82 己の狭量さが、情けなくてね。


「ど、どうしたんですか? 急にそんなことをおっしゃるなんて……」


 いつも自信に満ちて輝かんばかりのリオンハルトが、弱音を吐いているなんて。


 心配になってのぞきこむと、リオンハルトが端麗な面輪をしかめたまま、首を横に振る。苦みにあふれた表情をしてもイケメン度がまったく下がらないんだから、ある意味、脅威かもしれない。


「自己嫌悪に陥っているんだ。閉会式では表に出さぬように気をつけていたが……。本当は、内心で悔しくてたまらなくてね……」


 弱々しい声で、リオンハルトが苦く呟く。


「尊敬する友達が、素晴らしい成績を残したというのに、心からそれを喜べないなど……。己の狭量さが、情けない」


「そんなことっ!」

 俺は思わず反論する。


「そんなの、当たり前じゃないですか! 悔しいってことは、それだけ、リオンハルト先輩が頑張られたってことでしょう!? 頑張ったのに手が届かなかったんなら、悔しくて哀しいのは当然です! 勝った相手を手放しで喜べないのは、情けないことじゃありません!」


 俺の反論に、リオンハルトが驚いたように目を丸くする。

 かまわず、俺は視線を伏せて続けた。


「私……。本当は、保健室で泣いちゃったんです。ハードル走で一位を獲れなかったのが悔しくて、哀しくて。ディオス先輩にもエキュー君にも、いっぱい教えてもらったのに、結果を出せなかったのが申し訳なくて。でも」


 リオンハルトを見上げ、にこりと笑う。


「エキュー君が言ってくれたんです。頑張ったことは無駄にならないって。ディオス先輩も気にするなって慰めてくれて……。リオンハルト先輩も、きっとたくさん練習されたんでしょう? 応援合戦のダンスだって、すごく素敵でした! 私、思い出すだけで幸せな気持ちになるんです!」


 イゼリア嬢のダンスは、本当に素晴らしかった! 今でも脳裏に思い描くだけで幸福感に包まれるほどだ。


 イゼリア嬢が華麗だったのは言うまでもないが、ダンスは一人では踊れない。リオンハルトが素晴らしいリードをしてくれたからこそ、イゼリア嬢の麗しい姿を見れたのだと思うと、いくら感謝しても足りない。


 熱く語った俺は、はたと気づく。


「って、すみませんっ。私なんかがリオンハルト先輩に……」

「きみは」


 背けようとした顔を、頬に伸ばされたリオンハルトの手が阻む。


「いつも、わたしに新しい感情を教えてくれるね」


「あ、あの……っ?」

 リオンハルトの手のひらの熱が移ったかのように、じんわりと俺の頬も熱くなる。


「……いいのだろうか? きみが言う通り、悔しいと思っても」


「もちろんです! リオンハルト先輩だって、人間なんですもの! 感情を止めなきゃいけない義務は、誰にもないと思います!」


 告げた瞬間、リオンハルトが破顔する。

 瞬間、ぶわっと薔薇が咲き乱れる幻が見えた。


「きみがそう言ってくれるのは、誰に言われるよりも、嬉しい」


 耳を融かすような甘い声。


 ちょっ!? 待て待て待て──っ!

 お前、ほんのさっきまで沈んでただろっ!? なんでいきなり完全復活してるんだよっ!?

 さっきの情けなさそうな顔は幻覚か!?


 急に心臓がばくばく鳴り始める。リオンハルトの手から逃げようとしたが、頬を包む手は、決して力をこめているわけではないのに、逃げられない。


「ディオスとエキューがMVPを獲って、きみをデートの相手に指名した時は、悔しくてたまらなかったが……。そう感じることは、罪悪ではないのだな」


 …………ヘ?


 ちょっと待って、ちょっと待って!?

 悔しかったのは、自分が率いる星組が花組に負けたことじゃなくて、MVPそっち!?


 MVPを獲られて悔しいって、まさか……。


 いや、考えたくない。考えるな俺! これは深く詮索しちゃいけない予感がひしひしするっ!


 と、俺が思考を放棄するのを嘲笑うかのように、リオンハルトが熱のこもった甘い声で告げる。


「叶うならば、わたしもきみをデートに誘いたかった」


 あ────っ! 聞ーこーえーなーい──っ!


 俺は何も聞こえなかったっ! 聞いてないったら聞いてないっ!

