第12話 鶏肋は意外と美味しい

「これは一体、何の騒ぎですか」

 張魯を降し漢中を制圧した曹操の陣営だったが、今日はなぜか騒がしい。陣営で食用に飼っている鶏の悲鳴があちこちで響いている。

 曹操軍の事務官、楊修は足元に纏わりつく鶏を避けながら曹操の本営に向かっている途中だった。


「仕方あるまい。丞相の指示だからな」

 片目に眼帯をした偉丈夫が腕組みで仁王立ちしている。曹操の古くからの側近、夏侯惇かこうとんだった。この眼帯には血の凍るエピソードがあるが、それを語るのは別の機会になる。


 楊修は辺りを見回した。夏侯惇の部下たちが腰をかがめ鶏を追い回している。

「指示とは、どういう」

 ああ、と夏侯惇は難しい顔をした。


鶏肋けいろく、だ」

 今日の指示を確認しに行った夏侯惇に曹操が出した命令が、これだった。

 けいろく? 楊修は呟いた。


「それは晩ご飯に鶏の煮込みが食べたい、という事ですね、きっと」

 夏侯惇は首を振った。

「いや、あいつは鶏が嫌いなのだ。それに野菜も魚も嫌いだしな」

 幼馴染ならではの情報だった。

 だが取り敢えず、調理するための鶏を捕らえておくのだという。


「成程、そんなに好き嫌いしてるから、大きくなれないんですね」

 あははは、と楊修は爆笑している。

 一瞬つられて笑いかけた夏侯惇だったが、何かに気付きそっと目を逸らした。


「……きさま、楊修といったな」

 低く押し殺した声が、楊修の後ろから聞こえた。

「えっ?」

 振り返った楊修だが、背後には誰もいなかった。


「ここじゃ、ここ」

 下から声がした。見ると曹操が彼を見上げていた。額に青筋が立っている。

 北方の出身にしては小柄な曹操は、それを”非常に”気にしているのだ。

 楊修の顔から血の気が引いた。



「今夜の肉汁スープは美味いな」

「おお。よくダシが効いている。いったい何の肉であろう」

 なぜかその夜の食事は兵士たちに好評だった。


 ☆


「鶏肋」とは、要は鶏のスペアリブの部分だ。

 骨ばかりで肉は少ないという意味で、曹操は膠着状態になった戦況をこう言い表したのだと伝えられている。


 漢中こそ容易に手にした曹操だったが、蜀への道程を思うと次の命令を出すのに躊躇いを覚えていた。

 その大きな理由は『蜀の桟道さんどう」である。

 切り立った岩壁に孔を穿ち材木を打ち込んだ上に、薄い板を敷き並べただけの狭い足場が主要経路なのだ。足を踏み外したら即、急流に転落、落命は免れ得ないだろう。進軍するだけで多くの兵力損耗は間違いない。


 そうまでして得る価値が、蜀にあるのか。


「あ、いたた」

 曹操は頭を押えた。どうも、環境が変わると頭痛が出る。かつて荊州を攻めた時、赤壁の陣でもこの頭痛に苦しめられた。こうなってはろくに思案もできない。

「やはり、引き上げるか」

 曹操は決断した。


 諸将を集め、曹操は演説をした。

「かの光武帝(後漢の創始者)はこの漢中を手にした後、『ろうを得て蜀を望む。人は足るを知らざるをもって苦しむのだ』と言った。つまり、これ以上欲を掻いてはならないという教えだ。だから、儂もここで引き返そうと思う」

 ほう、将軍たちは曹操の博識に感歎した。


「え、でも光武帝は結局、蜀を攻めとりましたけど」

 目の周りに青あざをつくった楊修が横から発言した。

「きさま、今度こそ本当にスープの出汁だしにするぞ」



 曹操は夏侯淵かこうえん張郃ちょうこうを蜀に対する押えとして残し、漢中を後にした。

 曹操と夏侯氏との繋がりは深い。曹操の祖父は宦官であったため当然ながら子はいない。そのため夏侯氏から養子をとったのが曹操の父である。だから曹操と夏侯惇、夏侯淵は一族だといってもいい。


 ☆


 耳が遠くなった年寄りの声は大きい。

(くそっ、全然集中できんではないかっ)

