忙しい彼女と退屈な私

祭谷 一斗

忙しい彼女と退屈な私

 言うなれば、ただそれだけの話だ。

 陥った彼女と逃げた私。

 救いもなければ何の教訓もない。

 彼女と私、ついに生まれなかった赤子。

 ただそれだけの、何の変哲もない物語。



   7年前


 当たり前の話からしよう。

 すなわち、昔の彼女は違っていた、と。

 その昔にしても、遠い話ではない。

 ほんの7年ほど前のことだ。


 気鋭の新進作家。そう言うことに、当時の彼女はなっていた。

 輝かしき自認。出会った頃の私も、同じ風に考えていた。

 よき道のりが当然、私たちに待っているのだと。

 ゆえに私は、仕事として差し出した。時間と思考と、集めていた資料とを。やがて生まれるはずの赤子――1冊の本を信じて。その実りは、赤子が生まれてからと言うことになっていた。それが流れるだなんて、まさか思ってもいなかったのだけど。

 ともあれ、だ。当時それなりに楽しくはあったと、今でも思う。金銭的には全く実りがなく、私が体調を壊しがちだったとしても。少しずつとは言え、彼女の原稿は進んでいたのだから。



   6年前


 最初の異変は、おそらく6年前。

 あれで察せたとは思えない、今だからこその思い当たり。

 いつもの様に何気なく、私が聞いたときのことだ。


「どう? 進んでる?」


 そう、あの頃のことだった

 その言葉に対し、答えが定まり出したのは。

 問われた彼女は、決まってこう言うようになる。


「進んではいる」

「決してサボっている訳ではない」


 赤子としての、一冊の本。生まれたとして、一財産築くほどの稼ぎは見込めなかったと思う。と言って彼女の副業――夜間警備のアルバイトも、専念して安定できるほどではない。潤沢に時間があるような待遇でもなかったはずだ。諸々を考えると、執筆に専念しろなどとは口が裂けても言えなかった。

 そして口に出せないまま、その時の違和感は通り過ぎた。つまらない嘘は言うまい、きちんと進んではいるのだろう。それが希望的観測、私の願望でしかないと気づくには、当時の私は若すぎた。

