第19話 向寵、魚腹浦に目をつける
明け方の薄闇の中を白い霧が緩やかに流れていく。川面から発したそれはやがて大地を覆いつくすまでに拡がっていった。
四囲の山々から流れ出す大小の川が入り組む蜀盆地では、急に気温が下がるとこうやって深い霧が発生する。
その霧は、中天にかかる太陽すら覆い隠すことも多い。
たとえ霧がない日でも常に雲が湧き、本当の意味で青空が見える事はごく稀だった。
「蜀犬、日に吠ゆ」という言葉がある。
蜀の犬は普段、太陽を見たことが無いために、珍しく太陽が出ると驚いて吠える、と揶揄されるのは、こうした蜀独特の気候を言ったものだ。
「馬超には、この気候は合わなかったんだと思う」
涼州との国境付近に構えた城塞の一室で、
彼は馬超の従兄弟で、常に馬超に付き従い転戦してきた。実直な性格と、堅実な部隊指揮能力で、馬超からの信頼も篤かった。
「最後に思い切り戦わせてやりたかったが……」
なぜ、陛下は呉などに向かうのだろう。馬岱はその言葉を呑みこんだ。
陳到は馬岱から、引継ぎ書を受け取る。馬岱はそのまま陳到の指揮下に入る事になった。ここから蜀と呉の決戦が行われる長江沿岸は遥かに遠い。
☆
「向寵。ごろごろしてないで、手伝ってくれないかな」
書類を抱えた馬良が困惑顔で訴えた。
向寵は顔だけあげて馬良を見た。
「だって、ネコは
言葉通り向寵は執務室の窓際に寝転び、仰向けになったり丸くなったりを繰り返している。
「馬良さまも日向ぼっこした方がいいですよ。滅多にこんな日は無いですから」
今日は朝からいい天気になっていて、日差しがこの時期としては暖かい。
「まあ、たまには日に当たらないと、気分が滅入ってしまいそうではあるけれど」
馬良も苦笑する。確かにすごく気持ちよさそうだ。
「たまには仕事を忘れましょう」
「魅力的な言葉だけど、その後、大変なことになるからね」
本当に真面目ですねぇ、向寵は大きなあくびをした。
「追加の資料をお持ちしました」
部屋に入って来た事務官は、窓際で倒れている上司を発見して目を剥いた。
「ば、馬良さま」
気付いた向寵が、人差し指を唇に当てた。
「しっ」
音も無く立ち上がった向寵は事務官から大量の竹簡を受け取った。
「眠ってるだけです。ご心配なく」
「幸せそうな顔ですね」
目の下にクマをつくった事務官は羨ましそうに言う。
「あなたも一緒にどうですか。だいぶお疲れのようですけど」
「ええ、わたしはもう少し大丈夫ですから……」
立ち去る足元がふらついているような気がする。向寵は少し心配になった。
向寵たちが行っているのは、補給路の検討や陣営構築の現地調査である。次々に返ってくる報告をまとめ、蜀軍の行軍計画を立案するのだ。軍の進発まであまり時間が無い。彼らはほとんど寝ずに作業を進めていた。
「おおっ!」
向寵は報告書の、ある地名に目を留めた。
「馬良さま、寝てないでとっとと起きるにゃ!」
「なんだよ、さっきお前が寝ろといったばかりじゃないか」
のろのろと馬良は起き上がると、向寵の手元を覗き込んだ。
「
長江沿いの寒村のようだ。これがどうしたのだ、馬良は向寵に訊いた。
「ここはぜひ、調査しなければならないと思うのです」
真剣な表情でその報告書を見詰めている。
「別に何もなさそうじゃないか。でも変な石柱が立ち並んでいると書いてあるな。この辺りの住人が立てたのだろうか」
遺跡であるとすれば、この場所には何か特別な意味があるのかもしれない。なるほど、そんな処に気付くとは、
だが向寵は頭を横に振った。そうではないんです、と小さな声で言う。
「この字をよくご覧ください。」
魚・腹・浦。
「絶対に美味しい魚が獲れそうです!」
満面の笑顔になった。
「貴様、干物にしてやろうか」
普段温厚な馬良からは絶対に出てこない言葉だ。げに疲れと云うものは恐ろしい。
☆
張飛を失って振り出しに戻った感のある軍編成だが、ようやく形を成してきた。
総司令官は
「失礼かもしれませんけど。誰ですか、この方たちは?」
名簿を見た向寵はぽつりと言った。それだけ若手の将軍ばかりだった。
「そう言ってくれるな。この趙雲が手塩にかけて育てた連中なのだ」
「ああ、いわゆる趙雲学校ですね」
若手の有望な武将を集め、趙雲直々に指揮官としての基礎を叩き込んでいるというのは聞いていた。それは相当に厳しいものだとも。
だが趙雲の表情は晴れない。
「いかに訓練しようと、実戦はまた全然違うものだからな。いきなりこんな大戦に投入するなど、荷が重すぎるのだが」
ただ実戦を経験すれば、得るものも大きいだろう。彼らは、なんといっても将来の蜀を担う俊英たちなのだ。趙雲は期待と不安の入り混じった表情のまま、整列する若い武将たちを見詰めていた。
一方、蜀との衝突が避けられない事を知った呉の孫権は、一族の孫桓を大将軍に任じる。孫桓は江陵を発すると、
蜀漢、そして向寵にとっても運命の転換点になる夷陵の戦いが、こうして始まろうとしていた。
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