた。火をつけて、1口吸った瞬間、僕は大きく噎せた。苦しくて涙が出る。博士は笑っていた。ウィーランドは、これも経験があるようで、慣れた調子で吸っていた。
「ははは。いい経験だったでしょう?自分が取り締まるものは何か知っておくべきです」
たしかに彼の言うことにも納得できるところはある。そして、彼の語り口は…まだ、我々の世界が元に戻れると思っているようだった。
「1番恐ろしいのは、あなたのような存在なんですよ」
博士は僕の方を見た。
「あなたのような、ルーツがアメリカにない人は、アメリカに対する帰属意識が薄いですから。まあ、当たり前の話ですけどね。サイコドライバーの教育は国に奉仕せよっていう精神を刷り込むようなものだったでしょう?アレはクーデターを起こさせないようにするものだったんですけど、やっぱり異人種にはどうしても効果が薄い。彼女は良い例ですよね。現在進行形で世界は大変なことになっている。」
凛は自分で証明しようとしたんだろうか、サイコドライバーの恐ろしさを。逸脱した存在になるのを、君は恐れていたんじゃないのか。
「凛と会ったことがあるんでしょう。彼女は…どうでしたか」
僕は博士に聞いてみた。僕の知らない凜は存在したかどうかを。
博士はもう1口お茶を啜り、空になった湯飲みを見つめながら言葉を紡ぐ。
「美味しいでしょう。これは正真正銘日本産のお茶です。感染者は正常な人間を襲うので、たんぼとか茶畑は結構残っているんです。日本を立て直そうという計画はきちんと遂行されているんですよ。屍肉の生産工場以外にも」
博士は、ふう、と1つため息をついた。僕は彼の目をじっと見ていた。彼女に関する全ての情報を聞き逃したくなかった。凛に置いていかれたくなかった。
「彼女が日本に来たのは、ハイスクールを卒業してからすぐでした。彼女にもこのお茶を振る舞った。気に入っていたな。ここの施設については、あなたと同じような反応でしたよ。人工筋肉の真実を知って、少し驚いていましたが、納得したというか…最終的にはあまり驚くに値しなかったようですね」
「彼女がここに来た理由はわかりますか」
「詳しいことは分かりかねますが…自分のアイデンティティを探しに来たんだと思います。アメリカに帰属意識を持つことが出来なかったから。しかし、ピンと来なかったみたいです。その後どこに行ったかは分かりません。ただ、知ってそうな人物なら紹介できます」
「是非。どんな方ですか?」
「橘武史、彼女の義父です。今はインドにいるはずです。」
少しずつ、本当に少しずつだが、凛に近づいている。
それはひどく個人的な感情に思えた。僕は彼女に会いたい。彼女を知りたい。ハイスクールを卒業してから何をやっていたか。何故こんなことをしているのか。それは任務であり世界のためであったが、僕にはそんなことはどうでも良いように思えた。
僕は彼女と踊りたい。
「すいません。せっかく来ていただいたのに、大した情報も無く」
「いえ、貴重な情報です。すぐに出発しようと思います」
ウィーランドが答える。フラメルさんと飛行機のパイロットに連絡を取ろうとして、ここでは電波が通じないことを思い出した。
「送りましょう。御手洗いは大丈夫ですか。カフェインは利尿作用がありますから。大丈夫なら行きましょうか…」
「何か騒がしいですね」
外に出て、博士がそう言った。確かにそうだった。飛行場には車で向かうのだが、駐車場は生産場のそばにあって、そっちの方から何かがぶつかるような音が聞こえるが、何が起きてるかは見えなかった。トラブルは避けたいものだが。
「大きな音がなってますが…結構あることなんですか。工場だから?」
ウィーランドが尋ねる。
「いえ…私は普段はあっちに行かないんで分かりませんが…あまりない事だと思います」博士が答えた。
ウィーランドが拳銃を構えて、場に緊張が走った。僕も同意見だった。ここはゾンビを作るところで、僕らは異物だ。僕が前、ウィーランドが後ろをカバーする。
まずい事が起こったとして、あり得そうなセンは、例の教団の奴らが来たか、若しくはすでにここにいて、僕らを狙ってきた。または、ゾンビが脱走してパニックのどっちかだ。僕らは人とは戦い慣れてるが、ゾンビとは戦ったことがない。教団の方がマシだなと僕は思った。そして、1番最悪なパターンは教団の奴らがゾンビを操って暴れさせているやつだ。
