幕間 女狐の誤算

時は少し前に遡る。


「ふう、これで一先ずは良さそうかしら」


櫻井楓は浅く溜息を吐き、周囲を見渡した。そこには特段何も無く、見渡すのは彼女の癖のようなものである。


英治達が彼らの学校の保健室を出発して研究所に辿り着く、その時櫻井は三善光輝と連絡を取っていた。そもそも彼は民衆の味方を謳う探偵。緊急避難令が下るような事態に、何も動かない訳もなかった。


「光輝を確保出来たのは良いけど、護衛役に自衛隊員を引っ張り出すのには苦労したわね」


目まぐるしく変わる状況に、キーマンとなる少年。特にその少年は様々な派閥、集団から狙われている。情報において一歩先を行く私が負けるわけにはいかない。何とかして保護しないと。先程光輝と通話した際に受けた忠告が不可解だが、おおよそは私の計算通り。


『楠木英治を過小評価してはいけませんよ。あなたもあの事件の近くにいましたが、彼のした事全てを知っている訳ではないでしょう?』


光輝からはそう忠告された。しかし、危険人物なら幾らでも利用してきた。確かに彼の過去を私も知っているけれど、それがそこまで危険視する理由になるとはとても思えなかった。


恵まれた才と環境を持って生まれ、無知故にそれを妬む者に奪われた。ただそれだけの少年。復讐に駆られるも力及ばず、自らの小ささを受け入れた敗北者。何処にでもいるような悲劇の天才。


かつての彼が傷つき倒れ、そしてもう立ち上がらないと分かった時には酷く落胆したものだ。痛く侮蔑したものだ。


私はあの人を知っている。あの人の強さを知っている。だからこそ彼に期待していたのだ。どうせ駄目だろうと理性が思いつつも、心の奥で感情が願っていた。


汚れた人間なんかに負けないで欲しい、と。


何処までも身勝手な願望だとは理解していた。どちらかと言えば彼の敵に回っていた私が彼に期待していたのだ。あまりにも筋違いで、恥知らずで、我が儘な望み。


そして、それはやはり叶わなかった。


楠木英治は単なる天才に過ぎない。天才では悪に敵わない。綺麗で、大切に護られて、穢れを知らない天才では醜い悪を討てないのだ。あの人を見て私はそれを思い知らされた。


だから、楠木英治にこの局面を打開することは出来ない。キーマンには成り得ても、それは御輿のそれに近い。彼本人がどうこうするのではなく周囲の人間を動かす為だけの象徴。


私は不幸を一身にかき集めたような少年をそう評していた。今更どうでも良い考えを振り払い、部下達に指示を出す。


「私はその為に三善光輝を。そう、全てはあの人の最期の望みの為に」


――――――――――――――――――――――――――――――――――——


「櫻井さん、ありがとうございます。こちらまで情報を回していただいて」

「そう畏まらなくて良いわよ。目的は同じなんだから」


先程、楠木英治が監視カメラの映像に映ったという報告を受けた。私は光輝を呼び、護衛の自衛隊員を招集する。予め『目的』の住む街の監視カメラ映像をスキャンする指示は出していたが、こんなに早く尻尾を出すとは思っていなかった。戸籍や登録情報から顔や住所くらい特定できると分からなかったのか。


「それにしても、まさか先客がいたとはね。あの業者は如月の手引きかしら」

「ええ、そうでしょうね。こんなところで出くわすとは思いませんでした。英治君がいなかったらすぐに取っ捕まえてやるんですが」


光輝の顔が悔しげに歪む。作戦を前に別のことに気を取られる彼を嗜めようとしたが、それも些か厳し過ぎるかと思い直した。


まあ、私にも彼の気持ちが分からないではないのだ。私達より早く『楠木英治』を捕縛しようと動いているのは『笛吹き男』と呼ばれる要人専門の人攫いだ。それ程大きな組織ではないものの、これまで幾度となく辛酸を舐めさせられてきた。私も光輝も。


