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 コージー&カップスで提供されているコーヒー豆と茶葉は100%AIが育てて摘んだものだそうだ。AIが豆や茶葉の等級を判断し、適正と認められたものが店頭に届く。もっと遡ると、ブリーディングもAIが行なっているらしい。この喫茶店の親会社が運営している研究所では日々さまざまなパターンの掛け合わせがAIの計算によって為されているそうだ。人間が行うのは機械のメンテと最終的な承認だけで、そもそも店頭の方でもコーヒーを注ぐのも全部機械がやってるから、人間やる仕事はほとんどないらしい、ナノマシンが普及して、AIが社会に大いに進出して久しいアメリカでも、こういう喫茶店は珍しいそうだ…。さっきから、らしいとか、だそうだとかばっかりなのはもちろんこれが人から聞いた話だからだ。

ゆかりちゃんは、女の子らしくと言っていいのか、カフェ巡りが好きで、こういう蘊蓄をよく聞かされる。味を比べるのも好きで、どこどこの店のなんとかっていう豆は酸味が強くて、あっちの店のなんちゃらブレンドと味が似てるとか、こっちの店のほにゃららスペシャルとは真反対の味だとか語ることもしばしばだ。ただ、彼女は妙なところがリアリストで、こういう人々は、機械じゃなくて人間の淹れた1杯が至高だとか言いがちなんだけれど、ていうか実際ウィーランドは言うんだけど、彼女が言うには、同じプロセスを踏んでいる以上人間と機械が淹れたものに差なんて出るはずがなく、むしろAIが判断して、機械が淹れたものの方が正確に作られているので美味しいということだそうだ。

今日は1日休みだったので、大学の授業終わりのゆかりちゃんと合流して、こうして最近有名になってる喫茶店にやってきた。僕らは雰囲気のいいテラス席でおすすめのコーヒーを1杯ずつとサンドイッチを注文した。彼女はコロコロと表情を変え、身振り手振りも交えながら、最近の出来事とか、大学の愚痴とかを僕に聞かせてくれる。そんな仕草もかわいくて、僕は彼女が好きだ。

 僕がWHOで働き始めた当初は、こうやって2人でデートする時は、彼女は僕に気を使って、軍で働いていて辛いこととか愚痴を遠慮なく打ち明けても良いと言ってくれたんだけど、それよりも僕は彼女の話を聞きたかった。

僕にとっての正常な世界は彼女のいる世界だ。命のやり取りをする異常な世界から帰ってきた実感が欲しくて、彼女の話を聞きたかった。この世界を忘れたくなくて、彼女の姿を目に焼き付けたかった。

 「それで、大学で言語学を研究しようかと思うんだけど…ねえ、聞いてた?」

 「えっ」

しまった。聞いてなかった。咄嗟に反応できない。

 「聞いてなかったでしょ」

彼女が顔を近づけて聞いてきた。彼女はじっと僕の目を見る。僕はわかりやすく目を泳がしてしまう。嘘をつくのは苦手だ。僕の代わりにナノマシンがついてきたから。

 僕が苦笑いしかできないでいると、彼女は少し怒ったような、あきれたような顔をして、小さなため息を1つだけついて、席に戻った。

 「しょうがないなあ、じゃあもう1回最初から話してあげるね」

 彼女は喋ることが好きだ。僕はぬるくなったコーヒーを1口すする。カップとソーサーに内蔵されているナノマシンが僕に電子情報を送ってきた。コーヒーの温度が下がっています。新しいものをオーダーしますか?このタイプのコーヒーは、こういった食べ物との相性が抜群です。こちらもオーダーしますか?もっと詳しくメニューをご覧になられますか?当店の提供するものについての情報を詳しく知られたい方はこちらのリンクを、生産者情報を知りたい方はこちらのリンクを参照ください。特設ムービーをご覧になられたい方はこちらを・・・

 この店は美味しいけれどおせっかいが過ぎるな、と僕は思った。サンドウィッチを1口かじると、またかなりの量の情報と広告が送られてきた。彼女の話をちゃんと集中して聞けるだろうか…


