最終話


 ほぼ完成したカレーをかき混ぜていると、どうしても我慢が効かなくなってくる。

 鼻孔をくすぐる香り、ゴロゴロとした具材がルーに絡まって輝いているように見えた。


 散々苦労してお腹も空いていた僕は、そそくさとスプーンを取り出すとそれでカレーをすくおうとした瞬間、スマホから再び着信音が響いた。


 またみぞれか。

 などと思いながらスプーンを置いた僕がスマホを見ると、そこに表示されていたのはみぞれからのメッセージでは無かった。


「ハルさん!」


 思わず口に出てしまうくらいに僕の気持ちは跳ね上がっていた。

 僕は慌てて送られてきたメッセージを確認する。


『なんか、マンションの廊下めっちゃカレーの良い匂いしてるんだけど』


 それを見て、僕はハルさんが帰宅していることを悟る。

 さらに、メッセージが続けて送られてきた。


『最近カレー食べてない』

『あーしん家のカレーって牛肉じゃなくて豚なんだよねー』

『あー、なんかめっちゃお腹空いてきた』


 連続して送られてくるメッセージから、ハルさんがどれくらいお腹空いているのか推測できる。

 僕は、出来上がったカレーを見ながら考える。


 誘ってみようかな。


 それが頭に浮かぶと同時に、ハルさんが美味しそうにカレーを食べる姿を想像する。

 紅い瞳を輝かせながら、小さな口を大きく開けてカレーを頬張るハルさん。


 僕の指は自然とスマホの画面をタップしていた。


『実はカレーを作ったのですが、よかったらハルさんも食べますか?』


 そして、送信ボタンを押した直後に僕はあることに気付いた。

 これ、遠回しに部屋に連れ込もうとしているのでは、と。


 一度そのことに気付いた瞬間、僕の頭はその事ばかり考えてしまう。

 確かに、二人きりというシチュエーションはこれまでにもあった。

 しかし、僕の部屋というのはつまり衆目から隔絶された空間。

 それも一人暮らしの男の部屋で誰かが突然やって来る可能性も全くない。


 誰もいない、ハルさんと二人きり。


 僕だって健全な男子高校生だ。

 そういう事を考えてしまうのは仕方のないことだけど、今回はそんなやましい気持ちは無い!