奴らはその特性から、最も捕らえにくい犯罪組織の一つとして認識されている。何しろ被害者が要人ならば依頼主も要人なのだ。そして、そんな業者に依頼できる程の財力と影響力を持っている上、大抵は自己保身に長けた者が業者の顧客である。証拠は握り潰され、偽の証言が挙がる。そういった事件も少なくはない。


兎にも角にも、光輝にとって『笛吹き男』は冗談でも何でもなく憎き相手だ。光輝の後援者である私にとっても気に食わない敵だった。


「あまり欲張るのも危険だけれど、『楠木英治』と『笛吹き男』が対立している内に乱入して両方を捕まえられない?」


光輝に私は問う。20年以上歳下の若者に意見を求めたからか、呼んでおいた自衛隊員の眉が吊り上がった。しかし、私が視線を向けると素知らぬ顔をする。確かに、軍属の彼を差し置いて15の若造に頼っていては機嫌も悪くなるか。


私は内心で大きく溜息を吐いた。


愚か。あまりに愚かなことだ。そもそも比較されようというのが傲慢な話だろう。ここにいる光輝は、そうあれと民衆から求められた正義の味方の権化。正真正銘の天才だった彼を、善であることに特化させた最終形。彼は自分が思う正義の為に動く時に限定して、元より高い知能を更に昇華させる。凡人などとは一線を画す存在なのだ。


「櫻井殿。小官は現場に急行すべきと考えます。たかだか高校生数人ならすぐに連れ去られてしまうでしょう」


待機させていた隊員のうち、隊長を務める真島曹長が前へ出て進言する。その提案はいかにも常識的な判断だった。しかし……


「いえ、それはあり得ません。英治君があの程度の相手にやられるなんて事は無いでしょう」


光輝がすぐさま否定する。楠木英治が負けるはずないと語る光輝の目は、何処か信頼すら感じさせた。


「ほう、『笛吹き男』が『あの程度』だと? 今まであなたは奴らに苦しめられてきたのでは?」


軽んじるような光輝の言葉尻を捉え、真島が光輝を中傷する。奴らを捕らえることが出来ないでいる癖に、と言いたいのだろう。


「そうですね。捕らえることは出来ていません。しかし、たかだか子供と侮られている状況で返り討ちにするくらい英治君なら容易いことでしょう。それほどまでに、彼は有能なのです。久しく会っていませんし、彼がどれほど成長しているのかは分かりません。けれど、最後に私が彼に会った時でさえ彼にはそれが可能だったと思います」


光輝は非難を受け止め、それでもなお目標の少年を語る。目の奥にはやはりブレることのない真っ直ぐさが宿っていた。


「そこまでにしなさい。真島曹長、現在目標をよく知るのは光輝しか居ません。それに、その少年は技術レベルで我々の遥か先を行く未来人から求められるような人間なのですよ。ただの高校生であるとは考えにくい。一先ず建物外から様子見をすることにしましょう。例え『笛吹き男』が成功したとしてもその上で両方捕縛すれば良いはずです」


勿論、『笛吹き男』が撃退されたとしても正規の一個小隊を相手に出来る余裕なんて無いでしょうし。


そう付け加えて私は2人の会話を打ち切らせた。光輝も真島も頷き、それ以上言及する事は無い。


今回限りの一軍人のプライドに興味なんて無いに等しいが、それでも彼らは護衛役。後ろから撃たれては困るので出来る限り尊重することにした。彼らだってそれは分かっているだろうが、少なくとも表向きの体裁を整えた私の言葉に納得してくれたようだ。


―――――――――――――――――――――――――――――――――――――


士気も目的もどうあれ、するべき事は一致している。紆余曲折ありつつも私達は無事に目的地到着した。報告があってから2時間といったところだろうか。現場の近くからすぐに仕事にかかった『笛吹き男』よりかなり遅れを取ったが、それでも東京から軍用車を飛ばして急いだのだ。『笛吹き男』も報告からすぐに取りかかれたわけでは無いだろうから、まだ仕事中であるはず。