 西澤グループの話をしよう。この企業は、この世界に唯一の日系の大企業だ。パンデミックで、日本の企業はほとんど全滅した。科学者や研究者もほとんどが死んだ。しかし、そんな世の中でも天に愛されている者はいるようで、西澤グループの現総帥の西澤巌はそうだった。彼はパンデミックを生き延びた日本人の1人で、優秀な生物学者だった。世界が滅びかけの状態から再建に向け動き始めた中で、彼と彼の研究グループは人工筋肉を生み出し、一躍注目と賞賛を浴びた。そのまま彼は第2の才能を発揮し、会社を立ち上げ、人工筋肉の生産から流通までをコントロールして、瞬く間に大企業へと成長させた。

 今や西澤グループは世界を代表する企業のうちの1つで、人工筋肉はほぼすべて、西澤グループの所有する工場で作られている。

僕の彼女、西澤ゆかりは、西澤グループの社長令嬢だ。彼女も少しだけ、サイコドライバーの素質があったので、僕や凛と同じ高校にいて、卒業後はアメリカ国内の大学に進学した。彼女の父親は彼女の意思を尊重する意向であるようで、彼女が後を継がなければそれで良いという考えのようだ。なので進路も自由に選べたそうだ。

それで、彼女は大学で言語学にはまって、それを研究したいということだ。


 手を繋ぐのは好きだ。彼女の体温を直に感じ取れるから。

何十年も前、急速な都市化が進んで、世界から緑が消えていったように。僕らの社会では“行為”が失われていっている。情報が、車や飛行機などの乗り物は、自動運転が当たり前になった。本人確認はナノマシンに登録されている情報で行われるので、誰も物理的なIDカードを持ち歩かなくなった。もっと言うと、登録されている情報はこっちがどうこうしなくても、勝手に向こうから表示されるようになったので、検索という行為を行う人もほとんどいなくなった。

それでも、愛を確かめる行為は失われてはいない。手を繋いだり。体に触れあったり。キスをしたり。痺れるような感覚はそれでしか得ることができず、それらの行為を電子化するには、今はまだ人間の体は複雑すぎ、そして、気持ちが良くなかった。


 「陸人は、日本語を喋れる?」

 「いいや、ちっとも。アーカイブにどんな言語かは残ってるから、バトラーが翻訳はできると思うけど」

僕らは並木道を歩く。手を繋いで。

アメリカはもうすっかり秋で、紅葉が見事な美しさを見せていた。四季の移り変わりの美しさは、僕らの祖国だった日本が有名だったらしいが、西海岸も負けてはいなかった。

 「私も喋れない…。故郷も言語も失った民族は、どう変化していくんだろうね」

日本はパンデミック以来、立ち入り禁止の状態が続いている。何やらWHOの限られた職員とか、アメリカ軍が浄化を名目に入っていたようだが、僕はその限られた職員ではないので、詳細はよくわからない。要はかつてのチェルノブイリと同じで、一般人が立ち入ると何が起こるかわからないから、禁止ということのようだ。

 「文化は失われていくだろうけど、それに伴って、日本人という人種の心とか、精神構造もきっと変わっていく。短歌とか、俳句とかもそうだけど、言葉がなくなっていくと、心の内を表現する方法が足りなくなってくる。特に日本語は、繊細な表現が多いから、今日みたいに紅葉が綺麗なことを表現ができなくなってくると…きっといつか綺麗と感じること自体もできなくなる。」

 「バトラーが補完してくれるだろう。感情や感覚を表す構文を保存して、再現できれば、気持ちを追体験するのは難しいことじゃない」

 「ううん。だから怖いの。今の世の中の人々はAIを使って生きることに慣れすぎている。AIを使えばなくなった文化や言葉をすぐに再現できるけど…。つまるところ、それはアイデンティティの否定だ。記録さえ残せれば、人間は必要ないって、そう言われているようで怖いよ」

 僕の周りの女の人は、みんな難しいことを考えるな。と思った。けれどそれはたしかにそこにある危機だ。とも思った。

 「大丈夫だよ。WHOもアメリカ政府も日本人の保護活動はしてる…。関係ないからって、他の民族が絶えて欲しいなんて思う人はいないさ。そう思うから、そういう活動をしてるんだ」

