2.六花の宮
目的の城が視界に入り、少年は動かし続けてきた足をようやっと止めた。
冬山を登り出して何時間経っただろうか。山の中腹の辺りで感覚が消えた指先を気休めに擦り合わせる。これでよく頂上までこれたものだと自嘲しながら、少年は火照った顔を上げ、目の前に迫る城の全貌を見据えた。
横に長く広がる、白木の古城があった。華美な装飾など何も無い、ただの真白な宮に見える。
しかしこれが、大陸一有名な城。ツィリヤの惨劇は、幼子のうちから親に教えられるのが普通だ。御伽噺のようでありながら、子供に確かに恐ろしさを植え付ける。ツィリヤの惨劇は、文化の中にも息づいている。主犯の
どんな人の人生においても、触れざるをえないほど密接にあるツィリヤの史実。そんなお伽話のような話は、
その城が、目の前にあった。
どんなものかと思えば、血塗れでもなく黄金宮殿のようでもない。強いていうならば、小さな神殿に見えなくもない。
ごく普通の、どんな王国にもありえそうな、白いだけの離宮。この任務を託された時に感じた重大さと緊張感が一瞬薄れてしまうほど、それは凡庸であったのだ。
少年は徐々に湧き上がる不快感に気づく。
ツィリヤを壊した無垢な娘を象徴するように、汚れひとつない宮。
任務を聞いたときには特に何も思わなかったが、この中には、罪も償わず、大事に守られて生き延びた娘がいるのだ。
きっと甘い世界しか知らないのだろう。10年間、何故この宮にいるのかも知らず、人とは違う命を持て余してきたはずだ。
そこまで、思うのに。
しかし、なのに、動けない。
目が離せない。
終わった国にただ一つ残ったツィリヤの遺跡、六花の宮。
その白さは高潔の証、その雪は
涙も悔恨も漏れ出ない、静寂が応えなのだ。彼の姿に恥じぬように、今、この宮は在る。
あの日ツィリヤが失ったはずの全てが、そこにあった。
ツィリヤが失ったもの?
彼?
なんだ、それは。
少年は勢いよく顔を上げた。自分の輪郭が戻ってくるような、不思議な、しかし慣れ親しんだ感覚。舌打ちして頭を二、三度振る。何かを振り払うように。
これでもう何度目になるだろう。とうの昔に数えるのはやめた。
少年は、外部の存在に、極端に影響されやすい。人であれ物であれ土地であれ。感情、思考、記憶、強すぎる思いは時として主体から漏れ出している。それらを無意識に受け取って、少年は自らのものと錯覚してしまう。同調しすぎて、自分を見失うほどに。
新天地で、少年が初めてそのことを自分から相談した相手は、老医師だった。そして、初めて明確な答えをくれたのも、彼だった。彼は煙草を燻らせて言った。
お前が他のやつの感情やら過去やらに引っ張られてんのは、自我の門が驚くほどに低いからだ。みんなわかってるのに、お前はわかってない。
「...自分が何者でありたいのかを、人に委ねるなってことを...」
医師の言葉をなぞって呟く。
前を見据え、細く息を吐き出した。
目の前の古城に呑まれかかっている自分に気づいた後ならば、もうその心配はない。
これは、自分に関係ないものだ。
五度言い聞かせると、心が落ち着いてきた。
ややあって、静かな雪の夜の瞳を眇めて少年は歩き出す。
建物の中も外観同様、汚れひとつない白塗りの木でできていた。造りも、事前に聞いていた建築当時の設計のままだ。
呑まれることもない。
彼は歩数を確認しながら、脳内の地図通り最短の道を行く。
最後の突き当たりを、一、二、三歩。
目の前にある大きな扉に手を触れた。
永遠の宮の奥に秘されたものは、そこにいた。
ツィリヤ風と呼ばれる様式の部屋だった。驚くほどに歴史書の資料通りだ。
壁には飴色の
奥の壁一面を使った大窓から差し込む夕日を受けて、羽毛のあちこちに落ちている小さな丸い粒が色とりどりに淡く煌く。
窓際に置かれた小さな卓には、数冊の巻物が広がっていた。
そして、今まさに筆で何かを書こうとしていたらしい娘が、目を丸くしてそれを落とす。
その音さえも羽が吸い取ってしまう。
青の墨が白い羽の床に滲んでいく。真珠みたいな石の下、海が広がるように。
静かな出会いだった。
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