「櫻井さん、どうやら奴らはしくじったみたいですよ」

「どうして?」

「ほら、あそこです。一箇所だけ電気がついています。シェルターへの避難で電源が落とされているはずなのに電気がついている。暗所で仕事をする業者がこんなことをするわけはありませんから英治君によるものでしょう。なら、彼は業者による襲撃に備えていたと分かります。ただ食料欲しさに電源をつける必要はありませんからね。本来ならこれで十分なはずです」


そう言って光輝は手元の懐中電灯を振って見せた。


あの手の施設の電源を起動するには2通りある。手動か遠隔か。遠隔で起動するには専用の端末から操作する必要があるし、手動でなら管理室の操作板から行う必要がある。普通ならこんな知識を持っていないし、持っていたとしても懐中電灯で済むならわざわざ起動したりしない。確かに、その行動には起動しておかなくてはならない何かがあったように感じる。


「あの電灯は彼らが勝っている証拠、か」


私自身、楠木英治が裏社会の人間相手に立ち向かえる事は確認している。報告によれば人影は4つ。彼にとって大切な存在であるならば猛烈な対抗をするだろう。『笛吹き男』達に電源をつける知識があるか怪しいことからも楠木英治が勝っている可能性の方が高いと予想できる。


「真島曹長、建物内に侵入しましょう。内部では既に目標が『笛吹き男』を下していると思われます。管制室へと急行してください」

「了解。総員、先刻発見した侵入経路から進め! 絶対に取り逃すな!」


真島の号令で隊員達が動き出す。万全を期す為に突入から潜入に切り替えられるようなアクシデントはあったものの、順調に私達は相手を追い詰めているとこの時の私は思っていた。


―――――――――――――――――――――――――――――――――――――


「三善光輝、悪いけど僕は正義なんてものに興味は無い。僕の行動理念はただ一つだ。僕の仲間の全てを守る。それを邪魔するのなら、敵対する全てを壊す。その為なら何度でも悪になるさ。君が言った通り、僕は“悪魔”なのだから」


楠木英治のその言葉を皮切りに、空気が確実に重くなった。直接相対していない私でさえもその気配が分かるほどに濃密な敵意を感じる。


ここに居たらまずい……!?


そう感じたのは楠木英治ら4人を発見し、様子見に光輝が先行してから数分が経った時のことである。隊員に奇襲を仕掛けさせ、威嚇とはいえ実弾を連射したにも関わらず、楠木英治は顔色一つ変える様子がなかった。そして、本格的に武力行使をしようとした矢先に市民を盾として脅された。罠に嵌めた『笛吹き男』を解放すると言われたのだ。


しかし、少年の反撃はそれだけに留まらない。少年は私達を鋭い眼光で睨めつけた。


ただそれだけで、まるで実態を伴っているかのような威圧を私達は受けた。少しでも動けば、隙を見せればたちどころに殺されてしまいそうな錯覚を感じる。いや、これは本当に錯覚なの?


理性はそうだと訴えかける。彼は武器を持っているわけでもなく、細い体からは人を殺せるようなエネルギーを感じない。けれど、本能に近い何かが確かに死を察知していた。これ以上刺激すれば容易く自分の命が摘み取られそうな、そんな感覚を。


死線を潜った経験なんて一度も無い私ですら、自分が失われるかもしれないという寒気に襲われた。光輝や隊員達も動けないでいる。


少年の死角にいる私がこれなのだ。光輝達が動けないのも当然といえば当然なのかもしれない。


怖い、恐ろしい。


そう感じたのもいつ振りだろうか。決死の覚悟を決め、私は少年の前に出ることにした。なるべく多くの注目を集め、集中を削ぎ、光輝達が我に返るように。




その目論見は無事成功し、撤退することが出来たが、私達の精神は酷く削られていた。


「まさか、あれ程までに成長していたなんて……」


光輝が震える手を押さえながら呟く。後ろでは真島達が肩で息をしていた。


「ちょっと光輝。あんなの聞いてないわよ。あれじゃあ、本当に悪魔じゃない」


私が楠木英治の前に出た時、判断としては正しくても致命的にミスをしていることに気がついた。“決死の覚悟”程度ではまるで足りなかったのだ。今振り返ってみてもよく最後まで言葉を続けられたと思う。