 それは建前なのかもしれない。人間がその進化の過程で良心まで失ったら、世界はどうなってしまうのだろうか。

 そこまで話したところで僕たちは目的地に着いた。この美術館は今の時期、特別展示を開催している。古い時代の、偉大な画家たちの絵と、パンデミック以降に現れた、新進気鋭の画家たちの絵の、色使いの違いに着目した展示だ。

 僕は二人分の入場券を買った。僕は社会人で、彼女は学生だから、なるべくお金を出すようにしている。しかし冷静に考えて、ゆかりちゃんは僕の給料なんて吹けば飛ぶような量のお金を持っているはずであり、この場合気を遣われているのは僕の方なのかもしれなかった。


 バトラーが行う、絵画に見える画風や色使いの意図や意味の解説を聞くと、僕が作品を見て最初に思ったこともそれと一致しているような錯覚に陥るし、それが本当に錯覚なのかどうかさえも分からない。確かに言えることは、僕らの感性はナノマシンによって補整されていることであり、それは作者の感性にも及ぶかもしれないということだった。

 感想には正解がないはずであり、物事に対する第一印象は人によって違うのがあたり前のはずだ。けれども、昔の芸術作品だったり、ある種の芸術性を持っている広告等には、不躾にも解説がつけられていることが多く、バトラーは、まるでそれが正解であると言わんばかりに、それらを勝手に眼前に表示させ、場合によっては読み上げてくる。

 この展示では、主催者も作者も気を使ったのか、新世代の作品には解説の類は一切表示されなかった。しかし、それらの言葉に触れずに育った人間はおらず、ここに展示されている新世代の画家たちも、その成長の過程で、ある1つの流派、あるいは意思に洗脳されていると言ってもいいかもしれない。

 事実、絵画に関してはズブの素人の僕でも、パンデミック後の作品はどこか画一的なものに見えた。型の破り方を知らない、そんな印象を受けた。

 しかし、それでもこの特別展示は面白かった。解説を聞くと、昔の絵の方が面白いような、凄いような、そんな風に見えたり、逆に新しい絵の方が素晴らしいように見えたり、いややっぱり昔の方が良いかな…それとも今風がハマるかな…逆手にとった、考えさせるような上手い配置・誘導の仕方になっていた。

 ゆかりちゃんも存分に楽しんだようで、展示の最後、売店に売っていた、絵画をプリントしたTシャツを購入するかどうか真剣に悩んでいた。結局買うことに決めたようで、僕にもお揃いのシャツを買うように勧めてきたが、それは丁重にお断りしておいた。

 「どうでしたか?楽しんでいただけましたでしょうか?」

出口の前で、レセプションの女の人が僕らに喋りかけてきた。黒髪を後ろで束ね、メガネをかけた知的な印象な女の人だ。

 「はい!とっても。特に二階に上がってすぐの展示が斬新な演出で」

 ゆかりちゃんはニコニコと話し始める。彼女はお喋りが好きなのだ。

 「感覚とか感性っていうのは失われていくばかりだって、私思ってたんです。でも今日の展示を見て、新しいものも生まれてるんだなって感動しました」

 「ありがとうございます。でも、これは見せ方の部分が大きいですから。小手先のテクニックに過ぎないですよ」

 おいおい。そっちがそんなこと言って良いのかよ。

 「けれど人間には力があります。感性や知性もある。私たちはそれを示したかった。あなた方がどれを感じ取ってくれたなら私たちも幸いです。でも、それだけで十分でしょうか?私たちはさらにその先に到達しなければなりません。感覚は失われていっている。まさにその通りです。ナノマシンの発達によって、私達の意思は未発達になってしまっている。その流れは食い止めなくてはいけません。」

 話が脱線してきている。ゆかりちゃんもちょっと引き気味になっている。この人、この職業向いてないんじゃないのか?