突然、人が目の前に飛び出してきた。作業服を着た男だ。
「工場長」
博士が呟く。僕は既に、その工場長と呼ばれた男に銃を突きつけている。
僕は迷う。殺すか、止めるだけにするか。
「た、たす———」
目は口ほどに物を言う。その目は、自殺者のそれでも、東欧で見たテロリストのものでもなかった。僕はすんでのところで引き金にかけた指を止めた。
「———助けてくれ!」
男は掠れた声で言った。ひどく焦っていたようだ。そりゃそうか、恐らく殺されそうになって逃げて、また今度は僕に殺されそうになったんだから。
「殺しませんよ。我々はアメリカ軍です。何が起きているか、説明できますか」
アメリカ軍と聞いた時、男は少し驚いた顔をした。それから、一応何か答えようとしたようだが、声が出なかったようだ。しかし、落ち着きは少し取り戻しているようで、僕はちょっと安心した。
「それで、ええっと。」
「クニワキさんです。彼の名前」
博士が代わりに答える。クニワキさんはだいぶおじさんなので、呼吸を落ち着かせるのに時間がかかっている。
「陸人、立ち止まるのはマズイ。移動しながらこの人の話を聞こう」
それもそうだ。クニワキさんに了承を取って、僕らは移動し始めた。水のボトルでも持っていたら彼に渡せたのだが。
アメリカの大雑把な都市計画で作られた街に住んでいる僕にとって、日本の工場はとても小さく、入り組んだものに感じられる。このゾンビ工場は監視の目に入らないように、通常より更にコンパクトに、コンプレックスに作られているので尚更だ。たが、それはある種の機能美を感じるし、何より隠れる場所が多い。
状況は最悪のパターンだった。工場長のクニワキさんによると、オカモトという男が工場にいる大量のゾンビを操って暴れされているようだ。つまりオカモトは例の教団の信者で、僕らが日本に来ていることを知って、ここで始末しようという魂胆なのだ。見えるところに例の刺青は入っていなかったらしいので、普段からここで働いている人たちにとっても想定外の事態だったようだ。
僕たちはまだ見つからずに済んでいる。しかしそれも時間の問題だろう。オカモトを殺す必要がある。それには対抗策が必要だ。
「義体を探そう。結構な数がいますよね。こういう所には」
彼らの目的は死を浸透させ、全人類で黄泉の国へと渡ることだ。ここでゾンビを暴れさせることは、最早ダメ押しの感もあるが、彼らは、僕ら抵抗勢力の勢いを削いでおきたいはずだ。
だが、凛の目的は違う。生きて彼女に会わなければ彼女と話せない。
「ありますよ。労働力と、物理的なセキュリティは重要ですからね」
クニワキさんとようやく話ができた。ということを感動してる場合ではないんだけれども。とにかくこちら側も武器は確保できそうだ。防衛プロトコルが働いて、ゾンビと勝手に戦ってくれているとより助かるが、銃声が聞こえないところを見ると、ハックされて無効化されているだろう。
「直接ゾンビをハックできないのか」
「やろうと思えばできるだろうけど、時間がかかる。初めてものはどうしても…いや、そうか…ハックはともかく、1つ思いついたぞ。」
僕らは工場の奥へと入りこんでいく。
狙撃をすることに決めた。
ハックをすることのできる距離は人によって変わる。距離は訓練によって伸ばすことができるが、どんなに厳しい訓練をしても、およそ50メートルが限界というところだ
同時にハックできるものの数も同様だ。これはものによっても変わる。義体だったらば、僕は3体か4体が同時に操れる限界だ。それ以上になると精密な動作は不可能になるし、脳にかなり大きな負担がかかる。
義体の中身はゾンビだったわけであるが、義体はアーマーを身に着けていたり、銃を持っていたり、簡単にハックできないようにプロテクトが掛かっていたり、それとなんだ、色々精密作業もできるように調整されてるはずだから、素のゾンビの方が恐らく簡単に、負担も軽めに操れるだろう。それでも同時に、精密に動かせる数は10もないはずだ。