少年の目には光が無かった。全く焦点の合わない目をこちら全体に向け、ただ立っていただけに過ぎない。しかし、その意識は確実に私達の体を射抜いていた。ひたすらに敵意と殺意を押し付けられた。思い出せば距離をとった今も身震いがする。


幻覚だと思う。だが、私にはあの少年が悪魔に見えた。憎悪を滴らせ、ただ無慈悲に、何の躊躇いも無く人を殺す存在に。貧富も階級も関係なく、等しく無価値に考えているような無関心。それがあの少年にはある。あの場で私達を殺したとしてもきっと彼にはアリを踏み潰す程度の感傷しか無かっただろう。そう思うほどに恐ろしかった。


「やられましたね。きっと英治くんには私達が来ることも想定内だったんでしょう。むしろ、警戒させる為にわざと私達を釣り出したのかもしれません」

「けれど、色んな相手から狙われている事くらい分かっているはずでしょう。姿を見せるなんて真似するかしら?」

「いえ、警戒させられればそれだけ準備に時間をかけさせることができます。既に2回追い払えているのであれば他の組織も警戒するでしょうし、そうしないのであれば英治君の格好の獲物です。各個迎撃されてお終いですよ」


という事は、楠木英治は時間稼ぎが目的? けれど何のために?


「それは勿論未来人達のことでしょう。現代人は既に要求されている状況です。未来人達はこちらの返答を待っていて、拒否すれば武力行使。英治くんが交渉の切り札になると言いたいところですが、このままではそれも無く卓に着くことになります。そもそも断られる前提で条件を突きつけてますし、交渉を飛び越えて戦争に発展しますよ。現代人に興味が無いのは既に公表されているわけですし」


状況が混濁して英治君にリソースを割けなくなれば、彼の計算通りということなのでしょう。


そう言って光輝は説明を終える。光輝のおかげで私も少し落ち着いてきた。


まず、この世界は既に時間制限を突きつけられている。それを迎えてしまえば未来の世界との戦争を強要されるだろう。楠木英治を捜索するのに人員を割くことも出来なくなる。そうなれば正規軍が彼らを相手にする事は無くなり、『笛吹き男』のような業者だけが動くことになる。彼にとってみればそれこそ容易く下せる相手だろう。


「今回の一件は全て彼の手の内で起きたことだったってわけね」


私のボヤキに光輝が頷く。真島は酷く苦い顔をしていた。


「ともあれ、『笛吹き男』だけでも回収して帰りましょう。手柄無しには帰れない私達に丁度良い手土産とは腹立たしいけど」


私達は楠木英治に言われた通り薬局の前に来ていた。入り口にはテロ対策のシャッターが閉まっていて入れない。隊員が小銃を構え、光輝がシャッターを開ける緊急開閉コードを入力する。


シャッターが上がり始め、中から男達の声が聞こえ――――――


「危ないッ! 櫻井さん伏せてッ!」


――――――――――――!!


爆発が起きた。その爆発の規模は大きく、吹き飛ばされる隊員が目の端に映る。一瞬遅れて光輝に突き飛ばされた。


けれど、その一瞬の間で走馬灯のように思考が巡る。


この爆破は間違いなく楠木英治の仕業だ。どこに仕掛けてあったのかは分からないが、間違いなく彼の仕業だ。


かつて神童と呼ばれていた彼なら、爆弾を作ることが出来てもおかしくはない。それに彼の父親は科学者。薬品を所持していた可能性もある。彼が今回予定していたのは恐らく警告。そして、間違いなく私達の死亡によってそれを促そうとしている。それもごく少数の生存者を残すことでより高い効果を出そうとッ!


思考の途中、長かった1秒は終わりを告げ、私の意識は深く沈んでいった。

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