星の花

明日花

序章 花の女神

0.薔薇姫

 障子張の丸い大窓から黄昏時の淡い光が入り、広々とした室内に温もりのある色味をほんのり滲ませていく。

 

 天井の低い白が基調とされた部屋で、唯一窓枠に沿うようにかけられている紗の薄紫が静かに存在感を放っていた。

 重たい綿や羽が隙間なく敷き詰められた床は、もう百年以上前に足の弱い部屋の主のためにつくられた特別なものだ。弾力性のある上質な綿なので、飛んでも跳ねても柔らかな反発がくるだけで、足裏に固い床の感触は届かない。

 落ち着いた色調の整った部屋だが、塵ひとつなく、家具らしい家具は大窓の前の文机だけ。配慮の行き届いた設計の割には生活感がない、不思議な空間だった。


 その唯一の机の前で、少女が巻物を広げていた。大きな榛色の瞳が、華奢な指が紙の上をするすると動くのに合わせて上下する。

 腕あたりで絞られた紺鼠の落ち着いた振り袖が、用紙の上を滑って、無機質な部屋に周期的な音が響く。

 邪魔になるため座椅子の背もたれに伝わせている長い打ち垂髪に、差し込む橙色の陽光の筋が艶やかに載っている。

 

 突然、はっ、と少女が指を止めて息を呑んだ。室内に音の余韻が満ちる中、少女の耳には高鳴る自分の鼓動だけが響いている。

 朝思いついてから、半日かけて探していた記述をようやく見つけたのだ。

 じっくり見ようと顔を近づけて、少女は手元が暗いことにようやく気づいた。

 障子を上げると、澄んだ空は紺と茜の間の色をしていた。いつのまに日が暮れていたことに驚きつつ、机の端にある四角い夜灯篭ランプをつける。


 そして、本題の巻物をその下へ丁寧に動かした。この国に残された僅かな、とはいえ普通の王城に眠る文献の数倍の量はある書物のうちでも、最も古い創世神話に関する書だった。

 少女は気持ちを整えるように三つ息を吐くと、筆を取って横に置いた用紙に口語訳を記し始めた。


『遥かな昔、まだ人が少なかった頃、人間達を愛した美しい女神がいた』

 

 ____名を、薔薇姫ばらひめ

 花の界の王でありながら、人の界に降りて生きることを選んだ、珍しい女神である。

 彼女は人の界で、人に寄り添って生き、そして人と同じように寿命を迎える。

天命を悟った薔薇姫は、死ぬ直前、一輪の青い薔薇を咲かせ、彼女を慕う人間達に語りかけた。

 

 この青薔薇は、女神ばらひめの化身。

 人の身では叶えられないような願いも叶えられよう。

 人の為せることをすべてやり、それでもどうにもならぬ。

 しかしその願いは、誰ぞ己以外のためを心から思ったものである。

 ならば。

 薔薇に祈るがよい。

 祈りは必ず聞き届けられる。

 

 女神の死と同時に、薔薇の花弁は風にのって世界中に吹かれていった。

 やがて花弁は、清らかな花の如き心根を持つ者の魂に宿る。

 女神の言葉の通り、彼らが心を尽くして強く望めば、日照りの時に大雨を降らせ、死に瀕した人を癒し、迫りくる津波を割ることもできた。


 どんなに頑張っても助からなくて、祈るしかできなくなったひとたちを、花の力はそうやって必ずすくい上げてきた。

 

 やがて歴史は、彼らをブルーティアと呼ぶようになった。

 

 時は幾星霜と巡り続ける。ブルーティアを抱いた世界は、いつも秩序と制約を守り、幸せに満ちていた。



 これは、最後のブルーティアと、若き軍師のお話。

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