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日本の車はパンデミック後に品質が落ちたと言われている。名前だけが残っている、殆ど日本人の働いていない会社の作る車を日本の車と呼んでいいかは微妙なところだが、とにかく、日本人が殆どいなくなった結果、モノづくりに対する意識も失われてしまったということらしい。
パンデミック後に生まれた僕としては、そんなビフォーアフターは知る余地もなく、今座っている革張りのシートにも不満はない。オートパイロットの運転もスムーズで、車酔いも起こしそうにない。なのに車内は緊張感に包まれている。
あの事件の後、僕らの世界はまさしく混乱に陥っている。自殺者が出たのはアメリカだけではなかった。陸軍の大佐が拳銃で自殺したのと同じくらいのタイミングで、世界中の人が色々な方法でその命を絶った。飛び降り、首吊り、服毒、暴走、拳銃自殺。今頃地獄は大わらわだろう。
彼らも全員が全員自殺したわけではない。彼らの目的は全人類に思想を共有させることだから、死を啓蒙する役割の者たちが生きている。軍や僕らWHOはそれらを止めるべきだが、あの大佐を筆頭に身内にもかなりの数の信者がいて、自分たちの組織をなんとかするのに手一杯な状況だ。
結果として、自殺者の数は増え続けている。彼らは様々な手段を使って人々の思考を支配していき、死こそが唯一の救いであるという思想は全世界での第一党になろうとしていた。
「今朝のニュース番組のクリップ見たか?コメンテーターが生放送中に毒を飲んで死んだ。」
隣に座っているウィーランドが話しかけてきた。口調はいつものように軽いが、しかし、そこはかとない不安を隠しきれないでいた。それは聞き手である僕も同じだった。
「見たよ。ネットで話題になってた。嫌な気持ちになった。でもそれだけだ。ここのところ外に出ると、1日に1人は自殺してる奴を見るからな。」
僕らの思考も侵食されつつある。正常の意味は揺らいでいる。
遠くの方で大きな音が鳴った。車がどこかに突っ込んだみたいだ。
緊張の元はこれだ。僕らの車が事故の無いように完璧に運転されても、突っ込んでくる車を完全にかわしきることはできない。オートブレーキや車間距離維持のプログラムは軍の管轄だ。普段はそれのおかげで車同士の事故は起きないようになっているが、そのプログラムも例の団体にぶっ壊されてしまって、復旧はまだできずにいる。なので、やろうと思えば事故は起こし放題、道路は無法地帯だ。
僕とウィーランドの二人は空港に向かっている。日本に行くために。
あの事件から一夜明けて、僕らはWHOのオフィスに集まっていた。アメリカ軍やWHOにも例の幻想教団<イルミナティ>の信者は多数いたようで、現場も、上層部も混乱しきっていた。
幸いにもというべきか、ウィーランドをはじめ、東欧に一緒に行ったチームには、信者はおらず、誰1人として自殺したものはいなかった。
僕らが集められたのは、アメリカ軍からの報告を聞くためだ。事件が起こった時、アメリカを始め、世界中の国と地域で義体が同時にハックされた。どうやらそのことに関する報告のようだった。僕らの眼前には、ホログラム体のアメリカ軍人がいて、あたかも目の前に実在しているかのようにたたずんでいる。
「ヘカトンケイルだなあれは。」
軍人が説明を開始した。彼は実際にはここにはいないわけだが、0コンマ何秒以下のラグのみの、ほぼリアルタイム通信で、こうして話をしている。
「何だそれは。」ウィーランドが尋ねる。
「アメリカ軍の兵器だ。サイコドライバー用に作られたものでな。簡単に言えば、意識を増幅、分割させて、理論上は何千体もの義体を同時に操ることができるようにさせる代物だ。ただ、使用者に強烈な負担がかかるし、扱うにはかなりの訓練が必要だ。今回はどうもそれが使われたようだ。」
彼の説明に合わせて、そのヘカトンケイルとやらのイメージ映像が補足として流れた。所謂軍事機密で、僕らは普段、見ようと思っても見れない映像だ。
「世界中の義体を同時動かしたということか?そんなことが…」WHOの誰かが声をあげた。
「つっても、実際に起こってるわけだからな。目の前にいない義体を動かすには、正確な位置情報が必要だから、各国の軍にいる信者たちが情報を流したんだろう。」