 「我々の世代はもう無理です。ほとんどの人がナノマシンに意識を統一されてしまった。引いてはそれを作った政府たちに。けれども、我々は未来のために闘わなければならない。我々の意思を示さなくては」

 彼女が興奮してきて少し前のめりになった時、今までスーツの襟で隠れて見えなかった首元が見えた。三角の中に黒丸のタトゥー。

 女の目を見る。見たことのある目。おかしい目。自分の中の正義を何1つ疑わない目。聖戦士を自称するテロ組織が、追い詰められた末に、1人でも多く異端者を道連れにしようと決心した時の目。

 だから気づけた。知っていたから素早く行動ができた。ゆかりちゃんの頭を抱き寄せて、視線を無理矢理塞ぐ。

 女は右手に持っていたボールペンを自分の首に突き刺した。鮮血が飛び散る。更に、力を込めて肉を引き裂くようにボールペンを動かした。行為にはなに1つためらいがない。

 「全ては幻想教団イルミナティの名のもとに」

 女はボールペンを両手で持ち、より一層力を込めて搔き回し始める。目は焦点を失い、口には血の泡が溜まっている。

 僕はゆかりちゃんを強く抱きしめる。

 女は金切り声を発し、唐突にぶっ倒れた。おそらくは死んだのだろう。

 「陸人、今の女の人———」

 「見るな。振り向くな。僕の方だけ見てろ」

 彼女を抱き寄せながら出口に向かう。

 僕は非番の日には銃を持ち歩かない。ナノマシン社会はアメリカを、銃を持ち歩かなくてもいい社会に作り上げた。僕たちは他人を傷つけられない。自分ですら傷つけることができない。

 凛は9歳と17歳の時に自殺を試みた。

 ナノマシンとAIがそれを止めた。

 美術館の外には、想像を絶するような光景が広がっていた。

 人の死体がそこらに転がっている。車が何台も建物や柱に突っ込んでいた。割れているビルの窓も見える。飛び降りた者もいるのか。

 現在進行形で、そこら中で車が建物に突っ込んでいる。悲鳴が聞こえる。どこかで爆発音も聞こえた。建物が崩れ、燃えているのが見えた。

 何故だ。何故だ。自殺はできないはずだ。さっきの女も、外の人達も、何故ナノマシンは何も反応しない。何故ためらわずに死ぬことができるんだ。

 「何、これ…」

 呆然と立ち尽くしてしまっていた。彼女を守ることも忘れて。その彼女の震える声で、少しだけ現実に戻った。

 「ゆかりちゃん。ゆかり」

 彼女の肩を掴んで、目を見る。肩を持つ手に力を込めると、少しだけ彼女も反応を返してくれた。

 「家の人を呼んで、迎えに来てもらうんだ。良いね。それから」

  僕は彼女の右手を握った。

 「絶対に手を離さないで。良いね。これから安全なところを探しに動く。その間、家に通話をかけ続けるんだ。家の人との通話はオープンにして、僕にも聞こえるようにして」

 彼女は小さくだが頷いてくれた。しっかりと彼女の手を握って、安全な場所を目で探しながら、上司に電話をかける。

 「フラメルさん。フラメルさん。何が起こってるんですか。どうしてこんなことができるんだ」

 「分からない。こちらでも原因は掴めていない。確かなことは、ナノマシンのプロテクトが破られていることだ。相当強力なサイコドライバーの仕業、しかも組織的な犯行だ」

 「あり得ない。ナノマシンを介した監視システムはWHOの技術の粋を集めたものだ。それがそんな簡単に…破られるなんてことがあるんですか」

 どこか近くで爆発が起こったようで、ひと際大きな悲鳴が上がった。急いで安全な場所を探さなければならない。ゆかりちゃんの手を強く握って駆け出す。

 「とにかく、無関係の市民に被害が及ばないようにする必要がある。義体のプロテクトが緩められているから、遠隔操作で市民を保護しなさい。AIでは即応行動が取れない場合がある」

 「了解」

 同時進行でゆかりちゃんの通話を聞いていた。少し離れたところで待機していた警護が彼女を迎えに来る。

 何体か固まっている義体を見つけた。想定外の事態にフリーズしてしまっているようだ。AIは嫌に人間的な振る舞いをする時がある。

 ゆかりちゃんを避難させる必要があった。幸い近くに無事なレストランを見つけた。外から様子が確認しやすそうで、比較的落ち着いていそうな生存者が集まっている。

 「ゆかりちゃん。あの店なら多分安全だ。裏口も簡単に確認できるし、それに———」

 美術館の女の首元、いくつかの死体の手の甲や脚、突っ込んだクルマの窓に貼ってあったステッカー、三角の中に黒い丸。それがこの店にはなかった。

 「僕は行かなきゃならない。皆を守らなきゃ。わかるね。店の住所はゆかりちゃん家の人にも伝えたから、すぐに迎えが来る。その人達の言うことをよく聞いて、避難するんだいいね」