 魏延は陣屋のなかで手にした筆を震わせていた。


「ほうほう。あれが夏侯淵の陣かのう、厳顔よ」

「左様ですな、黄忠どの。まあしかし子供のような陣立てじゃのう」

 崖下の敵陣を眺め、くわっ、くわっと二人して大声で笑っている。黄忠と厳顔、どちらもこの時代屈指の老将軍として有名だった。


「おや、ところで魏延は中でなにをしておるのかのう」

「何でも漢中攻略の作戦案をたてるのだとか。あの諸葛軍師より上だという所を見せて、一番の功績をあげるのだと言うておりましたぞ」


「それは到底無理であろうに。まあこんな事は、大声では言えんがのう!」

「いやごもっとも。あの男もまだまだ若い」

 またふたりで大爆笑している。

(……しっかり聞こえているぞ、クソ爺いども)

 筆が真っ二つにへし折れた。


「おっと、そろそろ夏侯淵の軍に先制攻撃をかけようではないか、厳顔よ」

「ほう、それは良いですな。お付き合いしますぞ」

 物騒な話になってきた。魏延は慌てて陣屋を飛び出す。

(じじいどもが功を焦りおって)


「では参るぞ。用意はよいか」

「おう。この厳顔、負けませぬぞ」

 二人は眼下の夏侯淵の陣を睨み据える。そこへ魏延が駆け付けた。

「待ちなさい。劉備さまの命令もなく、何をなさるおつもりか!」


 黄忠と厳顔は振り向いた。魏延の顔を見ると、少し恥ずかしそうに笑う。

「いや、なに。この年になると小便が近くなってのう。どうじゃ、魏延どのも一緒に連れションなど」

「目標は夏侯淵の陣じゃぞ。誰が一番遠くまで飛ばすか勝負じゃ」

 魏延はがっくりと膝をついた。

「貴様ら、とっとと天に召されてしまえっ!」


 くわっ、くわっと笑うふたりだったが、そこへ突風が吹き抜けた。崖際に立っていたふたりは態勢をくずした。

「お、おおう」


 二人の悲鳴に魏延が顔をあげたとき、もう姿は無かった。

「あ、あれ?」


「ぎ、魏延将軍が……お二人を崖にっ!」

 目を丸くして兵士が叫んでいる。

「違うっ! 俺がやったんじゃない。誤解だっ!」

 魏延は逃げ去る兵士を必死で追いかけた。


 ☆


「あいたたた。ここはどこじゃ」

 転がり続け、やっと平らな所までたどり着いた。黄忠はふらふらと立上がる。隣では厳顔も頭を振っている。どうやら大きな怪我は無さそうだった。

「やれやれ、驚きましたな」

 そういって遥か山上にある陣屋を見上げた。


「何だ、この爺どもは」

 高価そうな甲冑を身につけた武将が二人を見つけ、驚いている。この男も立小便をしていたのかもしれない。周囲には他に誰もいなかった。


「はいはい。わしらは山へ柴刈りに入った、ただのじじいで御座いますよ」

 黄忠がしれっと答える。

「ばかな、そんな完全武装で柴刈りをする者があるか」

 たしかに冑姿で帯剣していれば疑われるのも無理はない。


「そうおっしゃる将軍さまは、どなたで?」

 厳顔はあくまでも下手にでる。その態度を受けて男はふんぞり返った。

「知らないなら聞かせてやろう。わしは漢の丞相、曹操配下の夏侯淵というものだ。どうだ、恐れ入ったか」


 黄忠と厳顔は顔を見合わせ、にやーっと笑った。

「いやこれは、見事な柴を見つけましたぞ」

 ふたりは、すらりと剣を抜いた。


 ☆


「夏侯淵将軍が討たれた!」

 張郃からの一報は曹操軍を震撼させた。

「将軍は定軍山の麓に偵察に出たところを奇襲され、お命を……」

 夏侯淵は夏侯惇と並び、曹操にとってまさに股肱の臣といっていい存在だった。武人としてはともかく、指揮官としてはやや適性を欠く夏侯淵だった。そのために練達の張郃を付けたのだったが。

「不意を衝かれたというのか」

 劉備を甘く見ていた、曹操は唇をかんだ。また頭痛がはじまった。

 すぐに漢中へ兵を向けようとした曹操だったが、更なる凶報が彼を襲った。


 関羽率いる大軍が荊州を発し、曹仁の守る樊城を囲んだ。そしてその最終目標は曹操が政庁を構える許都である。

 



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