第6話 さらわれた向寵

 向寵の振るう木刀が孫尚香の肩口をかすめた。

 驚いた表情になったのは向寵も尚香も同じだった。今まで向寵の振るう剣先が、ほんの微かにも尚香に触れたことは無かったのだ。


「やられたか。腕を上げたね向寵ちゃん」

 だがその向寵は尚香の顔を見たまま真っすぐに退がり距離をとった。それが自分の技量によるものでは無い事を彼女が一番よく分かっていたからだ。

「尚香さま。何か心配事がおありなのでは」

 木刀を下した尚香は目を伏せ、小さく頷いた。



「兄から報せが届いてね。母が……」

 自室に戻った尚香は、ため息をついた。芳しい茶にも手を出そうとしない。

 孫権と孫尚香の母親は呉国太ごこくたいと呼ばれる。いまは亡き夫、孫堅と共に呉の基礎を築いた女傑として知られ、現在でも孫権やその麾下に対して絶大な影響力を持っているという。

「まさか、お身体の具合が?」

 老け込む程ではないにせよ高齢には違いない。病を得たのなら万が一という事も有りうるだろう。


「いえ、そうじゃないの」

 尚香は困惑顔で首を横に振った。


「母が、再婚したいと言っているんだって」



「そ……れは、良いんじゃないでしょうか」

 向寵としては、そう言うしかなかった。

「なんでも、一目会った時から忘れられない、とか」

「素敵なお話じゃないですか。で、お相手は誰なんですか」

 もちろん向寵は呉の内情に詳しい訳ではない。個人名を出されても分からないだろうが、そこは話の流れとして訊いてみた。

 しかし誰であれ、それは個人の自由だし、別に問題はないだろうと思う。


「それがね、相手は劉備さまなのよ」

 大問題だった。


 ☆


わたしもね、お母さまには幸せになって頂きたいし」

 いや。そう云う問題では無いような気がするのだが。

「どうするんですか。譲るつもりですか、劉備さまを」


 うーん、と考え込んだ尚香は、ぽっと頬を染めた。

「それは困るかな。だって劉備さまったら……」

 そう言って寝室の方へ艶っぽい視線をやる。

 どうやらこれは子供が立ち入っちゃいけない領域の話のようだ。


「だから、一度江南へ帰ってこようと思うの」

 確かにこれは当事者抜きで決められる話ではない。

「でも、許可が下りないのでは」

「そうなのよね」

 孫尚香の周辺警護は趙雲が行っていた。これは警護というより監視の意味合いが大きく、諸葛孔明から厳命されているのだ。

 趙雲は真面目で命令に忠実な男だ。彼女が勝手に里帰りするなど、絶対に許してくれる筈がなかった。


「まさか、詳しい事情を話す訳にもいかないし」

 それはそうだ。苦笑いとも何ともつかない表情で尚香はまた、ため息をついた。


「だから、強行突破しようと思うんだけど」

 意味ありげな視線を向寵に向ける。向寵は思わず逃げ腰になった。

「そんな話をわたしにしないで下さい」


「それでね、悪いんだけど向寵ちゃんには人質になって欲しいんだな」

 尚香の合図で、彼女の侍女たちが向寵を取り囲んだ。彼女たちはいつものように完全武装している。

「大丈夫。あとでちゃんとお礼はさせてもらうから」

 優しい声で尚香はささやいた。


 ☆


「どう、きつくない? どこか痛かったら言ってね」

 向寵はぐるぐる巻きに縛り上げられていた。尚香は縄の締まり具合を念入りに確認している。

「どこかと言うなら、胸が痛いんですけど」

「え、向寵ちゃんにそんなものがあったっけ」

「胸というか、正確には心が……。いまの言葉でもっと痛くなりました」

「ああ、それは我慢して」

 はあっと向寵は息をついた。なんで自分がこんな目に遭うのだろう。


 尚香とその侍女の一団は趙雲の部下たちを蹴散らし、あらかじめ用意した船へと飛び乗った。すでに出航の準備を整えた快速船は、すぐに江上へと漕ぎ出した。

「あの、尚香さま。わたしはいつ解放してもらえるのでしょう」

