第10話 井戸の底の王国

 中原ちゅうげんの南西部に位置する益州は古来、蜀と呼ばれる。

 峻険な山地に囲まれた盆地の中にある天然の要害であるがゆえに、中央の戦乱に巻き込まれることは少ないが、逆に荊州のように、戦火を免れようと有為の人材が集まるという事もまた稀だった。

 漢王朝末期においても、蜀は中原から隔絶された辺境の地であり、巨大な井戸の底にあるのだと言ってもよかった。


 ☆


 蜀と中原を結ぶルートは主に二つある。

 一つは漢中地方から山間の隘路を抜け、旧都 長安の南へ出るものだ。かつて漢帝国の高祖 劉邦が、西楚の覇王 項羽と雌雄を決するため、中原へ向け進軍したのはこの途である。ただしこれは後に『蜀の桟道さんどうは天に昇るより難し』と詠われるほどの難路だった。およそ大軍の通行には向かない。


 そしてもう一つは、荊州の劉備軍が辿ったように長江沿いを遡る水路である。だがこれも上流に向かうにつれ河岸の形状は複雑に入り組み、操船には細心の注意が必要となる。そして当然ながら守備側が上流にあたるため攻撃側が不利なのは言うまでもない。


 つまり陸路、水路ともに武力をもって侵攻するのは非常に困難ということだ。

 そのため劉備も蜀の太守 劉璋からの救援要請を受けて、という形で成都入りを果たしている。


 当初は歓迎を受けた劉備たちだったが、張魯討伐の名目で漢中に駐屯した辺りからは誤算の連続だった。


 まず、予想以上に蜀内部からの反発が大きかったこと。そして劉備が龐統らの再三の勧めにも関わらず成都攻撃を決断できない間に、蜀を奪う陰謀が露見してしまった。これにより劉備軍は敵中に孤立する事になったのだ。


 そんな中、龐統はよくやったと言えるだろう。的確な作戦立案により再び成都を目前とする所まで軍を進めることに成功した。

 だが、立ちはだかるらく城の攻防戦において、龐統はあえなく落命した。


 劉備が諸葛孔明以下、荊州の主力軍を呼び寄せたのにはこういう事情があった。


 ☆


 荊州と益州の境界あたりは深い山地が広がり、ほとんど渓谷ごとに異なる部族が住んでいた。俗に五渓蕃ごけいばんと呼ばれるその異民族の村に向寵はいた。


「なるほど、これは良い酒だ。他にもこのように頂き物をして、かたじけない」

 村の長老は頭を下げた。


「いえいえ、これは劉備さまから友好の証ですのにゃ。遠慮にゃく、お収めくださいにゃ」

「にゃ?」

 向寵は真っ赤な顔でへらへらと笑う。長老に付き合い一杯だけ飲んだ酒で酔っぱらってしまったようだ。毒見の意味もあるので仕方ない事ではあるのだが。


「ここらで失礼しようではありませんか、向寵どの」

 後ろから声をかけたのは護衛の陳到ちんとうという武将だ。幼い頃から劉備に付き従っているので、若いけれど軍歴は長い。


 彼は常に趙雲と駒を並べて戦い、ともに互角の戦功をあげている。白鎧の趙雲、黒鎧の陳到は敵軍を震撼させてきた。だが、精悍な趙雲と比べるとどこか地味な印象で、目立つ功績はたいてい趙雲に持って行かれているところがあった。ただそれを妬む事も無く、飄々と職務をこなしている。そんな男だった。