 当時の彼女が、いったいどんな岐路に立っていたのか。

 SNSに入り浸り始め、「忙しい」思いをし始めていた。

 そう気づいたのは、もっと後のことになる。



   5年前


 少しづつ連絡の間隔が空いていた。

 比例して、仕事は進まなくなって行った。

 時折、彼女の様子を覗いてはいた。

 仕事の進行とは裏腹、彼女はSNSへの書き込みを欠かさなかった。

 毎日なのは言うまでもない。

 初めは仕事明けの朝7時と、夜勤前の夜9時。

 やがて昼10時と夕方5時が加わり、それは四六時中に及んだ。

 起きている間中、ずっと。そう思える位に、彼女はSNSに入り浸っていた。


 それでも。

 進んではいると、まだ信じてはいたのだ。

 ……あるいは、と私は思う。

 この時の私は、本当は気づいていたのだろうか。

 気づいていて、気づかない振りをしていたのか。

「やめろ」とさえ強く言っていれば、あるいは。

 すげなく拒絶されたかも知れない。

 あるいは、疎遠がもっと早まっただけかも知れない。

 とる事のなかった選択肢が、今となっては少し恨めしい。



   2年前


 それから3年。つまり2年前まで、私は進行を待っていた。

 現実として、彼女の仕事は進んでいなかった。

 最後の方は正直な所、私も諦めかけていたのだと思う。

 諦め混じり、思い出したかのように私は聞く。


「どう、進んでる?」


 すると口癖のように、彼女は言うのだった。


「私も忙しい」

「サボっている訳ではない、それは分かって欲しい」


 以前からの「進んではいる」は徐々に抜け落ちていった。

 代わりに増えたのが、「忙しい」「分かって欲しい」との言い回しだ。

 その言い草をついに、私が分かることはなかった。

 忙しいはずの彼女を、SNSで見かけない日はなかったのだから。

 SNSに入り浸る一方で、遅々として進まない原稿。

 そんな状況での言い分を、果たしてどうすれば信じられただろう。

 関係が冷え切るに、そう時間はかからなかった。


 そんな彼女が一度だけ、しおらしく反省らしきものを見せた事がある。私が思わず、進まぬことへの怒りをぶち撒けてしまったときのことだ。


「確かに完成していない」

「あれが進んでいないのは、私が悪いのだ」と。


 半信半疑、その言葉を私は半分信じた。半分も信じてしまった。

 けれど、そのしおらしさも、半日やっと続いたかどうか。

 結局SNSのアカウントを消すでもなければ、「忙しさ」から距離を置くでもない。

 つまるところ彼女は「忙しい」ままだった。


 お世辞にも、彼女は裕福とは言えなかった。

 彼女はスマホを持たない。タブレットもゲーム機もだ。仕事絡みの資料にしても、たびたび大学時代の後輩に持って来させていた(その後輩の資料も数年返していないと聞いているが、ここでは置く)。

 そんな彼女は、どうやってSNSにログインしているか。ノートパソコンだ。古びた、ネットか執筆くらいしかできない、ノートパソコンでしかあり得ない。

 テキストの執筆。原稿をやるはずの画面は、ほとんど常にSNSに占拠されているのだろう。私との諍いが決定的なものとなり、決裂しさらに2年近く経つ今でさえも。

 あの頃の彼女は、繰り言のようにこう言っていた。

「私も忙しいのだ」――と。



   1年半前


 彼女の言うところの「忙しさ」。

 あれは果たして、本当は何を意味していたのだろう。

 そう思い、調べてみたことがある。もう1年半は昔のことだ。

 あのSNSは、はた目には何が起こっているか見えづらい。

 そこで一度だけ、会話を見えやすくする機能を使った。


 ――彼女は日々、見知らぬ人々と交流していた。

 世辞にも罵倒にも、目一杯の反応を返しながら。

 時に喜び時に怒り、それがまた新たな反応を得ていた。

 なかでも怒りは、ひときわ大きなそれを得ていた。


 確かに以前から時折、狭量を見せてはいた。

 その側面はずいぶん誇張され、悪い方に悪い方に向かっているよう思えた。

 時折の激発、新たな喝采。

 薪で暖を取るつもりで、自らの身を燃やす。

 そんな彼女の姿が、そこにはあった。

 SNSで最も拡散しやすい感情は怒りである――そんな研究論文を知ったのは、つい最近のことだ。


 感情。

 生身のであるはずの感情が、そこではただ可燃材料でしかなかった。

 ただただ、持てる時間を燃やすための材料でしか。

 彼女の言う、これが「忙しさ」なのか。

 あのとき覚えた虚しさと衝撃。


 煉獄。


 踊る彼女と、無邪気に喝采する者。

 その構図に抱いた感情、それを怒りとは言うまい。

 喝采をおくった有象無象、その大半が、今も無邪気に生きている。

 それも、彼女の屍肉を喰らって。

 忘れるものか。そう私は思う。

 拍手を送った誰ひとりとして、忘れてなどやるものか。

 彼女の言うところの、空虚な「忙しさ」。

 それでも、彼女は踊り続けるのだろう。

「忙しさ」。それ位しか、もう残されてはいないのだから。


 生むこと。

 一冊の、本を書き上げること。

 それはあくまで、のろのろとした行為の結果だ。

 言ってしまえば、途方もなく遅いことだ。

 たいていの本でそれは、10万字からのスタートになる。

 そして書き上げたからと言って、即反応がある訳ではない。

 企画を通し書き上げ、直してからやっと完成に至る。そして配本され読まれて、反応がようやく返ってくる……かも知れない。あるいは読まれないことだって、十分あり得ることだ。

 それに比べれば、SNSは速い。秒単位での反応が、場合によっては数十字で得られる、得ることが出来てしまう。刺激を得る効率だけで言えば、比べるまでもない。あれはだから、自己慰撫に近いのではないか。今となっては、そう思っている。