 「待って、陸人」

 「心配いらないよ。ほら、後8分で車が来るみたいだ。店の中に入ってて」

 彼女から手を離す。義体の中の1つに狙いを定めて、僕は集中した。手早くやらねばならない。

 意識を溶かして、内側へと溶け込んでいく。ゆっくりと、義体と感覚を共有させていき、そして突如脳内で爆発が起こった。

 ある1つの対象に、二人以上のサイコドライバーが別々の意思を持ってハックを試みると、意識同士が対象の中で強烈な衝突を起こし、脳内に大きなフィードバックと、周囲に爆発のような衝撃を起こす。レゾナンスと呼ばれる現象で、サイコドライバー同士が争うこと事態が稀有なので、通常あまり起こりえない現象だ。学生時代に授業で体験したことがある。

 レゾナンスが起こると、ハックをかけたものの脳波が飛び散って(この表現が正しいかどうかは分からないが)広範囲の物が誤作動や不具合を起こしたりする。

 脳波というものは指紋と同じで1人1人固有のものがあるらしい。そして、サイコドライバーの素質があるものは飛び散った脳波を感じ取ることができる。

 意識が飛びかける。尻餅をつく。ほとんど聞こえなかったが、それでもギリギリ聞こえた音から察するに、ゆかりちゃんを避難させた店の窓が割れたようだ。

 それも心配だった。でも僕の意識はほとんどそちらには向かなかった。他の全てが吹き飛んでしまうような、巨大な事実が、僕の意識を気絶から遠ざけてさえいた。僕は知っている。僕らはこの脳波を知っている。

 「凛」

 聴覚が戻ってきた。ゆかりちゃんが僕の代わりに答えを呟いた。そうだ。この脳波は凛のものだ。三年前に消えたはずの。

 狼狽えている間に目の前の義体は全て掌握されてしまった。

 義体が三体こちらに向かってくる。アーマーで覆われた、2mはある体躯。バトラーがご丁寧に義体の持ってる銃のスペックを教えてくれている。秒間十発の弾丸が僕の体を粉々に引きちぎるだろう。

 僕は、凛に殺されるのか。思考がパニクってうまくまとまらなかったが、ゆかりちゃんだけは守らなければならない。少なくとも警備が到着するまでの6分間は。義体はこっちを向いてる。少しでも店から離れなければ———

 「御機嫌よう。アメリカ市民の皆さん。私は陸軍大佐、ダリオ・ミクラクです」

 突如、街中のモニターに映像が流れる。義体が動きを止める。中年の男性が、スーツを着て喋っている。ネットを介しナノマシンにも同じ画面をディスプレイしているようで、僕の眼前にも映像が流れている。

 「そして私は幻想教団イルミナティの幹部でもある。この名前に聞き覚えは?無かったとしても、こちらにはあるのではないでしょうか。ご覧ください、私の手の甲のタトゥー。三角形と丸のマーク。きっと見たことがあるはずですよ。気づいてなかったかもしれませんが、私たちはこのマークを浸透させてきました。ゆっくりと、水面下で。あなた達が意識下で、しかししっかりと認識できるよう、サブリミナル的にです」

 喧騒が止んだ。まともな人は皆男の話に釘付けになっていた。

 誰も男の話についていけていなかった。だが、この話と男に釘付けになっていた。

 「我々の目的は、このナノマシン社会からあなた方人間を救い出すことです。厳密にはその魂を。我々はただの宗教団体ではありません。確かな救いの道を示すことができる。我々には数多くの仲間がいます。彼らはあらゆる業界から参加してくれました。ですから、我々は我々の存在をゆっくりと、ですが確かに示すことができた。コンビニで、スーパーで、職場で、テレビで、インターネットで、このマークを忍び込ませることができた。社会を取り戻す素地を作ることができたのです」

