第7話 名将周瑜、建業に死す

 孫権が拠点とする建業の街は重苦しい雰囲気に包まれていた。

 人々に笑顔はなく、互いに声をひそめている。そんな中で、兵士だけが慌ただしく動き回っている姿は一種異様でもあった。


(何かが起きようとしている)

 それは向寵にも感じられた。

 隣を行く孫尚香はすでにその理由を知っているようだったが、それを訊くのは何故か憚られる気がした。


 彼女たち一行の向かう先にはひと際大きな建物があった。孫権の政庁となっている屋敷だった。衛士に誰何すいかされる事も無く彼女たちは中へと入って行った。


 ☆


「よく戻って来た、尚香」

 紫色のひげを持つ男、孫権が立ち上がって尚香を迎えた。

「兄さま、早速ですがお母さまにお会いしたいのですが。例の、話について」

「ああ、それはもうよい」

 孫権は面倒くさそうに手を振った。

「その話は終わりじゃ。というか、最初からそんな話は起きていないのだ」

「言っている意味が分かりません」

 尚香は身を乗り出し、兄を睨みつけた。


 向寵は左右に居並ぶ文武諸官のなかに橙色の髪を逆立てた男を見つけた。

「あ、半魚人だ」

 荊州に使者として訪れていた甘寧だ。視線が合った途端、甘寧は音をたてて壁際まで飛び退った。それを見て向寵は、にやーっと笑う。


(陸遜くんは居ないのかな)

 眼をこらしてみるが、どうやらこの広間にはいないようだ。まあ、そこまでの地位が与えられている訳ではないのだろう。


「私を騙したのですね!」

 尚香が激した声をあげた。

「そうではない。荊州攻めを行う際に、お前の身に危険が及ばないよう、呼び寄せようとしたのだ。分かってくれ、な、尚香」

 孫権が必死で宥めにかかるが、尚香の怒りは収まる様子がない。

 荊州攻め? 向寵は慌てて孫権を振り向いた。


 そこへ一人の男が駆け込んできた。そっと孫権に耳打ちする。

 孫権は視線を向寵向けた。

「そうか、周瑜が……」


 ☆


 病床の周瑜は、向寵を見てわずかに体を起こそうとした。

「すまぬが、こんな格好で失礼する」

 周瑜の病でやつれた顔が途端に『美周郎』と呼ばれた美青年の片鱗を見せた。


「荊州からの使者と聞いたが、なんと可愛らしい使者どのだな」

 少女とはいえ女性を前にすると、周瑜は本能的にかつての容色を取り戻すらしかった。


「赤壁の大戦での周瑜都督のご活躍は聞き及んでいます」

「そうか……」

 周瑜は何かを思い浮かべるように目を閉じる。頬に涙が流れた。

 目を逸らし、向寵はうつむく。


「諸葛…孔明。奴さえいなければ。なぜ天は、この周瑜を生んでおきながら、同じ時代に奴を生んだのだろうな」

 しばらく周瑜は人目もはばからず嗚咽した。

 曹操の大軍を打ち破ったのは明らかに周瑜の功績だった。だが、その後の諸葛孔明の策略によって、荊州の大半は劉備の手に落ちたのだ。


 やがて、周瑜は乾いた笑い声をあげた。

「これはみっともない所を見せてしまった。孔明どのに伝えてくれ。必ず荊州は呉のものとする、とな」

 落ちくぼんだ眼窩の奥にはまだ鋭い光があった。

 向寵は頷いた。


「ところで向寵どの。私が病に倒れたと知るや、曹操はこの江南に兵を進めている。もう間もなく戦が始まるだろう」

 街中の慌ただしさは開戦準備だったのだ。


 周瑜はそこで大きく咳込んだ。口の端についた血を、傍らの女性が拭う。

「これも何かの縁であろう。わが呉軍の戦い振りを見ていってはどうだ」

 きっと面白いものをお目にかけられると思う……。周瑜の声は次第に小さくなっていった。

「……荊州攻めは、そのあとだ」

 そう言うと周瑜は疲れ果てたように目を閉じた。


 ☆


 呉攻略のために集結した曹操軍の陣容は、先の赤壁の大戦に匹敵するものだった。これは敗戦など歯牙にもかけないという曹操の強い意志の表れだ。

 赤壁は長江のやや上流に当たるが、ここ濡須口じゅしゅこうは建業にほど近い。曹操は呉の都を直撃し、一気に片をつけるつもりだった。


「なに、要塞が出来ているだと?」

 曹操は参謀の程昱ていいくの言葉に耳を疑った。そんなものが有るなどという情報は聞いた事がなかったのだ。

「大方、急ごしらえの粗末なものとは思いますが、長江沿いに巨大な防壁が出来ております」

「厄介だな……」

 速戦即決を期していた曹操軍は、大軍だけに兵糧輸送に難を抱えている。長期戦に持ち込まれる訳にはいかなかった。


 これは呉の将軍、呂蒙りょもうの発案によるものだった。長江の両岸を要塞によって固めることで、制海権ならぬ大河の支配権を確立するのだ。



 向寵は尚香と共に最前線の要塞へやって来ていた。長江北岸へ船をつけ、その”要塞”を見た二人は思わず言葉を失った。


「どうだ。ネコの嬢ちゃん。すげえだろ。俺が造ったんだぜ」

 城頭に立ち、バカ笑いしているのが司令官の呂蒙将軍だった。まだ若いが、周瑜、魯粛に次ぐ逸材として知られているらしい。でも全くそうは見えないが。

 向寵は口が開きっぱなしになっていた。


「最近、勉学に目覚めたと評判になっていたのに全然変わってないじゃないか」

 あきれ顔で尚香が言った。『男子、三日会わざれば刮目かつもくして見るべし』とはこの呂蒙について言った言葉だ。単なる武侠だった呂蒙が一念発起、文武両道の名将になった事をいう。


「まったく、別の意味で刮目しちゃいそうだな、この”要塞”は」


 正面からだと要塞に見えるが、裏から見ると、立杭に板が打ち付けてあるだけと分かる。つまり張りぼてだ。強風でも吹いたら、ばたばたと倒れそうだった。

 

「なあに、心配するな。要は、近づけなきゃいいんだからよ」

 呂蒙は自信満々だ。

「見ろ、曹操軍はビビッて進軍が止まってるじゃねえか。もうこっちのもんだ」

 

 曹操軍の後方で喚声があがった。

「始まったな」

 遠く迂回した周泰しゅうたいの軍が曹操軍の後背を襲ったのだ。大きく混乱する敵軍を見ながら呂蒙は満足げに頷いた。


「そろそろ、水軍がやって来るころだな」

 陣中にざわめきが拡がった。

 半壊し、沈みかけた軍船がいくつも流れてきたのだ。すべては曹操軍のものだった。それを追うように『甘』の旗を掲げた闘艦が河を下って来る。

 舳先に立っている男は、橙色の逆立った髪と刺青の異形の武将だった。

 甘寧は向寵に気付いたが、今度は得意げに剣を突き上げた。


 少数の軍を残し、曹操は北へ帰っていった。

 呉の完勝だった。

 

 だが、意気揚々と建業へ戻った呉軍を迎えたのは街中に響く鐘の音だった。


「弔鐘だ……」

 尚香は向寵の小さな手を握りしめる。


 この日、稀代の名将 周瑜は世を去った。





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