第三章 お隣さんに食べてもらいたいので

第11話


 千里の道も一歩から。


 たとえ困難な事柄でも目の前の一歩をこなしていけば確実に達成できる、という意味のことわざだ。

 有名なので言っている人も多いと思う。


 到達点がはるか遠くても、目の前の一歩はすぐ傍なのだ。

 つまり、僕がこれから進む遥か険しい料理のいただきも、最初の一歩を踏み出し、次の一歩につなげていけば必ず前へ進めるのだ。


 では、僕の最初の一歩とは何か?


 まずは調理器具を揃える事からだ。





 料理に挑戦する、なんて決めたはいいものの、そもそも身一つで出来ることではない。

 幸い、引っ越しの際に持ってきた荷物の中に母が用意してくれた料理器具一式があるのを思い出した僕はそれを活用することを決めた。


 しかし、問題はそれが入った段ボール箱が、収納の一番奥に入れてしまったことなのだが。


 最初に一歩に躓きかけた僕は、とりあえず荷物の整理と片づけをする必要性を認識してそれをまず行う。

 実際に調理に掛かる前の準備に明け暮れた週末が過ぎ、休みが明ける。


 僕が、いつもの時間に家を出ると扉の先に彼女の姿があった。


「おはよ、そーくん」


 その笑顔は、休み明けの憂鬱とした気分をどこかへと吹き飛ばしてしまう。

 眠気も一緒に消えた僕は、ハルさんの笑顔に倣って挨拶を返す。


「おはようございます、ハルさん」


 すると、ハルさんはにしゃっと笑うとその細い腕を僕の頭に伸ばした。


「ハルさん?」


 少し間の抜けた声を出す僕にお構いなく、ハルさんは僕の前髪に触れる。

 ハルさんの細やかな指の動きが毛先でも感じられるようだった。


「寝癖、ついてるし」


 少しだけ屈んでハルさんにされるがままとなる。

 僕の髪に視線を向けるハルさんの紅い瞳が、いつもよりも近くにあることに気付くと、僕の胸の鼓動が速くなったように思う。


「はい、これでおっけー」


 ニコリと笑ったハルさんの指が僕の頭から離れていく。それを、少し残念に思ってしまう僕は自分のことながら恥ずかしく思う。


「ありがとうございます」


 お礼を言いながら思う。

 ハルさんは僕の心を揺さぶるのが上手い、なんて。


 そんなやり取りを終えた僕たちはようやくエレベーターに乗り込み、マンションを出て通学路を進む。

 学校までの道程を歩きながら、ハルさんは言う。


「ね、今日は学食行ってみない?」


 僕の隣を歩くハルさんはどこかワクワクと楽しそうにしている。


「学食ですか。いいですよ、行きましょう」

「ありがとー。ちょっと一人だと行きづらくてさー」


 そう言ったハルさんの言葉に、僕は少し疑問が浮かぶ。


「アキさんとユウさんは一緒に行かないんですか?」


 ハルさんの友達。巻き髪のアキさんと黒髪メッシュのユウさんの姿を思いうかべる。


「あー、アキはお昼はカレシと食べるから別なんだー。ユウは人混みが嫌いだから学食は嫌だって」

「はぁ、なるほど」


 マイペースなユウさんらしい回答だ、なんて思いながらアキさんのカレシ、という単語が引っかかる。

 確かに、アキさんはとてもおしゃれで可愛らしい人だ。彼氏くらい居ても何も不思議はない。

 そして、おしゃれで可愛らしくて綺麗で美人なのはハルさんもそうだ。


 僕の頭にその可能性が浮かぶ。


 しかし、それは表情にも出さないし口にも出さない。そして、この場でそれ以上考えることもしない。


「ねぇ、そーくん! 甘いもの好き?」


 などと考えて居ると、僕を見上げるハルさんの顔が思ったよりも近くにあって少し驚く。


「――、甘い物ですか?」

「そ。なんかー、うちの学食って手作りのプリンもあるらしいんだけど、それがめっちゃ美味しいんだって!」

「めっちゃ美味しいんですか?」

「めちゃうまらしいよ」


 めちゃうまプリン。魅力的なワードだ。

 僕は自分の気持ちを正直に話す。


「甘い物、めっちゃ好きです」

「あーしもめっちゃ好き」


 そう言ったハルさんの顔には、嬉しそうな笑みが浮かんでいた。

 そして、その言葉がむけられた対象がプリン出ると理解してはいても、やはり僕の感情は少しだけでも揺さぶられる。


「それは楽しみです」


 そう言った僕の言葉に嘘は無い。ただ、楽しみの対象はプリンだけでは無いだけだ。


「やっぱし、学校で何が一番楽しみかってお昼ごはんだもんね」

「いや、ハルさんはそうでしょうけど」

「そーくん、それってあーしが食い意地が張ってるって言いたいの?」


 怒り顔でハルさんが睨んでくるが、その表情には全く迫力が感じられない。


「いえ、人一倍か二倍くらい食い意地が張ってると思っているだけです」

「むっかー! あーしそんなに食いしん坊じゃないし!」


 僕は、先日の山盛りとまでは行かないが両手で抱えていたパンの紙袋を思い出す。

 そのことを指摘しようかとも思ったが、これ以上イジるのは流石にどうかと思いやめることにする。


「すみません。お詫びにプリン奢ります」

「え、まじ!?」


 即座に反応して晴れやかな笑顔を浮かべるハルさんを見て思った。

 やっぱり、食い意地張ってると思うなぁ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る