242 お礼を言わなくてはならないのはわたしのほうだよ


「いったい、何があったんだい?」


「あ、いえっ。たいしたことじゃないんですよ!? 『ラ・ロマイエル恋愛詩集』をクレイユ君に馬鹿にされたので、思わず反論してしまって……。それに、もうちゃんと仲直りもしましたし! クレイユ君も、『ラ・ロマイエル恋愛詩集』の魅力に気づいて、夏休み中に読んだみたいですから!」


 『ラ・ロマイエル恋愛詩集』の朗読会に参加したいって言ってたってことは、たぶん読んでるよな、うん。


「へえぇ~っ! 『ラ・ロマイエル恋愛詩集』をねぇ……っ!」


 シャルディンさんが何やら感心したようにうんうんと頷く。


「まさか、クレイユが『ラ・ロマイエル恋愛詩集』を読む日が来るなんて……」


 シャルディンさんが感慨深げに呟く。蒼い瞳は、ここではないどこか遠くを懐かしむように見つめていた。


「シャルディンさん、『ラ・ロマイエル恋愛詩集』は思い出深い詩集だっておっしゃってましたもんね。詩集の素晴らしさを理解する人の輪が広がるのは、ほんと良いことですよね!」


 なんてたって、イゼリア嬢が読んでらっしゃった詩集だもんなっ!


「ああ……。よし! 頭の中でどんどんシーンや台詞が生まれて来たよ!」


 シャルディンさんが気合いのこもった声を上げる。


「えっ、ほんとですかっ! さすがです!」

 いったいどんなアレンジが加えられるんだろう。俺までわくわくしてくる。


「ハルシエルちゃん。本当にありがとう」

 不意に、シャルディンさんが深々と頭を下げる。


「シャルディンさん!? 急にどうしたんですか!? お礼を言うのは私のほうなのに……っ!」


 びっくりしてすっとんきょうな声を上げると、


「いいや」

 と、決然とした表情でかぶりを振られた。


「お礼を言わなくてはならないのはわたしのほうだよ」


 シャルディンさんの整った面輪が苦く歪む。


「きっと、話せば怒られて、軽蔑されると思う。わたしがハルシエルちゃんに協力している本当の理由は……」


「やだ、シャルディンったら! あたしに内緒でハルシエルちゃんとデートだなんて、けちゃうわ!」


 突然、華やかな声が響き、俺とシャルディンさんは弾かれたように声の主を振り返る。


 喫茶店中のお客の視線を一身に集めて立っていたのは、シャルディンさんの奥さんであり、劇団の看板女優であるアリーシャさんだった。


 まるで花道を歩いてくるかのように、アリーシャさんが俺達のテーブルへ近づいてくる。シャルディンさんが心得たように奥により、空いたスペースにアリーシャさんが優雅な仕草で腰かけた。


 うおぉっ、すげえ……っ! 単に歩いて座るだけの動作なのに、ひとつひとつに華があって、無意識に惹きつけられる……っ! これが女優さんのオーラってやつか……っ!


「も~っ! シャルディンったら、あたしに黙ってハルシエルちゃんとデートなんてずるいわ! あたしだって、ハルシエルちゃんとデートしてみたかったのに!」


 えっ、そっち!?


 アリーシャさんの言葉に目を丸くする。「あたしという妻がありながら、女子高生とお茶してるなんて!」とか、もしくは「いくらだんな様が素敵だからって、女子高生ごときがあたしのシャルディンと勝手にお茶をするなんて、いい度胸じゃない」あたりかと思ってたんだけど……。


「あなたが噂のハルシエルちゃんね! 何度か『コロンヌ』で見かけてたんだけど、混んでいる時ばかりで、話しかける機会がなかったのよねぇ……」


 アリーシャさんが頬に手を当て、残念そうに溜息をつく。

 そんな姿も様になっているから、女優さんってすごい。


 確かにアリーシャさんが言う通り、何度か来店してくれてるから顔と名前は知ってるけど、タイミング悪くお客さんが多い時間帯だったから、ろくに話をしたことがないんだよなぁ。


 シャルディンさんはよく一人で来店してくれるから、シャルディンさんとはおしゃべりしたりするんだけど。


 でも、「噂の」って……?


 疑問が顔に出ていたんだろうか、アリーシャさんがくすりと紅いルージュを引いた唇を弓なりに上げる。


「あら、ハルシエルちゃんって近所じゃ有名なのよ~。『コロンヌ』の美少女看板娘だって♪」


「ええっ! そんな……っ!」


 俺なんかよりよっぽど華やかな美人に言われ、とんでもない! とぶんぶんと首を横に振る。


「あらぁ~、謙虚なのねぇ。もっと自信を持ってくれていいのよ? ほんと、うちの劇団に新人女優としてスカウトしたいくらいなんだから」


「えぇぇっ!? 私なんてそんな……っ!」


 見た目がいいのはハルシエルの外見だけだから! 中身は演技の「え」の字もできない男子高校生なんで!


「私、とてもじゃないですけれど、演技なんて……っ」


「でも、文化祭の舞台で、『白鳥の湖』のオディール役をするんでしょう? シャルディンから聞いたわよ。あたしとしては、ハルシエルちゃんはオディールよりオデット姫のイメージなんだけど……」


「いえっ! 生徒会には私なんかより、もっとずっとオデット姫にふさわしい本物の令嬢がいらっしゃいますので! むしろ、私なんて脇役でいいんです!」


 拳を握りしめ、身を乗り出して力説すると、アリーシャさんが驚いたように身を引いた。かと思うと、ふっと吹き出す。


「そんな綺麗で可愛い顔をしているのに、脇役でいいだなんて、面白いことをいう子ねぇ! そんなハルシエルちゃんがどんなオディールを演じるのか、興味深々だわ~っ!」


 あでやかな笑みを浮かべたアリーシャさんが、ぱちりと俺にウインクする。


「もし、どんな風にオディールを演じたらいいのか悩んだ時には、ぜひあたしに相談してね。いくらでも相談に乗ってあげるから♪」


「は、はいっ! ありがとうございます!」


 アリーシャさんからの思いがけない申し出に、俺は深々と頭を下げた。


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