第13話 前進、もしくは後退に値するもの

 -亜美は弱いな。と、よく恋人の翔に言われた。

 今までの恋人たちには「どこか冷めている」とか「ひとりでも生きていけそう」なんて言われ続けてきたけれど、それは本来の私ではなかったのかもしれない。ともかく、翔の前ではまるで子供のように大きな声で笑ったり泣いたり、嫌なことははっきりと嫌だと言うことが出来た。そして、私が泣くたびに大きな右手の手のひらで私を抱き寄せ、もう片方の手のひらの指先で髪の毛を撫でてくれると、-私のことをきちんと理解してくれている。そう安心できたのだ。

 

 それなのに、車を河川敷の駐車場に停めて、真冬の澄んだ空の下で、まるで-星がきれいだね。そう言われるのと同じくらいの軽さの口調で

「ごめん、別れたいんだ」

 そう言われた瞬間、それは意味のわからない単語の集まりに思えた。ぬるいアルコールを飲んでいる様な空気が流れ、彼がもう一度ゆっくりと「もっと対等に付き合いたかったんだ」そう告げられると、自分に非があることを理解して、そうすると涙がこみあげてきて

「私たち、うまくいっていたんじゃなかったの?」

 彼を見つめたけれど、待っていた右手は伸びてこずに、ただ困った顔をしながら-亜美は弱いな。という台詞が空間に余韻だけを残し、車のエンジンをかけ、そそくさと彼はシートベルトをつけて、私を見ながら更に困った顔をして、こう付け加えた。

「少し、距離を置こうか」

 そう言いながら、私にシートベルトをつけるように目で合図したとき、香水の香りが鼻にツンとした。


 そうして、春が来た今も、私たちは距離を置く。ということをしていた。彼に連絡しても、いつも不在で、折り返し連絡が来ることもなく。彼の言う距離を置く。ということは二人の仲を修復するための時間ではなく、別れの準備をする期間なのだと悟った。連絡が来ないことが当たり前になってゆき、そのことに対して涙する回数も徐々に減ってゆき、それは彼に対する愛情が薄れたものだとは思いたくなかった。私たちのあいだにはまだ細く細い糸が張り詰められていて、それはまだ切れてはいない。まだ確かに繋がっているのだ。


 やがて、桜が満開となり、私はひとりで近所の桜並木を歩きながら、ぼんやりと翔と出逢った日のことを思い出す。その頃、私たちにはお互いに別の恋人がいた。偶然にも夏の花火大会で同じ場所、同じ時間に待ち合わせをしていた。そこは大きな時計台の下で、私たち以外にも待ち合わせしている人々で溢れかえっていて、やたらそこだけが蒸し暑かったのを憶えている。着なれない浴衣で私は既に疲れきっていたし、約束の時間は過ぎても恋人が現れることもなく、目の前からやがて一組、二組と人々は少なくなっていったとき、翔の姿がはっきりと見えた。オレンジ色のTシャツに黒のTシャツを重ね着していて、それにジーンズといったとてもラフな格好だけど、それが日に焼けた顔や腕にしっくりとくる恰好だった。

 とうとう、遠くで花火の音がきこえはじめ、時計台の下には私たちの姿しかなくて、そこで初めて恋人にすっぽかされたことに気付いた。下を俯き、涙をこらえていると、色黒の腕が涙のたまった瞳に映り、顔をあげると翔が目の前に立っていた。

「彼氏、来ないの?」

 そう、心配そうな表情で私の顔を覗き込んできた。

「うん、振られちゃったみたい」

「俺もそうみたい、良かったらせっかくだし、一緒に見に行かない?」

 返事をする間もなく、私たちの手のひらは繋がれていて、花火を見に歩き始めていた。


 それから、私たちは時間が合えば会い、時間がなくとも無理に時間を作っては会い、お互いのことを話しまくった。翔のくせは照れると鼻をかくこと。私のくせは照れると首を斜めに傾げること。小さいころに見たアニメの話や、学生時代にいた面白い先生の話、順を追って交互に話すふたりが出会うまでのストーリー。

 私たちの間には隠し事はなかったし、普通ならば嫌だと思うことさえも愛おしいと感じていたはずだったのに。


 桜並木で歩いていた足を止める。風が吹くたびに桜の花びらが宙を舞う。桜の木の下では菜の花が咲いていた。菜の花のは桜の花びらよりも小さくて、ほんの少し風が吹いただけで花びらが飛んでしまいそうなのに、どんなに強い風が吹いても菜の花の花びらは宙を舞うことはなかった。立ち止まっていた私にまだ若いカップルが写真を撮ってほしいと頼まれたので、それを快く引き受けた。ふたりをレンズ越し見ると幸せで満ち溢れていた。

「ありがとうございました」

 頭を下げ、彼氏に嬉しそうに笑う彼女が、ほんの少し前の自分と重なったけれど、それがなんだか遠い過去の様にさえ思えた。私たちはもうあんな風にお互いを思いやって笑いことさえも出来ないことに気がついたとき、別れの準備が出来たのだと思う。


 満開だった桜が雨に打たれて散るのと同時に、私は2ヵ月振りに翔に連絡をした。「話があるので、時間あるときに連絡をください」すると、すぐに返信が来て「今から大丈夫だよ」そう返事が来たので、決めていた言葉をそのまま返信した。「初めて逢った時計台の下で待っているね」

 私はこれから出す結論に対し、酷く冷静に受け止めていたはずなのに、今にも震えだしそうな足取りで待ち合わせの時計台の下へ行くと、翔はもう着いていて、軽く手を挙げると、彼も気がつき手を挙げた。私はそのまま、彼の正面へ立つと

「色々考えたけれど、翔があの日、声をかけてくれた時から甘えちゃっていてごめんね。私たち、ここで別れましょう」

「分かってくれてありがとう」

 

 -だけど。翔の右手が私の少し伸びた髪の毛に触れようとしたけれど、私はそのまま背中をむけて歩きだした。人混みをかき分け、まっすぐ前だけを見て歩いたけれど、次々と涙がこぼれおちてきた。だけど、その涙を拭うことなく、周囲の人から見られても気にも留めずに、ただ、前だけを見て歩き続けた。

 今度付き合う男には、亜美は弱いな。と、決して言われないように。

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