つまりオカモトがどれほど優れたサイコドライバーだとしても工場内のゾンビ全てを精密に操ることはできないということだ。恐らくは最初に、暴れろだのどこそこへ行けだのという簡単な命令を下した後、自分の周りに何体かのゾンビを配置しているはずだ。
「つまりアレの中心にいるってことか。」
僕らは円状に配置されているゾンビの群れを見つけていた。
広い場所だった。ゾンビがどのような工程で作られているかは知らないが、それを行う機械はかなり大きいようで、工場の建物もそれに合わせてかなり大きくなっている。その建物と建物の間のスペースにゾンビの群れがいる。
工場の敷地内には大小様々な車が行き交っている。人工筋肉の需要に合わせる必要があわせて、かなりの数のゾンビを作る必要があり、それがこの惨劇の規模の理由にもなっているほか、工場の敷地の大きさ、走る車の数の多さの理由にもなっており、そしてそれらの理由が、今現在僕らが容易にゾンビから隠れる場所を探すことができる理由になっている。
「勝負は1発だな…まあ、いつもだいたいそうなんだけどさ」
僕が、笑いながら、軽口のつもりで言うと、ウィーランドも表情だけニヤついた。博士とクニワキさんは硬い表情のままだった。
「よし行くか」
僕とウィーランドは、それまで隠れ蓑にしていた、ひっくり返ったトレーラーから少しだけ身を乗り出す。
ゾンビの群れを見る。狙うのはオカモトが直接操ってる奴だから、手前の肉壁には用はない。
ゾンビ達は常に動き回っている。だから、待っていれば、隙間が空いて、奥の奴が見えるはず。
「行くぞ」
ウィーランドへの合図も兼ねて声を出した。歯を食いしばって、思い切り、一瞬見えた奥側のゾンビへとハックをかける。
ハックにかかる時間は物によって変わる。意識が自分の肉体を離れ、ドロドロに溶けて、液体になって、染み込んで奥へ奥へと進んでいく。血液になって、人工筋肉の血管を進んでいるとでも言うべきだろうか。
そうして、内部へ進んでいって、ある地点で意識は突然自分に戻ってくる。こうなったら掌握は完了だ。義体は人間と同じ感覚で動かすことができるが、その他の人工筋肉を使ったものは、手足を動かすこととは違う感覚が求められるため、意のままに操るには訓練が必要となる。この過程で新たな感性を獲得していくのだろう。
ゾンビをハックするのは初めてだったので、時間を要するものだと僕は思っていた。しかしそれは僕の勘違いだった。僕が今までハックしてきた義体はゾンビそのものであったし、人工筋肉は全てゾンビの筋肉であったのだ。だから、その瞬間は僕の予想よりも、ずっと早く来た。
車の事故というのは僕らの時代にはほぼありえないことだ。全ての車両は自動運転で、車同士の間隔は車の外装に取り付けられたセンサーからAIが計算して、安全な距離を保つようになっている。
だから僕は正面衝突というものを言葉でしか知らない。昔の人も、体験した人の方が数は少ないだろうが、今の時代では、対向車線に侵入するという行為がまず不可能だ。人が自らハンドルを握って操作しても、車線を超えようとすると自動的にハンドルを切る。もし、衝突しそうになっても、自動ブレーキが効くし、ぶつかっても、フレームに使われている人工筋肉が自動的に形を変えて、衝撃をできる限り逃すようにできている。そういうこともあり僕には分からないのだが、あるいは今のような感覚を衝突の際には覚えたのかもしれない。
レゾナンスが起こった。意識と意識の衝突。そして衝撃が外界へともたらされる。僕がハックをかけたゾンビの内部で、すでに存在していたオカモトの意識と、急襲をかけて僕の意識が激突した。そして、レゾナンスにより周りのゾンビもろとも物理的に吹き飛ぶ。
ゾンビの陣形が崩れる。僕も、意識が飛びそうになり、立っていられないが、道は空いたはずだ。オカモトまでの道が。そしてウィーランドが狙撃する。それが僕らの作戦だった。
「いない…」
ウィーランドの声が届く。耳鳴りが激しくて、実際には彼の喋った言葉は聞こえていないのだが、ナノマシンが彼の喋った言葉を分析して、あたかも聞こえたかのように処理して僕の脳へと届ける。
「いないぞ。囮だ。不味い!陸人!!」
馬鹿な。僕らはまんまと騙されたようだ。自分のいる本命以外のゾンビの群れをいくつか作っておいて、狙撃や特攻を無効化する。口にするのは簡単だが、圧倒的に自分が有利な状況で、そんなことが思いつくのか。