「きっと追手がかかると思うから、それを振り切ったらね」


「でもその時は長江の上ですよね。わたし泳げないんですけど」

 泣きそうな向寵を見ながら、尚香は首をひねった。

「うん、まあそうだね、そう言えば。……えーと、まあ心配しないで。何とかなるよ、きっと」

 曖昧にごまかされた。



「そこの船、待てーぃ!」

 船の姿より先に声が届いてきた。

「あ、張飛の声だ」

 小型船を一人で漕ぎながら、凄い勢いで張飛が迫って来る。それは仔猫を奪われそうになった親猫の形相と言ってもいい。

「俺の向寵を返せ!」


 眉を寄せ、尚香は向寵を見た。向寵は黙って首を横に振る。


「沈めておしまい!」

 尚香の命令で投石器が用意された。

 うなりを上げて飛んでいった巨石は、張飛の小舟を木っ端微塵に打ち砕いた。

「ごめんなさい、張飛将軍」

 波間を漂いながらまだ何か喚いている張飛に、向寵は心の中で詫びた。


 やがて別の快速船が数隻追いすがって来た。

 舳先には精悍な男が立っている。趙雲 あざなは子龍。容姿、性格ともに劉備軍では出色の存在だ。さらに武力においても関羽、張飛にひけを取らないという、まさに選ばれし男だった。

「お待ちください、孫夫人。どこへ行くおつもりか」

 戦場で鍛えたよく通る声で趙雲は吼えた。


「止まり頂けないようなら、力ずくで拘束いたしますぞ」

 漕ぎ手の能力が相当に違うようだ。趙雲の船団は見る見る接近してきた。


「仕方ない。この手は使いたくなかったんだけど」

 尚香はそういって向寵を立たせた。


「よく見なさい、趙雲将軍。向寵ちゃんがどうなってもいいの?」

 短剣を向寵の顔の前にちらつかせる。

「それ以上近付いたら、この子の猫ヒゲを切り落とすわよ」

「にゃうっ?!」

 向寵は本気で狼狽える。このヒゲはにゃお族の象徴なのだ。それに、これが無くなると日常生活にも色々と支障が出てきかねない。


「お、おのれ。向寵を人質にとるとは、何と卑劣な」

 趙雲は歯がみして悔しがる。これでは手の出しようがない。


「孫夫人、では人質交換と行こう。それでどうだ」

「ほう、面白い。この子の代わりに誰を人質にくれるというのだ」

 趙雲は険しい顔で、ぐいと胸をはる。

「この私でどうだ」

 きゃーっ、趙雲さまっ! 尚香の後ろで侍女たちが黄色い悲鳴をあげた。


「うむ。概ね好評のようだが、もう一声かな」

 尚香は唇の端を少しだけあげ、趙雲の表情は強張った。

「なんと欲深な女どもめ。では……張飛将軍も一緒でどうだ」

 ずぶ濡れで甲板に引き上げられた張飛を指差した。

 数人の侍女が低く嬌声をあげたが、やはり一般女性受けはしないようだ。

 くっ、と趙雲は短く呻いた。


「仕方ない、ではその代わりに阿斗さま(後の劉禅・劉備の嫡子)でどうです」

 趙雲の後ろから、白装束の長身の男が姿を現した。

 諸葛孔明だった。

「それなら文句ないでしょう」


 すっ、と女たちの興奮が冷めた。

「あのね、孔明」

 尚香は肩をすくめ、首を横に振った。

「あれは……、うん。要らないかな」

「やはりそうですか」

 諸葛孔明は、がっくりと肩を落とした。厄介払いに失敗した表情だった。


「とにかく、うちの母親を説得したらすぐ戻りますから!」

 事情は言えないけど。


「分かりました。では向寵はこのまま江南へお連れください。ただし、お目付け役としてです」

 諸葛孔明は頷いた。

「ありがとう、孔明。よかったね向寵ちゃん。いっしょに江南へ行けるって」

 尚香は縛られたままの向寵に抱きついた。


「……なんで、わたしまで」

 自分の意思とは全く関係なく決まった江南行きに、向寵は茫然としていた。


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