第15話 樊城の攻防

「成程、先日来の長雨で襄江の水位が上がっておる。堤防を決壊させるのだな。さすがは諸葛軍師の弟君だ」

 関羽は大きく頷いた。だが諸葛均は厳しい顔を崩さない。

「ただ決壊させれば良いというものではありません。樊城と、魏の陣営を狙って水没させるには細かな計算が必要となりましょう」

 地図をこれへ、と諸葛均は役所の事務官を呼ぶ。


 卓の上に広げられたのは、樊城と襄陽付近の絵図である。丘や谷による起伏が細密に描かれており、その中央付近を襄江が流れているのだった。

 諸葛均はその一点を指差した。

「堤防の、この場所を切れば、最も効果的に魏軍を水攻めにできるはずです」


 なんとそこまで考えておられたのか、関羽は感歎の声をあげた。諸葛均を見る目が尊敬のまなざしに変わっている。

「だが、水浸しにしては、そのあと攻めるに難しいのではありませんか、先生」

「大丈夫です」

 諸葛均は一組の大きな丸い木の板を取り出した。片面にくつが固定されている。

「これを履けば、水上でも地面と同じように歩けます」

「ははあ……」


「これは水蜘蛛みずぐもといいまして、倭国の道具です。忍びの者が、堀を渡って敵の城に忍び込む時に使うものだそうです」

 ほほう、と関羽はそれを受け取り何度もひっくり返しながら眺めた。

「では、先生はこれを使った事が御有りなのですね」

「え?」


 えーと。諸葛均の眼が泳ぎはじめた。

「実は、それ、義姉の黄氏が文献を見て造ったもので。その、実際に、とか、あれでして……」

 関羽は額を押えた。

「分かりました。では一度、実験してきて頂けますか」



 半刻ほどして、ずぶ濡れの諸葛均が戻ってきた。

「あ、……ははは」

 関羽を見て弱々しく笑う。

「船を、用意します。関羽将軍」

「そうしてください」

 襄江の水より冷たい声で、関羽が言った。


 ☆


 関平率いる一隊が、龐徳の陣へ向け襲い掛かった。

「くれぐれも深入りするな。とにかく派手に動き回り、奴らの眼を引き付けるのだ。そして引き鉦を聞いたらすぐに引き上げるのだぞ」

 彼女らは関羽からそう指示を受けていた。


 これは堤防の破壊に向かった部隊から目を逸らさせるための陽動作戦なのだ。付かず離れず、適当な距離から矢戦を仕掛けるつもりだった。

 だが龐徳の反撃は関平の想像を遥かに超えていた。


 人材豊富といわれる魏軍のなかでも龐徳の勇猛さは群を抜いている。

 この龐徳はもともと馬超と共に曹操と闘ってきた男だ。しかし漢中で捕虜となり、それをきっかけに、仇敵であった曹操に仕えることになった。

 だが今では、曹操の厚い信頼に、龐徳も忠節をもって応えていた。


「なんだこの騎馬隊の速度はっ!」

 関平は愕然とした。弓を射かけ、すぐに離脱するつもりが、恐るべき速さで突出してきた龐徳の騎馬隊に包囲されてしまったのだ。西涼の騎馬民族の血が入っている彼らの乗騎を操る技量は、漢人の比ではなかった。


「兵力を集中し、一点を突き破れ!」

 だが、その必死の攻撃も柔軟にかわされ、更に包囲網を縮めるだけだった。関平の兵は見る見るうちに数人にまで打ち減らされ、周囲は敵兵が強固な壁を作っていた。

「これまでか」

 彼女は唇を噛んだ。


 その十重二十重と取り囲んだ敵兵の間から声があがった。

「関羽だ、関羽が来た!」


 まるで自ら道を開けるように、敵の騎馬隊が蹴散らされていく。

 その中央を駿馬、赤兎馬に跨り、悠然と進むのは彼女の父、関羽だった。


「門限は守れと言っておいた筈だぞ、関平」

 にやりと笑った関羽は、手にした青龍偃月刀を握りなおし周囲を見渡す。


 更なる殺戮を繰り広げ、関羽父子は包囲を脱した。


「待て、関羽!」

 曹操軍から一騎が追いすがって来た。その男は関羽のものに劣らぬ巨大な矛を操り、鋭く切り込んでくる。

「龐徳か。望むところ」


 二人は馬をぶつけんばかりに接近し、また距離をとってはその得物を揮う。

 龐徳の鋭い切っ先は関羽の偃月刀によって弾かれ、関羽の斬撃は龐徳の見事な手綱さばきにより躱された。

 ぶつかり合った金属が溶けるようなきな臭い匂いと、二人の闘将の放つ声が戦場を圧倒した。


「あうっ!」

 ついに悲鳴があがった。

 手にした矛を天高く弾き飛ばされ、龐徳は大きくのけぞり態勢をくずした。

「ふんっ!」

 気合一閃、関羽は青龍偃月刀を横薙ぎに薙ぎ払う。

 だがその刃の軌道上に龐徳の身体は無かった。


 龐徳は片方のあぶみで体を支え、馬の横腹に体を倒していた。それが関羽からは龐徳が消えたように見えたのだ。

 そして再び馬上に姿を現した龐徳の手には短弓が握られていた。


 騎馬民族が馬上で使う、小型だが強力な複合弓(コンポジット・ボウ)と呼ばれるものだ。何種類もの弾性素材を組み合わせて形成したそれは、大型の弓に勝るとも劣らない威力を持つ。


 勝利を確信した笑みと共に、龐徳は絶対的な至近距離から矢を放った。


 血しぶきが関羽の顔に散った。

 とっさに顔の前にかざした左の肘あたりに、深々と矢が突き刺さっていた。

 龐徳はすでに第二矢をつがえている。


「貴様あっ!」

 横合いから関平が剣を叩き込み、短弓は鋭い音をたて砕け散った。

 舌打ちした龐徳は馬首を還す。

 同時に、関羽の陣営からも引き鉦がけたたましく鳴らされていた。関平は関羽の身体を支えながら防柵の内に戻った。


やじりに触ってはならんぞ」

 矢を抜こうと手をかけた関平に関羽は注意を促した。見ると傷口がドス黒く変色し始めていた。

「これはおそらく、烏頭うずの毒であろう。匈奴が使うと聞いたことがある」

「分かっています」


 関平は関羽の肘の上をきつく縛った。小刀を取り出すと、ためらいなく矢が刺さった部分を切開する。そのまま抜こうとすれば、鏃が体内に残る恐れがあるのだ。

 矢を引き抜くと、すぐ傷に口をつけ、毒血を吸い出す。

「よさぬか。お前にも毒が回る」

「少し黙っていて下さい。絶対に父上を死なせはしませんから」


 応急処置を終えた関羽は陣幕の中で横になった。

「すまん。しばらく休む」

 そういう関羽の顔は血の気を失い、死者のようにも見えた。


 ☆


 関平は防柵の前に立ち、樊城を見下ろしていた。夕暮れの中、炊ぎのための煙があがっているのが遠目でも見える。


 彼女は、かすかに地響きを感じた。

「来たのか……?」


 それから間もなくの事だ。


 黒い濁流は平野を呑み込み、樊城を陸の孤島に変えた。

 近郊に布陣していた于禁、龐徳の軍団は、高台に構えた本陣に属する部隊を除き、すべてが壊滅した。



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