第16話 名将は逝き、荊州は陥落する

「急げ、船を出せ!」

 廖化りょうかの指示で、陸に引き上げておいた平底船を泥の海に浮かべる。

「敵兵でも構わん、溺れているものがいたら一人残らず救い出すのだ」

 小舟の群れは生存者を乗せ、何度も陸地を往復した。


「諸葛均どの、この水はいつまで残るであろうか」

 関羽は陣頭に立ち、水面を見渡した。一時よりは顔に赤みが戻っていた。

「おそらく、明後日には船が使えなくなるまで水が引くと思います。勝負をかけるなら今日、明日かと」

 諸葛均は冷静に答えた。黒い水面にわずかに頭を出した丘の上に魏兵が集まっているのが見える。

 それは于禁と龐徳の本陣だった場所だ。主将の存在を示す旌旗があがっているところを見ると、二人ともこの濁流からは逃れ得たようだ。


「しかし、まず降伏を勧めてみては……」

 言いかけた諸葛均を関羽は睨みつけた。

「無用の事だ。数日で水が引くのであれば、誰がむざむざと降人になどなるものか。総攻撃だ。その結果、降る者があれば受け入れてやれ」

 関平と廖化は軍兵を満載した船で、その小さな丘を包囲した。


 軍船の舷側に並べた弩は矢を放つ度、確実に魏兵を打ち倒していった。

「突撃!」

 関平が真っ先に上陸した。目指すは龐徳ただ一人。剣を置き地に伏して降伏を表す兵士の間を抜け本陣の奥に進む。


「龐徳、そこか!」

 片膝を立ててうずくまる武将を見つけ、関平は叫んだ。

 剣を振り上げようとして彼女は息を呑んだ。龐徳はすでに何本もの矢を受け、血塗れとなっていた。わずかに目を開き、唇の端をゆがめた。

「関羽の小倅か……。相手をしてやりたいところだが、この有様ではな。すまぬが関羽に伝えて欲しいことが……」

 最後まで言わせず、関平の剣が一閃した。


「引き揚げるぞ、関平!」

 廖化が大声で呼び掛ける。その後ろには縛り上げられた于禁が続いていた。彼女は龐徳の首を提げ船へ向かう。

 荊州軍の完勝だった。


 ☆


 荊州と蜀の国境では向朗が一行を待ちわびていた。

「向、寵ーっ!」

 いきなり駆け寄ってくると、小柄な向寵の身体を抱え込んだ。

「にゃ、にゃうっ!」

「久しぶりだなっ、向寵。おじさん、すごく会いたかったんだぞぅ」

「や、やめるにゃ。よだれが付くっ」


 やっとの事で振りほどき、襄陽から連れて来た劉備の夫人たちを向朗に引き渡す。

「そうか、また荊州に戻ってしまうのだね」

 孫尚香が優しく向寵を抱きしめた。

「はやく成都に来られるよう、劉備さまに言っておくからね」

 向寵も泣き顔で頷いた。


「さあ、では戻ろうか、向寵」

 陳到が肩に手を置いた。向寵は彼を振り仰いだ。

「ええ。関羽将軍が大人しくしているとは思えませんし」

「まったくその通りだな」

 苦笑いを浮かべ陳到は船へ乗り込んだ。向寵も何度も振り向きながら、それに続く。


 ☆


「様子がおかしいぞ。あれはどこの軍だ」

 襄陽に向かう船上で陳到は首をかしげた。旗印も甲冑も、彼には見覚えの無いものだった。その大軍は明らかに襄陽を目指して進軍していた。

 向寵は目を凝らし旗の文字を読む。それは『呂』とあった。あの男だ、向寵の背筋が凍った。


「あれは、呉の旗です。それも、主力軍……」

 かすれた声で向寵は呻いた。呂蒙りょもうを総大将とする呉軍が劉備の荊州領内へなだれ込んできたのだ。

「傅士仁と糜芳は何をしていたのだ」

「裏切ったのでしょう」

 関羽に叱責される二人の姿を知る向寵には容易に想像がついた。


 夜陰に紛れ襄陽に近づき様子を伺う。城内に関羽軍の姿は無く、すでに呉軍が中に満ちていた。関羽が許都を目指し進発した後、呉に留守を狙われたのだ。


「これ以上の接近は危険だ。このまま漕ぎ続け漢中へ入ろう。魏延どのが太守として駐屯している筈だ。早く知らせなければ」

 劉備の養子劉封と、劉備の蜀入りに功績のあった孟達という二人の将軍が魏の勢力圏に近い上庸じょうようを守備している。関羽に何かあれば、きっと真っ先に上庸に増援を要請しているに違いない。

 ならば一足飛びに漢中に知らせる方がいいだろう、そう陳到は判断した。



 報せを受けた魏延は、成都に向け早馬を走らせた。さらに襄陽から許都に至る街道沿いに諜者を送り込む。

「やられた。荊州はすべて呉の手に落ちた」

 魏延は集めた情報を前に顔をひきつらせた。樊城を囲む関羽は孤立し、補給も無い状態になっている。

 魏軍は于禁と龐徳を失ったが、新たに徐晃じょこうが大軍を率い南下しているという。


「劉封と孟達はどうした。まさかこの状況を知らない訳ではないだろう!」

「動いた形跡はない。……奴ら、関羽将軍を見殺しにする気だ」

 激高する陳到に、魏延は口惜し気に吐き捨てた。

「ただ俺も他人の事は言えない。ここ漢中にも曹操は軍を差し向けている。動きたくとも、今は動けないのだ」

 魏延は握りこぶしを机に叩きつけた。

「さすがは曹操というべきか。隙がない」


「この方面の魏軍は誰が向かって来るのです?」 

 向寵が問うと、魏延は難しい顔で考え込んだ。

「ああ、最近よく名前を聞く男だ。司馬懿しばいというのだが」

 手堅い戦法をとる男で……、と魏延は続ける。

「ちょうど、うちの諸葛軍師みたいなのだ。手ごわいぞ」


 ☆


 魏延の送った早馬とほぼ時を同じくして、関羽からの救援要請を伝えるために廖化が成都に到着した。まず向かった上庸で劉封と孟達に増援を断られた廖化は成都へ向かった。その間、食事さえ碌に摂っていなかったのだろう、半死半生の状態で廖化は成都の城門をくぐった。

「将軍は徐晃の軍に敗れ、麦城へ撤退されました。至急、救援を……」

 そこまで言うと、廖化は意識を失った。


 

 捕虜となった関羽と娘の関平が孫権によって斬られたとの悲報が成都にもたらされたのは、それから間もなくの事だった。





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