 頼むからそうさせてくれっ!


 リオンハルトとデートだとっ!? もしそんな事態になったら、砂糖に埋もれてあの世に行きだぜっ!


「あっ、そろそろうちに着きそうですねっ! もうかなり近いですよねっ!?」


 リオンハルトの宣言を聞かなかったことにして、全力スルーすると決めた俺は、リオンハルトと視線を合わさず早口に言う。


「ここまで送っていただいたら後は一人で帰れますから! 送っていただいてありがとうございました! 私はこれで……っ」


 一秒でも早く、この危険地帯から逃げ出さねばと本能がガンガン警鐘を鳴らしている。


「そんなにあわてなくても大丈夫だ。ちゃんと屋敷の前まで送って行くから」


 いやっ、そんな気遣いいらないからっ! そもそもオルレーヌ家は屋敷なんて立派な家じゃないから! ふつうの民家に毛が生えたくらいなんでっ!


「おっ、お気づかいはありがたいですが、大丈夫です! 第二王子様のお車で送っていただいたなんて、父母が知ったら、驚愕で腰を抜かしてしまいますから!」


 頼むから早くこの車から降ろしてくれ──っ!


 俺が必死でリオンハルトを押し留めている間にも車はなめらかに走り、明らかに高級車に不釣り合いな、何の変哲もないオルレーヌ家の門前で止まる。


「つ、着きましたから! し、失礼いたしますっ」


 鞄を引っ掴んでドアハンドルに手をかけ、頬にふれたままのリオンハルトの手を引きはがそうとして。


「ハルシエル嬢!」


 どこか切羽詰まった響きで名を呼んだリオンハルトが、ドアハンドルにふれる俺の手を掴む。


「待ってほしい。ひとつだけ……」


 熱情をはらんだまなざしが、俺を射貫く。

 心臓がどきんと轟き、まなざしに縫い留められたように動けない。


「感情を止める必要はないと、きみが教えてくれたのなら──」


 頬にふれていた指先が、あごへとすべる。

 くいっと横を向かせられたかと思うと、柔らかな熱が左頬に押しつけられた。


 ちゅ、と響くリップ音と、包むように押し寄せる、甘く華やかな香り。


「きみの頬を、わたしのくちづけで上書きさせてほしい」


 いっ、今!? いまいまいま…………っ!?


 ぼんっ、と爆発したように顔が沸騰する。唇がわななき、声さえ出せない。


「すまない、急に。きみが感情を出すことを許してくれたのがあまりに嬉しくて思わず……」


 全身を固くする俺に、あわてた様子でリオンハルトが弁明する。


 言った! 確かに言ったよ!「感情を止めなきゃいけない義務は誰にもない」って! けどっ!


 だからと言って、行動に移していいとは、ひとっことも言ってねえぇぇぇ──っ!


 っていうか、車内にいる間はふれないって約束どこ行った――っ!?

 宇宙の彼方に飛んでってるだろっ、絶対! 俺の心も脱魂して飛んでいきそうだけどっ!


 俺の心の叫びが通じたワケじゃないだろうが、リオンハルトが我に返ったように端麗な面輪を強張らせる。


 っていうか、どんな表情しても腹立たしいほどイケメンだなっ!?


 なんか今、この苛立ちのままに殴ってやりたい……っ!

 けど、落ち着け俺! 相手は第二王子だぞっ!?


 それに、万が一リオンハルトまでヴェリアスみたいだったらどうする!?


 不敬罪に問われて逮捕されるのも、リオンハルトが変態かもしれないと知るのも、どっちも御免だっ!


「ハル──」

「送っていただいてありがとうございましたっ! 本当でしたらおもてなしをするべきかもしれませんが、リオンハルト先輩も約束を破ったので、今回の不敬はお互い様ということで! じゃあ失礼しますっ!」


 リオンハルトに口を挟む隙を与えず一気に言い放った俺は、ロックが外されたドアを勢いよく開け放ち、車外へ飛び出す。


 運転席から回り、後部座席のドアを開けようとしていた運転手さんが、自分が開けるより早く飛び出してきた俺を見て、目を丸くする。


 が、かまっている余裕なんかない。


 乱暴に金属製の門扉を開け、短いアプローチを駆け抜けて、玄関に飛び込む。

 ばたんっ! と後ろ手に玄関扉を閉め。


 気力を使い果たした俺は、ずるずるとタイル張りの床にへたりこんだ。

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