 いや、まったく無いのかと聞かれればはっきり答えるのは難しいのかも知れないけど、主目的はただハルさんにカレーを食べて欲しいという純粋な気持ちに違いないんだ。


 そんな事を考えているうちに僕の送ったメッセージに既読がつく。

 しかし、ハルさんからの返信は無い。


 数分待っても一向に送られてこない。

 血が上って赤くなっていた僕の顔からどんどん熱が引いていくのがわかる。


 やってしまったのではないか。

 僕の下心が伝わってしまったのではないか。


 そんな自責が浮かんでは消え、浮かんでは消えとしていると、静まり返った室内にインターホンの音が響く。

 もしかして、と思った時には僕の体は玄関へ向かっていた。


 ろくに相手も確認せず、扉を開ける。


「やっほー、ご馳走になりにきたよー」


 扉の先に居たのはやっぱりハルさんだった。

 夕焼けに照らされた綺麗な髪が普段とは違う色合いを見せる。

 晴れやかな笑顔の彼女を見た瞬間、僕の不安はどこかへと消し飛んだが、今度は別の問題が発生した。


「ハルさん、その……」

「ん? どーしたし?」


 思わず口に出そうになった言葉を引っ込めるが、ハルさんはそんな僕を不思議そうに見ている。

 僕は、視線を逸らそうとするが抗えない魅力からハルさんの姿を改めて確認してしまう。


 ハルさんは、とてもラフな部屋着だったのだ。

 もこもことした可愛らしい意匠ではあるが、長い袖に比べてズボンの丈が極端に短かった。

 スラリとした長い脚は、曇りない真っ白な肌で細くてしなやかだ。

 しかし、太ももは細くとも確かな柔らかな質感を感じさせており、何なら普段の短めのスカートよりもきわどさと危うさがある。


 僕は何とか顔の表情を維持して視線を上に無理やり持っていく。


「どうぞ、上がってください」


 震えそうになる声を抑えて口を開く。

 ハルさんはお邪魔しますと、言った後にリビングへ向かっていく。


 扉を閉めてハルさんについて行こうとした時、再び僕の視線は一点に釘付けになる。

 ハルさんの上着の裾は少し短いのか、歩くたびに背中がチラチラと見え隠れし更にズボンのウエスト部分からもこもことした白以外の色が見えてしまっている。


 おそらく、ズボンの下に履いているそれは薄いピンク色をしているように見えた。

 僕は、ハルさんのその無防備な姿にすっかり心をかき乱されてしまう。


 落ち着け、やましい気持ちを持つな。

 ハルさんがこんなに無防備なのは僕を信頼している証拠。

 なら、変な気を起こしてハルさんに幻滅されるような事態は避けなければいけない。


 心頭を滅却すれば火もまた涼し。


 どんな状況でも落ち着くことが重要だ。

 もっとも、これを言った人はそのまま焼死したんだけど。


 気を取り直した僕は廊下を進みリビングへ入る。


「わかってたけど、やっぱ同じ間取りだね」


 リビングではハルさんが室内を眺めていた。


「すぐに用意しますから適当に座っていてください」

「あ、あーしも手伝うよ!」


 ハルさんはそう言うと、僕についてキッチンへ入る。

 キッチンをまじまじと観察したハルさんが真剣な顔を見せた。


「なんか、あーしの部屋より片付いてる」

「僕の場合は使う機会が少ないからですよ」

「いや、それあーしも同じだし」


 ハルさんは、自分の部屋との違いを実感したのか難しい顔をしている。

 あまりそのことに突っ込むのはよろしくないと判断した僕は、カレーの方に集中する。

 カレーはまだ湯気がたってはいたが、一応温め直すことにする。


「そーくん、あーしは何したらいい?」

「では、ご飯を温めてもらえますか?」


 そう言って僕が指をさしたのはパックご飯だった。

 ハルさんはそれを手に取って電子レンジへ向かう。


「あ、このレンジあーしと一緒だ!」

「奇遇ですね」


 僕は、そんなやり取りをしているとまるで新婚――、とそこまで考えて思考を止める。

 あまり発想を飛躍させすぎるとそっちにばかり気を取られてカレーを焦がしてしまう。


 黙々と、作業を終えて温まったカレーとご飯をさらによそう。


 リビングのテーブルにそれを運び、僕たちは向かい合って床に座る。


「とってもおいしそう!」


 きらきらと輝かせている紅い瞳は、カレーに視線を注いでいる。

 僕は、予想通りの反応に少し笑ってしまう。


「そーくん、もう食べて良い!?」


 食い入るようにそう言うハルさんの姿は、僕の目には犬の耳と尻尾が映えているように映る。


「ええ、どうぞ」


 すると、ハルさんは待ってましたと言わんばかりに両手を合わせて元気よく言う。


「いただきまーす」


 スプーンいっぱいにカレーをすくったハルさんは、やはり小さな口を大きく開けてそれを頬張った。

 目をつむったハルさんが、口を動かしじっくりと味わっている。


 僕は、少し緊張感を持ちながらそれを見つめる。

 すると、ハルさんはその大きな眼を見開くと、瞳を輝かせながら晴れやかな笑みを浮かべる。


「おいしい! そーくん、とってもおいしいよ!」


 それを聞いた僕は自然と笑みがこぼれた。

 そして、僕の胸に安堵と幸福が広がっていく。


 ああ、よかった。

 ちゃんと作れた。


 ハルさんは二口目も、最初と変わらずスプーンいっぱいに盛って口に運ぶ。

 その顔は、喜びに満たされていた。


 そんなハルさんを見ていると、僕の心に自然とある感情が湧いて来る。


 誰かに僕が作ったご飯を食べてもらって、喜んでもらえるとこんなにうれしいとは思わなかった。

 それに僕はやっぱり、おいしそうに食べるハルさんの笑顔が好きだな。


「ハルさん、僕は――」


 そう思うと、僕の口は自然と動き出していた。

 そして、ハルさんの顔にはあの晴れやかな笑顔が浮かぶのだった。


「あーしも、そーくんの――」


 今日食べたカレーの味は、たぶん一生忘れない。

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お隣さんの純情ギャルが美味しく頂いてくれるので みかん屋 @mikan416

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