狙撃のために身を乗り出したウィーランドを、ゾンビが見つける。レゾナンスの爆発音で、他の場所にいるゾンビも集まってくる。
真の最悪とはこのことだった。
とにかく博士と工場長を守らなければ。けれど、僕が彼らの方に振り返ると、すでに後ろからゾンビの群れが走ってきているのが見えた。
少し離れた場所に義体を3体ほど持ってきていたのが功を奏した。僕は急いでそいつらを起動させる。
義体を呼び寄せる。ゾンビが集まってくる。何重にも重なる視界を制御しながら、僕は戦う。
ゾンビウイルスには強い感染性がある。唾液や血液を介して感染し、罹患した場合は、1週間ほどの期間で人間からゾンビへと変貌する。
更にこのウイルスの特徴として、ナノマシンを体内に保持している人間は感染率が跳ね上がるというものがあった。より少ない量で、より少ない時間でゾンビへと変わり果てるのだ。この特徴のせいで、ゾンビは爆発的にその数を増やした。
しかし、それも昔の話だ。ゾンビウイルスの研究は進み、ウイルスに対する抗体を摂取することは国民の義務であり、今や、ゾンビに噛まれたとて、同じ存在へと変貌するものはいない。
我が国の保健省には感謝すべきだろう。僕は、ゾンビの返り血にまみれても人のまま存在し続けられている。
3つの義体は全て破壊されたが、僕と博士は生きていた。ただ、僕は健全だったが、博士はかろうじて生きているだけの状態だった。
人間はウイルスに対する抗体を得た。しかし、なんのことはない。噛み付かれて引きちぎられたり、その爪で引き裂かれれば、それは致命傷だ。
義体を3体犠牲にして、ゾンビ達を撒いて、物陰に隠れる頃には、博士は息も絶え絶えだった。ウィーランドとクニワキさんとは、闘って逃げている間にはぐれてしまった。
僕は、博士の、引き裂かれた首からの出血を止めようとする。博士の上半身を起こして、携行品のバンデージを取り出す。バトラーは無情にも彼の生存確率を数字にし、眼前にモニタリングする。
その数値はとても低くて、何をしようと無駄だということを端的に伝えてくるが、僕は手を止めることはできなかった。
「もう、結構です。もう構いませんよ」
博士が僕の手を制す。息は荒く、喋るのも辛そうだ。
「首だけじゃない、肩も、腹も、色々と、噛まれてしまった。内臓も出ちゃってる」
そう言って彼はお腹を触る。食い破られて皮膚のなくなった部分に手が触れて、はみ出した腸がにちゃりと音を立てた。けれど、彼にはもう痛覚がないようで、曖昧な笑みを浮かべて、溜息が少し口から音となって漏れた。
「僕達が、ここに来たせいで…」
僕はもう止血を行なっていなかった。博士の体を支えて、顔を見ていた。
「まさか。これは、天罰ですよ。僕は、死を操って、高みにいると思っていた。けれども、本当は、死に近づいていただけ、這いずり回っていた、だけなんです」
「僕は、何も選んじゃいなかった。ゾンビを研究して、作って...それは自分の意志じゃない。言われて作っていただけ...」
博士がゆっくりと目を閉じた。もう長くないことが、本能的に分かっているようだ。
「ナノマシンが、痛覚を切ってくれて、良かった…。凛…、僕も、君の言う通り、何も…」
両腕にかかる体重が重くなった。スティーブン博士は死んだ。
僕らは仲間の死を眼前にしても、取り乱したり、泣きわめいたりすることはない。ただ、ほんの少しだけ心がぐらつき、同時にとてつもない虚無感に襲われる。そしてこの感覚に慣れることは無かった。
1人になった。博士を守る必要がなくなったので、少し戦いやすくなった。しかし、変わったことといえばそれだけで、依然として僕の生存確率は絶望的に低いままだ。
博士の遺体をアメリカに連れて帰ってやりたかった。けれど、それも叶わない。
僕は移動を開始した。
日が暮れ始めている。視界はナノマシンが補正してくれるが、集中力を保つのは桁違いに難しくなる。僕は消耗していた。
死は、これまでにないくらい現実味を持って僕の眼前に迫っていた。心細さは感じたけれども、僕はそれ事態に恐怖を感じることはなかった。それは感情が抑えられているからだが、罰と考えることもできる。今まで僕が死をばら撒いてきた罪に対する罰。心の悲鳴を無視して、僕は人殺しを続けた。その罰で、僕は人間では無くなりつつあるのかもしれない。