  ご丁寧に彼らは映像を流してくれた。世界中の、あらゆるところにマークが存在している。僕らがさっきまでいた喫茶店もあった。

 「我々はナノマシンの登場で、自由を取り上げられてしまった。誰に?国家にです。アメリカだけでは無い。世界中の国家が我々の敵だ。あるいはそれに匹敵する規模を持つ共同体や組織だ。WHOのようなね。我々の先人は便利さを手に入れる代わりに、多くのものを失ってしまった。愚かな取引をしてしまったものです。そして我々はその肉体を彼らに管理されてしまっている。その証拠を、一つお見せしましょう」

 義体達が自分のヘルメットに手をかける。義体のメットはフルフェイスになっていて、通常の活動、戦闘では絶対に外れないようできていて、僕もその下は見たことが無い。

 メキメキと軋む音がなり、警告音が周りにも聞こえているが、義体はその行為を止める様子を見せない。両手で自分のヘルメットを掴み、顔を晒そうともがいている。バキリと大きな音がなり、とうとうメットが壊れた。

 中から皺くちゃの顔が現れる。腐っていると形容してもいいかもしれない。ナノマシンがその顔を認識した途端に、聞いたことのない警告音をならし、そしてそれが何かを僕に知らせた。

 感染者です。半径5メートル以内には絶対に近寄らないようにしてください。ウイルスは非常に感染しやすく、危険です。自動的に担当部隊に通報がされます。速やかに部隊の保護を受け、感染の有無の検査を受けてください。この警告を無視した場合、射殺の対象になります。繰り返します———

  感染者。ゾンビ。アメリカの犯した大罪。とっくの昔に禁忌になったはずの存在が目の前にいる。

 「ご覧の通り、義体はゾンビです。いいえ、義体だけではない、人工筋肉はすべてゾンビからできています。では、そのゾンビは何からできているのか…そう、我々人間です」

 男はゆっくりと、懐に手を入れる。

 「皆さんの周りに、行方不明になったものは居ないでしょうか?そこまで露骨でなくても、亡くなった人の死体が最終的にどこに行くか知っている人は居ますか?我々の死後に尊厳は無い。侮辱されきっています。しかし、私達には1つできることがあります。我々が取り戻した自由の1つ、自殺です」

 男は一連の動作を極めて自然に行った。懐から軍の支給品の拳銃を取り出し、銃口を咥えた。そして、カメラに向かってウインクをしてから引き金を引いた。

 弾丸は喉から脳へと突き抜けて中身を撒き散らし、後ろの殺風景な壁を赤と黒で彩った。どう見ても規制されて然るべき放送だったが、しかし打ち切られることはなく、死体は変わらず画面に映され続けていた。それは政府でなく彼らの組織がテレビの電波を掌握していることを示していた。

 あたりは静まり返っていた。この状況で正しい言葉を見つけられるほど、僕たちは成熟していなかった。

 その分、車の音は目立った。防弾仕様のリムジンはその重量に合わせてかなりごついエンジンを積んでいる。僕は、この車もどこかに突っ込むんじゃないかと一瞬警戒したが、車は西澤家から来たのであり、ゆかりちゃんを迎えに来たのであった。

 彼女を車に乗せて、家に帰らせた。幸いにも彼女は怪我1つなかった。僕も一緒に帰りたかったが、WHOとして仕事をしなくてはならなかった。ありがたいことに西澤財閥も人手を貸してくれるそうで、僕らの指示で動かしていいそうだ。

 とにかく人々を落ち着かせる必要があった。パニクっているのは僕らも同じだったが、泣き言を言える立場ではなかった。上司に指示を仰いで人々を誘導していく。その過程で僕は再び義体のハックを試みた。

 僕は義体の中に凛の痕跡を探そうとした。誰かに掌握されたばかりのデバイスは、脳波の残り香の様なものを感じる時がある。しかし、凛のそれは全く嗅ぎとれなかった。

 上司の命令で、義体は使わないように言われた。それもそうだ。それらはずっと素顔を晒したままなのだから。

 僕がハックをやめると、義体は糸が切れた様に動かなくなり、再び死者へと戻っていった。


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