 今は相棒の趙雲が蜀に行ってしまったので、残った陳到がこうして向寵の護衛を務めていた。


「じゃあ、長老さん、皆さん。また会うんだにゃ!」

 苦笑いに送られ、向寵たちは村を出た。


 彼女たちには、まだ何ヶ所か訪問すべき村が残っているのだ。


 ☆


「こ、ここはどこにゃ!」

 跳ね起きた向寵が叫んだ。

「おう、やっと気が付いたか。この酔っぱらいネコ」

 向寵は頭を押さえて呻いた。いつの間にか船に戻り、寝台に横たわっていた。


「あ、陳到将軍。どうしたんでしょう、途中から全く記憶が無いのですが」

 やれやれ、と陳到は肩をすくめた。

「心配するな。結構うまくやっていたよ。長老たちにも気に入られたようだ」

「だったら、……いいのですけど」

 う、頭が痛い。向寵はまた寝台に倒れ込んだ。

 本来この役割を担うのは馬良の筈だったが、彼も急遽、劉備の許へ呼ばれてしまっていた。


 二日酔いと船酔いで動けなくなった向寵は、陳到に背負われて襄陽へ戻った。

「頼むから背中で戻したりするなよ。気分が悪くなったらすぐに言え、いいな」

「わかりました……」

 陳到はそこで大きく息をついた。

「すまなかったな。子供のお前に酒を飲ませたりして」

 すると向寵は陳到の首に手を回した。

「陳到将軍、わたしは子供ではないにゃ。もう大人なのにゃ!」

「止めろ、苦しい。きさま、まだ酔ってるのかっ!」

「酔ってなどいないにゃ、失礼な奴……お、おえ」

「うわーっ!!」


「ああ。危ない所でした」

 道端にうずくまり、向寵はぜいぜいと喘いでいた。

「もう少しで本当に出るところでしたよ。もう、人をからかうのは止めて下さい、陳到将軍」

「それはこっちの台詞だ、ばかもの」


 陳到は先に立ち上がった。

「おい、立てるか」

 手を差し伸べる。向寵はその手を握って身体を起こした。


「なあ、向寵。城にどこかの使者らしき連中が入っていくな。お前、見えるか」

 彼方の城門のところに美々しい服装の一団が進んでいく。

「別ににゃお族は普通の人間より目がいいとか云う事はないんないですけどね」

 そういって右手を額にかざす。

 一団の中央にいるのは向寵にも見覚えのある顔だった。


「あれは、諸葛謹さんですね。孔明さんのお兄さんですよ」

「ほう、呉の使者か。何の用件だろうな」

「どうせ、さっさと荊州を返還しろということでしょうけど」

「それはそうだ。聞くまでもなかった」

 陳到も苦笑いするしかなかった。


 だがそこで陳到はその顔から笑いを消した。すっと表情が強ばる。

「まずいな。諸葛軍師どのや馬良どのならともかく、相手をするのは、あの関羽将軍ではないか」

 向寵も陳到が顔色を変えた意味を理解した。

「これは絶対、決裂しますね」

「それで済めばいいが……」


 この時の呉からの要求は、荊州のうち長江より南部の返還だった。関羽は使者の諸葛謹を斬るとまで激高したが、遅れて到着した劉備の使者から受諾するよう指示を受け、辛うじて剣を収めた。すでに劉備と孫権の間で話がついていたのだ。

 

 荊州全土ではなく、南部のみ返還とした孫権の要求はかなり譲歩したものとも思われるが、蜀に力を割かねばならない劉備の弱みを突いた絶妙な策とも言えた。

 いまの劉備に蜀と呉、二正面作戦を行う力などない。ならば、この機に南部を確実に割譲させ、北部は曹操に対する防波堤として預けておくのだ。


「どうやら今回は首がつながったようだ」

 荊州の境を出た諸葛謹は魯粛の迎えを受け胸を撫でおろした。周瑜亡き後の呉軍を統括するのはこの魯粛だ。現在も荊州との境に軍を敷き、関羽と対峙する姿勢を崩していない。

 諸葛謹の報告を受けるや、魯粛は即座に軍を発し荊州南部の制圧に乗り出した。そして疾風のような勢いで劉備の残党を駆逐して支配権を確立してしまった。

 彼は文官のように見られがちだが、軍事面においてもこのように見事な手腕を発揮した。


「ところで諸葛謹どの」

 荊州南部を平定した魯粛は執務室に諸葛謹を呼び出した。

「もう一つ、貴公に依頼したい交渉事があるのですが」

 どうせまた、禄でもない内容なのだろう。諸葛謹は少しうんざりした顔で魯粛の前に立った。


 それは諸葛謹の想像を超えていた。いや、想像をはるかに超えて悪かった。


「縁談……関羽の娘を、孫権さまのお子と?」

 何の冗談なのだ。今度こそ殺される。諸葛謹は首筋に刃が触れるのを感じた。


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