思考はクリアになっていき、頭は勝手に内面を顧みて、思い出を振り返っている。これが世に言う走馬灯というものか。
凛のことも思い浮かんでくる。また君に会いたかった。それだけは少し心残りだ。僕は、君の隣に追いつきたくて、WHOに入ることを選んだのかもしれない。そのことに初めて気がついた。
僕らはWHOの歴史上で久しぶりに敗北を喫した特殊部隊となる。アメリカ軍に出向していることになってるから、そちらにも泥を塗ることになるのかもしれない。
終わるときはこんなものかと思った。これ以上進む意味があるのかと、考えるほどの脳のリソースは残っていなかったので、ただ惰性で足を動かし続けた。
それは突然に来た。今までの人生の思い出がフラッシュバックしている時だった。思い出の中の凛が喋った。
「どうして生きてる人間を同じように操れないと思うんだ?」
僕らはそれを試したことがない。それは僕らがモラルとしてタブーであると認識しているからで、教育の賜物であった。加えて、僕は軍人であったし、そんなことを試みようものならどんな結末になるかはより強くより容易に想像できたから。
ここには何も制約はなかった。僕は1人で、監視の目はない。
ゾンビをハックして、レゾナンスを起こした時に、オカモトの脳波パターンは記憶した。
僕がそれをできるという根拠は何も無かった。しかし、選択肢も無かった。今度は明確な意思を持って歩き始めた。
それは確かに奇跡だった。消耗している感覚で、物理的な数は圧倒的に向こうの方が多いのに。
僕の方が先にオカモトを見つけた。
さっきの囮と同じようなゾンビの群れで島を作り、工場の敷地内を巡回していた。そして、これまた先ほどと同じような、少し広場になっているような所で、僕は彼らを見つけた。島の、その隙間から、中心に確かに人間が見える。
意識がシャンとしなかった。間際まで近づいた死と、限りなく低かった逆転につながる可能性が、僕に奇妙な感覚をもたらしていた。
僕はぼんやりと立っていた。脳は痺れ、覚醒していたが、身体は立っているのがやっとという感じだった。
オカモトがこちらを見た。驚いた顔をした。それから、ゾンビ達がこちらを向いた。
ゾンビがこちらに向かって走ってきた。僕はオカモトの目を見続けた。
オカモトの脳に意識を飛び込ませる。
悲鳴が上がった。僕も彼も同時に上げた。
意識は今までにない旅路をたどっている。流れていくような感覚は速度と激しさを増し、レゾナンスの強い衝撃と痛みが常に頭の中に響いている。
どこで'降りれば'いいのかわからなかったから、とにかく強く念じた。ゾンビを止めろと、強く念じて痛みに耐え続けた。
意識は何度もぶつかった。心拍数が上がり、痛みは増していき、耐えられずとうとう気を失った。
だが、戻ってきたのは僕が先だった。
そしてゾンビは止まっていた。
「えっ」
オカモトは気の抜けた声を漏らし、意識を取り戻した。
銃は彼の眼前に突きつけられており、引鉄には僕の指がかかっている。
「じゃあな」
僕は引鉄を引いた。彼の中身が飛び散った。それだけ見ると、ゾンビとなんら変わりはしなかった。
ゾンビは全員動きを止めていた。僕がオカモトの脳をハックして、そう命令させた。
動かなくなったゾンビ達の横を通って工場から抜け出した。しばらく歩いていると、WHOの車が僕を迎えに来てくれた。いつのまにか電波の届くエリアに入っていたようで、向こうから僕の位置をキャッチしてくれたようだった。
後部座席に座って、空港まで運ばれる。自動運転は最適な速度を保ち、日本には他の車もないので、とても快適だった。
フラメルさんに連絡を取って、こっちの状況と、すぐにでも凛の父親に会いに行きたいことを伝えた。
車が空港に着く。フラメルさんが伝えてくれたようで、パイロットもインドに行くことを了承してくれた。
そして、1時間ほど待ったが、ウィーランドはやはり帰ってこなかった。
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