第8話 陸遜は左遷され、猫娘は荊州へ帰る

 あてもなく歩いていると、役所街らしき一画に迷い込んでしまった。

「これはさすがにマズイかな」

 向寵は慌ただしく歩き回る事務官たちを避けながら出口を捜す。自由に見て回ってもいいと孫権からは言われているが、こんな場所をうろついていたら間諜扱いされても不思議じゃない。何より殺風景で、見ても全然面白くない。


「そこの君。こんな処に入ってはいけないよ」

 声を掛けられて振り向くと、両手に竹簡を抱えた若い男が立っていた。

 彼は向寵を見て、小さく声をあげた。

「なんだ、荊州の猫娘じゃないか」

 彼は端正な顔を少しほころばせた。


「あの半魚人と一緒にいた人!」

 向寵も気づいて指差す。諸葛謹と甘寧が呉の使者として荊州を訪れた時、使者団の一員だった青年だ。

「誰だ、半魚人って。……僕は陸遜だ。一度名乗ったはずだけど」


「そうか、荊州から使者が来ているという事だったけど、君だったのか」

「いえ、使者というより、体のいい人質みたいなんですけど」

 ふーん? と陸遜は首をかしげた。

「で、こんな役所の真ん中でなにやってるんだ。散歩かい?」

「ま、まあそんなところで……」

 困り果てたような向寵の様子に、陸遜はくすっと笑った。


「ではこの書類を置いたら、この辺りを案内してあげよう。こんな時間だから、お腹も空いてるんじゃないか」

「はいっ!」

 元気よく答える向寵。

「じゃあ、まず僕の役所まで付き合ってくれるかい」


 建物に入った途端、事務官僚たちが陸遜に一礼した。

「陸遜くんって、偉い人なのかな」

 向寵が呟くと、彼は苦笑した。

「いや僕はこの東曹やくしょの副長だから、そこまで偉いわけじゃない」

 だが、そうは云っても中央政府の上級役人には違いない。へえ、と向寵はこの真面目そうな青年を見直した。


「じゃあ、ちょっと歩いてみようか」

 そういって役所を出た瞬間、陸遜は立ち止まって大きな声をあげた。

「ああっ、そうか。甘寧どのの事か!」


 向寵は、身体を折り曲げて笑う陸遜を不思議そうに見る。

「どうしたんですか、急に」

「ご、ご免。やっと分かった。……ずっと、半魚人って誰かなと思ってたんだ」

 気付くのが遅いだろ! 向寵もつられて笑った。


「あの人の事は、ずっとああ云うものだと思っていたからなぁ。そういえば鱗の模様なんだよね、あの刺青」

 全く不思議だと思わなくなるなんて、慣れって怖いな。陸遜は真剣な顔で頷く。

「またひとつ、勉強になった」

 やはり、とことん真面目なのだった。


 ☆


 陸遜がご馳走してくれたのは湯麵だった。やや透明な平たい麺を珍しそうに見る向寵に陸遜は説明する。

「これは米粉で作った麺なんだ。そうか、荊州では小麦が主流かもしれないな」

「そもそもにゃお族はこんな細く作らないけどね」

 蒸して粒食するか、煮溶かして粥状にして食べるのが殆どだ。

 

 一方の陸遜は手にした箸を見詰め、考え込んでいる。

「どうしたの、食べないの?」

「あ、ああ。向寵は箸の長さが違うのが気にならないか?」

 確かに自分のも少しだけ違っているかもしれないが。

「全然、気にならない」

 陸遜は大きく息をついた。


 どうやら真面目な上に、相当に几帳面らしい。

「陸遜くんとは性格が合いそうにないね」


 

「僕は間もなくこの都を出る」

 陸遜はスープまできれいに飲み干し、顔をあげた。

「ある小さな県の令(知事)になるんだ」

 へえ。向寵は曖昧に頷いた。


「僕は以前から孫権さまに、異民族の山越を力で押さえつける政策は止めて、融和方針を取るべきだと言い続けていたんだ」

 それで中央官庁から地方の県令になるというなら、それは……。

「僕自身でそれを実践してみせろ、という事だと思うんだ」

 爽やかな笑顔を見せる陸遜。


 いや、それは……。だが向寵も、その先はさすがに口にできなかった。

(それって、あからさまな左遷じゃないの)

 どう考えても、口うるさい若造を辺地に飛ばしただけに思えるのだが。

 まあ、本人が嬉しそうだからいいけど。


「ああ、やっと見つけた」

 見ると、護衛の武装侍女軍団を引き連れた孫尚香だった。

「向寵ちゃん、やっと荊州に帰れることになったよ。出発は明後日。荷物をまとめておいてね」

 そう言うと、向寵と陸遜を交互に見比べ、にやーっと笑う。

「おやおや、これはお邪魔をしてしまったようだわね」

 ではごゆっくり、そう言い置いて尚香は去っていった。


「そうか、向寵も帰ってしまうのか」

 陸遜は小さな器に淹れたお茶を一口飲んだ。

 向寵も黙ってそれを啜った。しばらく、沈黙の時間が過ぎた。


「あの、陸遜くん」

 うん? 彼は顔をあげ、向寵を見た。


「最後ににゃお族のお別れの挨拶をさせてもらっても、いいかな」

 向寵の頬が少し紅潮している。

「それは、別に構わないけど……」

「そうか。よかった」


 えへん、とひとつ咳ばらいをした向寵は陸遜の隣に座った。

「あの、何を?」

 向寵は陸遜の頭を両手で押えると顔を近づけ、勢いよく唇を合わせた。

「……?!」


「これが伝統的な挨拶みたいだよ。猫族の」

 長い口づけのあと、向寵は席を立った。

「じゃあ、陸遜くん。またどこかで会えたらいいね!」

 真っ赤な顔でそう言って、駆け出すように店を出ていった。


 残された陸遜は茫然とした表情でつぶやく。

「猫族の挨拶って、鼻の頭を合わせるんじゃ、なかったっけ……」

 どうやら向寵は思い違いをしているようだ、陸遜は焦点の合わない目で、遠ざかる彼女の背中を見て思った。


 

 この二人の再会は、ずっと後年。蜀と呉の国境付近、夷陵いりょうの地での事になる。

 ―――互いに敵対する国の将軍として。

 


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