第9話 向寵、はじめてのお留守番

 向寵と孫尚香の一行が長江を遡って襄陽に戻ると、こちらも慌ただしい雰囲気が街中に漂っていた。みなとには多くの輸送船が並び、その中に次々と物資を搬入している。

「何が始まるのだろうね、向寵ちゃん……あ、あれ?」

 振り向いた尚香は辺りを見回した。さっきまで一緒にいた向寵の姿が見えない。もう間もなく入港するのだけれど。


「ああ、いた」

 向寵は甲板の隅で寝転び、丸くなっていた。

「どうしたの向寵ちゃん」

 ちょっと不安になった尚香は手を伸ばし、喉のあたりをくすぐってみた。

「ごろごろ」

 気持ちよさそうに喉が鳴る。単に寝ているだけのようだ。向寵は目を閉じたまま、笑い顔になった。

「うおっ、可愛い」

 今度はネコひげが生えた頬を指で突っついては、しばらく悦に入る。


 ふにゃ、と向寵は目を開けた。背伸びをして、大きなあくびをする。

「あまり天気がいいので、つい眠っちゃいました」

「ほら、あれ見てごらん」

「うわあ」

 向寵も船着き場の様子を見て声をあげた。

「まるで、戦争に向かうみたいですね……」


 ☆


 積み込みの指揮を執っているのは趙雲だった。

「趙雲どの、ご苦労さま」

「お帰りなさいませ」

 彼は船を降りてきた尚香を見ても険しい表情を崩さない。


「帰りました、将軍」

 だが尚香の後ろから小柄な少女が降りてくるのを見ると趙雲は相好をくずした。

「おお、向寵どの。よく帰ってきたな。お主がいないから、お兄さん寂しかったぞ」

 彼女の両手をとり今にも抱きつかんばかりだ。

 まったく荊州の男どもは……、尚香は吐き捨てた。


 蜀攻略に向かった劉備だったが、思うように戦況が進展していなかった。やはり中途編入の荊州軍を中心とした、いわば控え部隊だけでは無理があったらしい。ここでいよいよ主力軍投入という事になったのだ。

 

「ですが最初から武力に訴えるつもりではなかったですからね」

 自らも旅支度した諸葛亮が言う。蜀の国主 劉璋は北方の漢中地方に蟠踞する張魯ちょうろに手を焼いていた。五斗米道という宗教を基盤にした張魯の勢力は年をおって拡大し、蜀にとって脅威となっていた。

 さらに漢中を目指し曹操が侵攻してくるという情報に接し、困り果てた劉璋は、同じく漢の皇族に繋がるという劉備に救援を求めたのだ。


 入蜀当初は友好的だった劉備と劉璋だったが、次第に劉璋の周辺から、劉備の真意を疑う声が上がり始めた。

「あの劉備という男は蜀を乗っ取るつもりなのだ」と。

 まさにその通りだったのだが。


龐統ほうとうなら、もっと上手くやってくれると思っていたのですがね」

 残念そうに孔明はうつむいた。蜀攻略軍の軍師として、劉備は孔明ではなく龐統を選んだ。これは後に残した荊州の統治に力点をおいた人選であり、龐統の起用は実戦でその能力を確かめようとしたのだろう。

 龐統は『鳳雛ほうすう』として、『臥竜がりょう』諸葛孔明と並び称されるほどの荊州の俊英だった。そして戦術面では龐統の方に分があると劉備は感じていたのかもしれない。

 これがうまくいけば、内政は諸葛孔明、軍事は龐統という役割を確立できるはずだった。


 だがその結果は無残なものだった。劉璋に対する工作は破綻し、劉備と劉璋は戦闘状態となった。軍師龐統は成都を目前にしたらく城の攻防で流れ矢により戦死し、劉備の構想は早くも挫折した。



「では行ってくるぞ、向寵」

 うるうるとした瞳で張飛が挨拶に来た。


 諸葛孔明をはじめ、張飛、趙雲が軍を率い蜀へ向かうことになったのだ。

「張飛、もっと義兄との別れを惜しまぬか」

 荊州の総責任者に任命された関羽が苦笑しながら言った。


「いいなあ、関兄は。なあ向寵、やはり俺と一緒に行かないか」

「そうだ。それがいい」

 急に大声をあげたのは向朗だった。彼もまた蜀行きに選ばれている。冗談めかしてはいるが、目が本気だった。


 進発していく大軍に手を振る向寵。彼女は引き続き馬良のもとで異民族対策にあたる事になっていた。


 ☆


「馬良さまって、5人兄弟なんですか」

 向寵は拡げた竹簡から顔をあげ、問いかけた。

「そうですよ。私は四男にあたります」

 それにしてはひとりを除き、他の兄弟の姿を見ない。

 ああ、それはと馬良は表情を曇らせる。


「二人の兄は父と一緒に、長安で曹操に殺されたのですよ」

「そうでしたか……」

 馬良と下の弟は、それ以前に母方を頼り荊州に移住していたのだ。

 向寵と馬良はしばらく瞑目した。


「残る長兄が、涼州(中原の北西部)で反曹操の軍を率いて転戦しているのです」

 乾燥した冷たい風が吹く荒涼とした土地で、騎馬民族を多く味方につけているという、僅かな情報が伝わっていた。


「名前は馬超ばちょうと云います。でも、今はどうしているのだろう」

 へえ、馬超さん。向寵はその名前を口の中で繰り返した。


 まだ少年のような男が部屋に入ってきた。彼が馬良の弟、馬謖ばしょくだった。諸葛孔明に気に入られ、幕僚として働いている。襄陽に最後に残った孔明の部隊も出立準備が整ったようだ。

「では兄上、私も孔明さまと共に参ります」

 一礼した馬謖は向寵の方を見た。すっと目を細める。


「このような蛮族を身近に置くのは感心しませんね。こいつらは、いつ裏切るか分かりません。とっとと追放すべきなのです」

 顔色を変えた向寵に蔑むような視線を送り、馬謖は出て行った。


「すまない向寵。あいつも異民族との融和は必要だと分かっているのだが、どうしてもああいう言い方をしてしまうのだ」

 馬良は固い表情で腕組みをした。常々、馬謖が孔明に進言しているのも異民族との協調路線の推進なのだけれど。


「つまり口先だけの男ですか……あ、これは失礼しました」

「いや。向寵の言う通りかもしれない」

 弟の行く末を案じ、馬良の表情は晴れなかった。


 こうして襄陽には関羽が残り、馬良がそれを補佐する体制になった。

 向寵は広くなったように感じる陣営内を歩きながら、遠く蜀に思いを馳せていた。

「わたしも行ってみたかったな、蜀」


 いったい、どんな所なんだろう。

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