第18話 開戦前夜に相次ぐ悲報
「奇遇だね、こんな所で会うなんて」
さほど憔悴した様子も無く、陸遜は笑った。さすがに向寵は返事に困る。投獄されて、これから斬られようとしている男とは思えなかった。
「えっと、その……お元気そうで」
他に言いようがない。
「そうか。このままじゃ、やはり僕は殺されるのか」
やっと陸遜も気づいたようだ。
「それは困ったな」
それでもどこか暢気な男だった。
「向寵、君から大王に口添えをしてくれないかな。きっと、呉と友好的な関係を築けると思うんだ」
確かに陸遜は異民族との融和を唱えていたけれど、さすがにそれは都合よすぎる気がする。それに何より、頼む相手を間違っている。
「あのね、わたしは蜀の人間ですよ。まあ、人間といっても、半分ネコですけど」
「頼むよ。君と僕の仲じゃないか」
向寵は腕組みして考え込む。しばらくして、納得いかない顔で彼を見た。
「……やはり、それほど仲がよかったとは思えませんが」
えー、と陸遜は声を上げた。
「この前、湯麵をおごってあげたじゃないか」
おお、そう云えばそうだった。
「今度はお菓子を好きなだけ食べさせてあげるから」
「な、なんと」
向寵の眼が輝く。
「にゃうっ!」
向寵の後頭部を陳到が思い切りはたいた。
「食い物につられるな、バカネコ」
「うう。本気で痛かったです、陳到将軍」
「お前はあほか、何で呉の人間を助けなきゃならない。はっきり断れ」
「分かりましたよぅ」
涙目で頭を押え、陸遜に向き直る。
「陸遜くんの命は湯麵一杯の価値しかないのですか。そんなのお断りです!」
「それも少し違う気がするが……」
陳到は首を捻った。
「わかったよ、向寵。では、もし戦場で僕たちが軍を率いて出会ったなら……僕は三舎だけ後退してあげよう」
「何ですか、それは」
向寵は言われた意味が分からない。
「晋の文公気取りか」
陳到は苦笑した。これは春秋時代の覇者、晋の重耳(文公)放浪時代の故事による。国を追われ、亡命した先で楚の成王に見返りを求められた際に言った言葉だ。ちなみに三舎とは、軍の三日の行程をいうらしい。
「へえ、陳到将軍。物知りですね」
向寵は感心した。
まあな、と陳到は肩をすくめた。
「うちは代々学者の家系だったんだが、おれは出来が悪くてな」
それで武人になったのだという。
「で、どうしましょう。将軍」
陳到は、ふーん、と大きく息をついた。
「まあ、お前に任せる。お前たち二人とも、どう見ても将軍という柄ではないからな。殺しても助けても、大して影響はないだろう」
「だ、そうですよ」
向寵は薄笑いを浮かべている。
「僕としては納得しかねる評価だけどな。助けてもらえるなら我慢するよ」
「まだ助けるとは言ってないですよ」
「え」
「さあ、どうしようかな」
その後、無事に解放された陸遜は向寵たちと別れ、長江を下っていった。
☆
成都に戻った向寵たちを迎えたのは、またしても訃報だった。涼州との境を守っていた馬超が死んだ。まだ四十代の若さだった。
かつて涼州を拠点とし、曹操を相手に激戦を繰り広げた彼は涼州方面では神のごとく畏敬されていた。その彼を失っては北方の抑えが不安になる。
「では、お別れだ。向寵」
陳到は馬超に代わり、北へ向かうことになった。
ぽん、と向寵の肩をたたく。
「じゃあ、今夜は飲み明かしましょう!」
陳到は黙って部屋を出て行こうとする。
「ああ、待って下さい。冗談です!」
「ところで陳到将軍って、なんだか……ほかの人と比べてわたしに厳しくないですかね」
実は前から気になっていたのだ。特に張飛とか向朗は特甘だが、陳到だけは、平気で頭を叩くし、すり寄って来る事もない。
「ああ。おれは筋金入りの犬派だからな」
「にゃにおっ?」
思いがけない事を言われ、向寵の眼が真ん丸になった。
「だけど、お前の事は好きだぞ。好きだからこそ虐めたくなるのだろうな」
「にゃ、にゃにを、急にそんな」
更に狼狽える向寵を見て陳到は吹き出した。
「冗談だ。何を赤くなっている、おかしな奴だな」
「それはそれで非道いです」
向寵は拗ねて頬を膨らませる。
早暁、手勢を率いた陳到は成都を発った。
見送る人々の中に向寵を見つけた彼は軽く手をあげる。
だが向寵は、ぷいと横を向く。陳到は苦笑した。
「まったく扱いにくい。だが、ネコも意外と……」
可愛いかもしれないな、陳到は呟いた。
☆
呉へ進攻するための軍編成がこの日、発表された。
先陣は張飛である。関羽の復仇の軍であるため、これは当然の布陣だった。
馬超より少し前に老将黄忠もすでに世を去っていた。張飛以外にこの大役を担えるものは居ない。
張飛は勇躍、彼が治める閬中から軍を発すると伝えてきた。
だが張飛はついに成都へ来る事はなかった。
成都へ届いたのは、張飛が配下の部将に殺害されたという凶報だった。
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