第5話 仔猫の天敵、孫尚香
諸葛孔明と呉からの使者、
「なぜ、この大事な席に小娘がいる。我ら呉の使者に対し無礼であろう」
ほら見た事か、向寵はそっぽを向いた。
実はこれより前、会談に同席する者を決める際にひと悶着あったのだ。呉の副使である甘寧に匹敵する者といえば、劉備陣営では関羽をおいて他にない。それは衆目の一致するところだったのだが、何故か関羽自身がそれを固辞したのだ。
そういえば、広間で使者団を見た時から関羽は青い顔をしていた。
「まさか、また二日酔いですか?」
関羽は向寵を睨みつける。だがそこには普段の覇気は感じられない。向寵は驚いた。あの関羽が怯えている。
「そうではない。わたしは……なのだ……」
蚊の鳴くような声で関羽は言った。
「はあ?」
関羽は彼女の耳元に顔を寄せた。
「わたしは魚が苦手なのだ」
「……」
向寵は沈黙した。丸い目を見ひらき、関羽の青ざめた顔をじっと見詰めている。
「関羽将軍……、食べ物の好き嫌いはいけませんよ」
はあっとため息をついて向寵は言った。
まったく、いい大人が何を言っているのだか。しかも、なぜ今わざわざそんな事を告白する。
「そうではない! 魚の、あの死んだような目が怖いのだっ!」
どうしても甘寧の
「ま、まあ誰にも苦手はあるでしょうけど……」
この関羽という男はこれまで数多くの敵を殺傷してきた筈なのだが。
絶対に出席しないと頑なに言い張る関羽の代わりに、孔明の命令でなぜか向寵が出ることになったのだった。
☆
呉の使者の中にも若い
それを察した呉の正使 諸葛謹も、甘寧を宥めるでもなく、席に着いたままで厳しい表情を崩さない。
顔色を失っている荊州の事務官たちの中で、ただひとり孔明はへらへらと受け流しているが、それが逆に甘寧の怒りに本気で油を注ぐ形になっていた。
これでは埒が明かない。向寵は席を立ち、つかつかと甘寧の前に歩み寄る。
「なんだ、小娘」
訝し気な表情になった異形の武将を見上げ、向寵はにやりと笑った。
「お前、美味そうだな」
向寵はぺろりと舌なめずりし、にゃーう、と低く唸る。
「な、……」
甘寧の膝が震えはじめた。それに気づいた諸葛謹は大きく咳払いした。
「向寵どのと云われたな。席に着きなされ。会談をはじめましょう」
一礼して向寵は背を向けた。
「ちっ、魚とネコでは最初から分が悪い……」
向寵の小さな姿を見ながら、甘寧は忌々しげに呟いた。
結局、この会談ではかねてからの約束を確認するに留まった。つまり劉備が蜀を手に入れたら、荊州は呉の孫権に返還するというものだ。
「よもや劉備ともあろう方が、信義に
捨て台詞を残し、呉の使者は帰っていった。
☆
劉備陣営の中では割と傍若無人な向寵だが、ただ一人苦手な相手がいた。それは背後から音も無く近付き、いきなり向寵を抱きしめた。
「にゃうっ!」
悲鳴をあげる向寵に頬ずりしているのは、孫権の妹、孫夫人だった。名前は
「可愛いなあ、向寵ちゃんは可愛いなあ。ほら、もっとすりすりさせて」
「や、やめてっ。ちょっと、変なところを触ってはいけないのにゃ!」
なんとか振りほどき、荒い息をついて乱れた服を直す向寵を、孫夫人は頬に指をあて、笑みを浮かべて見ている。
「向寵ちゃんって、驚くとネコみたいになるから、本当に可愛いのよね」
「だからといって、いつも抱きつかれては困ります。剣を持っていたら思わずぶった斬ってしまいます」
凄む向寵に孫夫人は首をかしげた。
「おやおや、そんな事を言って。
「まあ、無理でしょうけど」
それは認めざるを得ない。孫夫人は今も腰に細剣を吊っている。それ以外にも全身に武器を隠し持っているという噂だ。とにかく武術の達人なので、向寵ごときが歯が立つ相手ではない。
「だったら相手をしてよ。旦那が居ないと暇で、身体がうずいて仕方ないの」
「誤解を招く発言はやめて下さい」
孫権の妹が劉備の奥さんになっているのには訳があった。
もともとは、孫氏の本拠地である
ところが、一体どこが良かったのか、尚香は父娘ほど歳が離れた劉備に心を奪われ、一緒に荊州に来ることになってしまった。孫権の悔しがり様は尋常ではなかった。
「よーし、じゃあ今日も剣の稽古だっ!」
孫尚香は向寵の首根っこを掴むと、嬉々として中庭へ向かった。
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