 手続きを踏まえての行為と、自らで行う慰撫。どちらが速いかなど、それこそ猿にでも分かる。覚えて以来、それを繰り返す彼女。そこに救いは、おそらく無い。


 救う手立ては、本当にないのだろうか。

 もはや困難である、というのが私の結論だ。

 無論、手立てならある、私には決して使えない手立てならば。

 使えない手立てなど、無いも同然でしかない。

 そのくらい、今の私には分かっている。


「忙しい」

「サボっている訳ではない」


 確かに、それはそうなのだろう。

 しかしながら、それはあくまで主観での話だ。


「時間を浪費している」

「進んでいない」


 はた目に見るなら、これは「怠慢」としかとられまい。

 新進気鋭との呼称も、いつしか去る時は来る。

 書き物に専念するよう告げた人間は、一人去り二人去り。

 代わりに碌でもない人間が、周囲に増えていた。

 喝采し、あるいは煽りあるいは囃し立てる人間が。

 今はまたどうなのか。もはや知りたくもないことだ。


 ここに至り、私は思う。

 彼女に限ったことでも、恐らくはSNSに限ったことでもない。

 喝采は、良くも悪くも人を変えてしまうのだろう。

 結局のところ彼女は、「忙しさ」のあまり書き手としての寿命を終えてしまったのだけど。



   1年前


 彼女を最後に見かけたのは、ちょうど1年前のことだ。

 更新されていた最後の――後に自ら消した日記は、文章も論理展開も無残の一語だった。私が二度と「真面目に書いて欲しい」と思わなくなる程度には。


 内容にも少しだけ触れておこう。

 おおむね、こんな風だったように思う。


・アメリカとソ連の共存は不可能である

・なぜなら、アメリカとソ連は仲が悪いからだ


 なぜ仲が悪いのか。その原因は何か。かつてなら行っていたであろう丁寧な掘り下げは、そこには一切なかった。単に循環する内容があっただけだ。

 繰り言としての数千字。「忙しい」彼女の、これが本当にやりたかった事なのか。

 今さら何か出来たとは思えない。ただ、やり場のない悲しみを覚えた。あれを無残と呼ぶ以外に、果たしてどう言ったものだろう。


 ……さらに目を覆うのは、ここからだ。

 一度公開したということは、あれはそれなり、真面目に書いたということになる。その真面目の産物が、あの無残さなのだ。「真面目に書け」などと言う気は――少なくとも私には――もはや一切残っていない。その程度の「真面目」なら、見ない方が心安らかなのだから。

 けれどもその文章には、あろうことか幾つもの賛成票がついていた。誓って言おう、質として見るべきものは一切なかった。その考えは何ら変わらない。

 けれども。あれが彼女の――いまの状況相応の文章だとすればどうだろう? 彼女は生涯、あの無残を晒し続けるのではないか……終の病床でもついぞスマートホンを手放せずにいた、あの人種差別信奉者のように。



   今


 結局、私は何を書いているのだろう。自己弁護、それとも記録。あるいは、かすかに残った感傷がそうさせているのだろうか。

 間に合ったとも、間に合うとも思えない。今さら止めてみて、まともに書けるよう戻れるとも思えない。戻るにしても、それは数年の時を要するだろう。もはや他人の私にとって、それは手に余るに十二分な時間だ。

 ゆえに。

「忙しい」ままの彼女は、あと数年だか数十年だかを生き続けるのだろう。

 もはや憎むでも憐れむでもない。ただ決して、同じ轍を踏みはするまい――そうとだけ、今は思う。そう思う以外に何も、何ひとつ、できる事などありはしないのだから。


   ・


 これを書き上げてしばらくの時が過ぎた。

 生きているのであれば、もうすぐ40半ばになるはずだ。

 時折思い返したかのように、つかの間の慰撫で刺激を満たす。

 そんな状態を、ひとまず、生きていると見なすのならば。


 願わくば、彼女が生涯「忙しい」ままでいますように。

 目を覚まし過ごすには、残された日々は長いだろうから。   (了)

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