140 このまま、放したくないな


 話しているうちに、少しずつ腹がこなれてきた俺は、座り直して紅茶のカップに手を伸ばした。


 かなり冷めているが、暑いのでちょうどよいくらいのぬるさだ。


「……そろそろ、時間かしら?」


 ごほうびデートの時間は、ひとり当たり三時間だと聞いている。厳密に時間を守らないといけないのか、少々緩くてもいいのかは知らないが、あまりのんびりもしていられないだろう。


「そう、だね……」


 尋ねた瞬間、エキューの表情がうなだれる子犬みたいに、しゅん、と沈む。

 見ているこちらまで胸が痛くなるような、哀しげな表情。


 エキュー……。まだうさぎと遊び足りなかったのか……。まだ座っていたいって言って、悪いことしたかな……。


 いやでも、さっきの俺は、一歩でも動いたらお肉が逆流しそうだったし……。


「残念だけど、時間なら仕方がないね」


 俺がかけるべき言葉を探しあぐねているうちに、心の整理をつけたのか、エキューが自分を納得させるように決然とした表情で頷く。


「ディオス先輩との待ち合わせ場所まで送っていくよ」

 立ち上がったエキューが、テーブルを回って、俺の隣へやってくる。


「ありがとう」


 椅子を引いてくれたエキューに礼を言い、立ち上がろうとする。

 身体の……というか、腹の重さにふらりとよろめく。


「ひゃ……っ」


 思わず声を上げた俺を抱きとめてくれたのはエキューだった。


「ご、ごめんっ」

 あわててエキューから離れようとする。が。


「エキュー君……?」


 逆にエキューの腕が俺の身体に回される。そのまま、ぎゅっと抱き寄せられ。


「……他の相手のところへやるなんて……。このまま、ハルシエルちゃんを放したくないな」


 エキューの苦い声が、耳朶じだを打つ。


 聞いた覚えがない苦さと痛みに満ちた声。顔は俺の髪にうずめられ、表情は見えない。

 逃すまいとするかのように、エキューの腕に力がこもる。


「ハルシエルちゃん、僕……」


 甘くて熱い、エキューの声。

 その熱が移ったかのように、俺の頬も熱を持つ。


 心臓がどきどきして爆発しそうだ。っていうか。


「エキュー君! 苦しい……っ!」


 そんなにぎゅっとされたらヤバイ! 特にぱんっぱんの腹がっ!


「ご、ごめんっ!」


 エキューが我に返ったように、ぱっと手を放す。

 自由になった途端、飛び込んできた空気を俺は思いきり吸い込んだ。その拍子に軽く咳きこむ。


「わあっ、ほんとにごめんっ! 大丈夫!?」

 エキューがあわてふためいて背中を撫でてくれる。


「だ、大丈夫……」

 ちょっと肉が逆流するかと思ったけどな!


「ごめんねっ。ハルシエルちゃんに苦しい思いをさせちゃうなんて……っ」


 平謝りするエキューに、大丈夫だからと笑ってかぶりを振る。


「ごめんね。私がよろけちゃったせいで……」

「ううん。僕こそほんとごめん。……じゃあ、行こう」


 エキューが俺の手を取って歩き出す。


「ディオス先輩との待ち合わせ場所は玄関前だよ」


 手をつないでエスコートしながらエキューが教えてくれる。


 玄関までさほどの距離もない。

 次を曲がれば玄関前という校舎の角まで来たところで。


「じゃあ、ハルシエルちゃん。僕はここまでだね」


 不意に、エキューが足を止める。


 ん? 玄関はすぐそこだけど……?

 きょとんとする俺に、エキューが苦笑する。


「これから、せっかくディオス先輩がデートなのに、僕の姿が目に入ったら、先輩だって嫌でしょ?」


「? ディオス先輩は、そんな心の狭い方じゃないと思うけど……?」


 小首をかしげて告げた言葉に、エキューの口元が苦く歪む。


「このタイミングで他の男の人の名前を出されるのは、さすがにちょっと嫉妬しちゃうな……」


「え?」


 低い呟きが聞き取れず問い返そうとすると、不意に明るい笑みを浮かべたエキューが俺を振り向いた。


「ねえ、ハルシエルちゃん。僕とのデートはどうだった? 僕、ちゃんとハルシエルちゃんを楽しませられたかな?」


「うんっ、もちろんよ! うさぎと遊べたのもすっごく可愛くて癒されたし、なによりあのランチ! あんなにおいしいものを食べたのは生まれて初めて! 私のお願いを叶えてくれて、本当にありがとう!」


 いつものエキューの笑顔に安心して、俺も満面の笑みで頷く。


「よかったぁ~!」

 エキューが輝くような笑顔を浮かべる。


「ハルシエルちゃんの言葉は、いつも僕を笑顔にしてくれるね」


 砂糖菓子みたいに甘く微笑んだエキューが、愛らしく首をかしげる。


「ねぇ……。ひとつだけ、ごほうびをもらってもいいかな?」


「え? うん。これはエキュー君のごほうびデートなんだもの。でも、私なんかにあげられるごほうびなん――」


 頷いた俺が言い終わるより早く。


 エキューが一歩踏み出す。

 甘いコロンの香りが鼻をくすぐったかと思うと。


 ちゅっ、と、あたたかく柔らかなものが頬にふれる。


 愛おしむような軽いリップ音。

 頬にキスされたのだと気づくより早く。


「じゃあね、ハルシエルちゃん! 今日は僕のほうこそ、本当にありがとうっ!」


 弾むような声で告げたエキューが、軽やかに身を翻す。

 そのまま、風のように走り去り。


「え……。ええぇぇぇ~~っ!?」


 後に残されたのは、一瞬で沸騰した頬に手を当ててうめく俺だった。


 ゆ、油断しちゃダメだって、わかってたけど!

 でも、まさか最後の最後で頬にちゅーされるなんて……っ!


 エキューにほんわかしてた俺の馬鹿――――っ!

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