僕らもすでに、ずいぶんと世間の人々からかけ離れた存在だと思っていた。けれども、今目の前で説明されていることは、それよりもさらに想像の範囲を超えた話で、僕はただただ驚くばかりだった。
「そんな単純に…。簡単に自分達の組織を裏切れるのか?軍で働いてるってことは国に奉仕してるってことだ。それを簡単に…罪悪感とかは無いのかよ。」僕は思わずそう呟いた。
「人間は思っているよりずっと単純だ。」ホログラムが答える。「複雑なことはみんな機械が考えてきたからな。皆忘れちまってるんだ。」
「それで、アメリカ軍はどう動く?それに合わせて我々の動きも変わってくる。」
フラメルさんがそう聞いた。ホログラムの彼は、体を彼女の方に向けた。
「ヘカトンケイルはこちらに任せろ。現場に行って調査と、必要なら破壊も行う。そっちは教団の方を追ってくれ。追って情報は送るから、さっそく取り掛かってくれ。では解散。」
ホログラムが消え、人物や場所のデータが大量に送られてきた。フラメルさんは僕らを引き連れ移動しながら、さっそく仕事の話に取り掛かった。
特に僕に対して。僕と凛は友達だったから。
凛は生きていた。彼女の脳波を感じられたのは一瞬のことだったけれども、記録は取れていて、WHOのデータベースと照らし合わせると確かに彼女のもので間違いないということだった。彼女が義体を操って、その仮面を外させた。それも全世界の何千体といる義体を同時に操ってだ。彼女が相当な訓練を積んだサイコドライバーであることは間違いなく、幻想教団<イルミナティ>の中でもかなり重要な役割を担っているだろうと予測された。
僕らは彼女を追っている。データベースのか細い糸を手繰って、彼女の居場所を探した。彼女は自身の消息を完璧に消していたが、人間社会を生きる上で誰とも関わらずに過ごすことは不可能だ。彼女と会った人物。彼女を見た人物を少しづつ、少しづつ、調べていって、そして彼女が最後に日本で消息を絶ったところまで知ることができた。
WHOは、彼女を追ってその組織を突き止めたいと思っている。僕は、彼女と会って何をしたいんだろう。僕は彼女のことを知っていると思った。僕は彼女のことを知らなかった。
彼女は知っていた。そして彼女はそこに立っていた。僕たちが知らぬ間に築き上げてきた、死体の山でできた大地に。
屍者の帝国に。
「そういえば、西澤のお嬢さんは無事だったのか?」
空港に着く直前くらいに、ウィーランドが聞いてきた。
「ああ。怪我もない。ただ、少しショックだったみたいで、家で治療を受けてる。」
「そうかい…そりゃあ良かった。」
ウィーランドは僕を弟のように思っているところがあると思う。何かと世話を焼いてくれて、デートの行き先とかを色々とアドバイスしてくれる。ただ、今回は彼の言う通りの日に、言う通り美術館に行って、それで事件に巻き込まれたので、負い目があったのだろう。
「ああ。無事で良かった。」
僕は心の底からそう言った。僕は彼女を守らなければならない。僕の世界を守らなければならない。
車が空港に到着する。滑走路の飛行機の前で降りると、僕らの上司であるフラメルさんが待っていた。
「二人とも無事に着いたようだな。」
フラメルさんはWHOの上級調査官であり、僕ら調査官を束ねる役割にある。直接聞いたことはないが、年は40台半ばくらいで、その年でその立場というのはかなりのやり手だということを示していた。そして、そういった女性にありがちなことで、彼女は結婚もしていないし、職務に非常に忠実な人だった。
「見送りですか。珍しいですね。ありがたいんですけど、いいんですか?他にやることはいっぱいありそうですが。」
ウィーランドが遠慮なく尋ねた。しかし、それは正直僕も気になっていたことだった。
「それほど君たちの任務は重要だということだ。結城。君の幼馴染だけが、私たちが持つ、奴らの組織との繋がりだ。なんとしても何か情報を掴んでくれ。期待してるぞ。」
フラメルさんは僕の目を見てそう告げた。僕は苦笑いを少し漏らしてしまった。
僕らの乗った飛行機は彼女に見送られ日本へと飛び立った。僕は窓から外の景色を見ていた。パイロットに例の刺青が入っていないことを祈りながら。
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